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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之18 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之18 - ページ 25

ページ: 25

翻刻

【挿し絵】 芭蕉庵(はせをあん)  古池や    蛙   飛    こむ  水の    音   桃青 【本文】  《割書:むかしは社地(しやち)より南(みなみ)今(いま)の井上家(ゐのうへけ)|藩邸(はんてい)の地(ち)にありしとなり》 毎歳(まいさい)正月と九月の十三日には旧式(きうしき)の祭祀(まつり)あり  是(これ)を歩射(ふしや)と号(なつ)く相伝(あひつた)ふ昔(むかし)此地(このち)開創(かいさう)の里正(なぬし)深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)  宅地(たくち)に伊勢(いせ)両皇太神宮(りやうくわうたいしんくう)を勧請(くはんしやう)なし奉り泉養寺(せんやうし)の開山(かいさん)秀順法(しうしゆんほふ)  印(いむ)をして奉祀(ほうし)せしむるといふ此地(このち)は深川(ふかかは)氏 宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なりといへり 《割書:付(ふし)て|いふ》 《割書: 泉養寺記録(せんやうしきろく)に深川(ふかかは)の起立(きりふ)の事実(ししつ)を載(のす)其略(そのりやく)に云く深川(ふかかは)の地(ち)往古(そのかみ)は広々(くわう〳〵)たる原野(けんや)なりしに| 其頃(そのころ)摂洲(せつしう)の産(さん)にて深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)と称(しよう)する人ありてこの地に居住(きよちゆう)す然るに慶長(けいちやう)元年丙申》 《割書: 大将軍家はしめて此地(このち)に至らせたまひ此八郎右衛門に地名を問(とは)せたまひしかと旧(もと)より此八郎右衛門の| 外(ほか)に住(すむ)人もなき荒広(くわう〳〵)の地(ち)なれは地名(ちめい)もなきよし答(こた)へ奉(たてまつ)りしに然らは汝(なんち)此地(このち)を開創(かいさう)し苗字(めうし)》 《割書: 深川(ふかかは)の文字(もんし)を地名(ちめい)に唱(とな)へまうすへき旨(むね) 厳命(けんめい)ありしより深川(ふかかは)の地名(ちめい)発(おこる)といふこの八郎右衛門の| 子孫(しそん)数世(すせい)此地に住(ちゆう)して里正(なぬし)たりしか宝暦(はうりやく)の頃(ころ)故(ゆへ)ありて其家(そのいへ)断絶(たんせつ)せりされと泉養寺(せんやうし)は八郎右衛門か》 《割書:香花院(ほたいしよ)なる故(ゆへ)に今も猶(なを)深川(ふかかは)氏 累世(るいせ)の墳墓(ふんほ)存(そん)せり同所 砂村新田(すなむらしんてん)の東(ひかし)に八郎右衛門 新田(しんてん)と称(となふ)る耕地(かうち)| あるも此人 開発(かいはつ)せし故(ゆへ)の名(な)なり今 土俗(とそく)字(あさな)して其地(そのち)を四十丁村とよへり》 《割書:  因(ちなみ)に云この泉養寺(せんやうし)の池(いけ)に重弁紅花(ちやうへんこうくは)の蓮(はちす)あり花形(くはきやう)牡丹(ほたん)に髣髴(さもに)たり故(ゆへ)に開花(かいくは)の時(とき)を待(まち)てこゝに|  あそふ人 少(すくな)からす寛政(くはんせい)十年の晩夏(はんか)初(はしめ)て此花(このはな)を生(しやう)せしより今に至(いた)り年々しかり奇観(きくはん)とすへし》 万徳山弥勒寺(まんとくさんみろくし) 同所二丁あまりを隔(へたて)て弥勒寺橋(みろくしはし)の北詰(きたつめ)にあり真言新(しんこんしん)  義(き)の触頭(ふれかしら)江戸四箇寺(えとしかし)の一室(いつしつ)なり本尊(ほんそん)は薬師如来 《割書:世(よ)に河上薬師(かはかみやくし)と称(しよう)せり|伝記(てんき)失(うせ)たりとて其(その)来(らい)》 《割書: 由(ゆ)を| 知(しら)す》 中興(ちゆうこう)開山(かいさん)を宥鑁(いうはん)上人と号(かう)す総門(そうもん)の額(かく)に弥勒寺(みろくし)と書せしは朝鮮(てうせん)  国(こく)雪月堂(せつけつたう)の筆跡(ひつせき)なり当寺(たうし)旧(もと)柳原(やなきはら)の地(ち)にありしを天和(てんわ)二年 回禄(くはいろく)

現代語訳

【挿し絵】 芭蕉庵  古池や    蛙   飛び    込む  水の    音   桃青 【本文】 (昔は神社の敷地から南、現在の井上家の藩邸の土地にあったという)毎年正月と九月の十三日には昔ながらの祭礼がある。これを歩射(ぶしゃ)と呼ぶ。言い伝えによると、昔この地を開拓した村の庄屋である深川八郎右衛門という人が、自分の屋敷地に伊勢の両皇太神宮を勧請し、泉養寺の開山である秀順法印に祀らせたという。この地は深川氏の屋敷跡だと言われている。 (付け加えて言うと、泉養寺の記録に深川の成り立ちの事実が記載されている。その要約によると、深川の地は昔は広々とした原野であったが、その頃摂津国出身で深川八郎右衛門某と称する人がこの地に住んでいた。そして慶長元年(1596年)、徳川家康が初めてこの地に来られ、この八郎右衛門に地名を尋ねられたが、もともとこの八郎右衛門以外に住む人もない荒れ広がった土地であったので地名もないと答え申し上げた。それなら汝がこの地を開拓し、苗字の深川の文字を地名として称えるべきであるとの厳命があったことから深川の地名が生まれたという。この八郎右衛門の子孫が数代この地に住んで庄屋を務めていたが、宝暦年間(1751-1764年)に事情があってその家は断絶した。しかし泉養寺は八郎右衛門の菩提寺であるため、今でもなお深川氏累代の墓が残っている。同じ場所の砂村新田の東に八郎右衛門新田と称する耕地があるのも、この人が開発したことによる名前である。今、土地の人は俗に字名としてその地を四十丁村と呼んでいる。 ちなみに言うと、この泉養寺の池に重弁紅花の蓮がある。花の形が牡丹に似ているため、開花の時期を待ってここに遊びに来る人が少なくない。寛政十年(1798年)の晩夏に初めてこの花を咲かせてから今に至るまで毎年そうであり、珍しい景観とすべきである。) 万徳山弥勒寺 同じ場所から二町余り離れて弥勒寺橋の北詰にある。真言新義の触頭で、江戸四ヶ寺の一つである。本尊は薬師如来(世に河上薬師と称される。由来は記録が失われて分からない)。中興開山を宥鑁上人という。総門の額に「弥勒寺」と書かれているのは朝鮮国雪月堂の筆跡である。当寺はもと柳原の地にあったが、天和二年(1682年)に火災に遭った。

英語訳

【Illustration】 Bashō-an (Bashō's Hermitage)  The old pond—    a frog   jumps    in,  the sound    of water   Tōsei (Bashō) 【Main Text】 (In the past, it was located south of the shrine grounds, in what is now the land of the Inoue family's domain residence.) Every year on the 13th days of the first and ninth months, there are traditional festivals. These are called busha (archery ceremonies). According to tradition, long ago a village headman named Fukagawa Hachirōemon, who pioneered this area, invited the kami of both Grand Shrines of Ise to his residential land and had the founding priest Shūjun Hōin of Senyōji Temple serve them. This place is said to be the former site of the Fukagawa family residence. (Additionally, the records of Senyōji Temple contain facts about the establishment of Fukagawa. According to the summary, the land of Fukagawa was originally a vast wilderness, and at that time there lived a person from Settsu Province who called himself Fukagawa Hachirōemon. In the first year of Keichō (1596), when Tokugawa Ieyasu first came to this land, he asked this Hachirōemon about the place name. Since it was desolate, sprawling land with no other inhabitants besides this Hachirōemon, he replied that there was no place name. Thereupon came the strict command that he should pioneer this land and use the characters of his surname "Fukagawa" as the place name, which is how the name Fukagawa originated. This Hachirōemon's descendants lived in this area for several generations serving as village headmen, but during the Hōreki era (1751-1764), due to certain circumstances, the family line was discontinued. However, since Senyōji Temple was Hachirōemon's family temple, the graves of the Fukagawa family from successive generations still remain. The farmland called Hachirōemon Shinden to the east of Sunamura Shinden in the same area is also named after this person's development. Today, the local people colloquially call that area Yonjūchō-mura as a place name. Incidentally, in the pond of this Senyōji Temple there are lotus flowers with double red petals. Because the flower shape resembles peonies, many people come to enjoy them during blooming season. Since these flowers first bloomed in late summer of Kansei 10 (1798), this has continued every year until now and should be considered a remarkable sight.) Mantokusan Mirokuji Temple: Located about two chō away from the same place, at the north end of Miroku Bridge. It is a Shingon Shingi sect temple head and one of the four temples of Edo. The principal deity is Yakushi Nyorai (commonly called Kawakami Yakushi; its origins are unknown as records have been lost). The restorer and founder is called Priest Yūban. The inscription "Mirokuji" on the main gate was written by Setsugetsu-dō of Korea. This temple was originally located in Yanagihara but suffered a fire in Tenna 2 (1682).