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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之18 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之18 - ページ 28

ページ: 28

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 の後(のち)此地(このち)へ移(うつ)されたり毎月八日十二日を縁日(えむにち)として参詣(さんけい)多(おほ)し 深川八幡宮御旅所(ふかかははちまんくうおたひしよ) 大川端(おおかわはた)大船倉(おふなくら)の前(まへ)にあり富賀岡八幡宮(とみかをかはちまんくう)祭(さい)  礼(れい)の砌(みきり)は神輿(みこし)此地(このち)へ渡(わた)らせらる 弁財天(へんさいてん)社 同所 一(いち)の橋(はし)の南(みなみ)の詰(つめ)にあり祭所(まつるところ)相州江島(さうしうえのしま)に同し元禄(けんろく)  の始(はしめ)総検校(そうけんきやう)杉山氏(すきやまうち)勧請(くはんしやう)す己巳の日参詣(さんけい)多(おほ)し 《割書:相伝(あひつた)ふ杉山検校(すきやまけんきやう)奥州(あふしう)の|産(さん)にして信都(けいいち)といふその》 《割書: 志(こころさし)天下(てんか)に名(な)をなさんことを欲(ほつ)し三七日の間 飲食(いんしい)を断(たち)て相州江島(さうしうえのしま)に至(いた)り天女崫(てんによくつ)に参籠(さんろう)し| 至心(ししん)に其事(そのこと)を祈請(きしやう)せしに果(はた)して霊験(れいけん)あるを以て竟(つい)に鍼術(しんしゆつ)に妙(めう)を得たり故(ゆへ)に世に称(しよう)して》 《割書: 杉山流(すきやまりう)といふ慶安(けいあん)の頃 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り屢(しは〳〵)営中(えいちゆう)に召(めさ)れ泥近(ちつきん)す元禄(けんろく)のはしめ今(いま)の地(ち)をたまふこゝにをいて| 一派(いつは)の規矩(きく)備はれり毎年(まいねん)二月十六日六月十九日には瞽者宝前(こしやはうせん)に集会(しふくわい)して琵琶(ひわ)を弾(たん)し平曲(へいきよく)を》 《割書: 奏(そう)す京師(けいし)積塔舎にならふて行ふ所(ところ)なり|》 国豊山回向院(こくふさんゑかうゐん) 両国橋(りやうこくはし)の東詰(ひかしつめ)にあり 《割書:昔(むかし)は此 辺(あたり)も柳島(やなきしま)の中(うち)にして大西(おほにし)と|称(しよう)したる由 事跡合考(しせきかつかう)といへる冊子(さうし)に見(み)ゆ》 当寺(たうし)は  称念(しようねん)上人の遺風(ゐふう)にして捨世一派(しやせいいつは)の仏域(ふついき)たり明暦(めいれき)三年丁酉の春(はる)大火(たいくは)  の時(とき)焼死(せうし)の輩(ともから)の冥魂(めいこん)追福(ついふく)のため毎歳(まいさい)七月七日 大施餓鬼(おほせかき)法会(ほふゑ)を  修行(しゆきやう)す又同八日 仏餉施入(ふつしやうせにふ)の檀主(たんしゆ)現当両益(けんたうりやうやく)の法事(ほふし)あり総門(そうもん)の額(かく)  に国豊山とあるは縁山定月和尚(えんさんちやうけつおしやう)の筆(ふて)なり  本堂(ほんたう) 本尊(ほそん)阿弥陀如来座像(あみたによらいささう)壱丈 許(はかり)あり 《割書:元禄(けんろく)十六年の冬当寺 回録(くはいろく)の|災(わさはひ)にかゝりてむかしの本尊 金(こん)》 《割書: 銅(とう)の阿弥陀仏(あみたふつ)銷化(とろけ)る故(ゆゑ)に当寺第四世 観誉(くはんよ)上人 祐鑑和尚(いうかんおしやう)ふたゝひ今の本尊を造立(さうりふ)す堂前に存(そん)する| 所の銅像(とうそう)の鋳型(いかた)をもて本尊とすこの堂むかしは今の方丈(はうちやう)の地にありしを天和(てんわ)二年 回録(くはいろく)の後(のち)当寺》 《割書: 第三世 喚霊和尚(くはんれいおしやう)今の| 地にうつされたりといふ》 備中千体阿弥陀如来(ひちゆうせんたいあみたによらい) 《割書:後堂(こうたう)に安置(あんち)す俗(そく)称(しよう)して奥(おく)の院(ゐん)といふ|本尊 長(みたけ)一尺一寸 恵心僧都(ゑしんそうつ)の作にして》 《割書: 黒本尊(くろほんそん)と同体(とうたい)なりといふ縁山(えんさん)二十三世の貫首遵誉(くはんしゆしゆんよ)貴屋(きをく)上人 念持仏(ねんちふつ)にして明暦(めいれき)の大火(たいくは)に焼死(せうし)| 溺死(てきし)せる所の十万八千余人の亡者(まうしや)を回向(ゑかう)あるへき旨(むね) 命(めい)せられ其頃(そのころ) 官府(くはんふ)より仮(かり)の仏(ふつ)堂を造営(さうえい)》 《割書: せしめたまひしかはこの霊像(れいさう)を本尊となして回向ありしと| なり故に焼死(せうし)溺死(てきし)の亡魂(ほうこん)得脱(とくたつ)の如来(によらい)とも称(しよう)したり》 三仏堂(さんふつたう) 《割書:本堂の右にあり弥陀(みた)釈迦(しやか)大日(たいにち)|等(とう)の三尊(さんそく)を安置(あんち)すこの堂は》 《割書: 牢死(らうし)刑死(けいし)の者の幽魂追福(いうこんついふく)の為 万治(まんち)年間 官府(くはんふ)より建立(こんりう)なしたまひし堂前の石塔婆(せきたふは)に其 旨趣(ししゆ)を| 彫付(ほりつけ)られてあり当寺より日々に大江戸の市街(いちまち)を順行(しゆんかう)し仏餉(ふつしやう)を乞(こふ)所(ところ)の僧徒(そうと)十六口常にこの堂中(たうちゆう)に居(を)れり》 一言観音(ひとことくはんおむ) 《割書:池の傍(かたはら)にあり本尊 聖観音(しやうくはんおん)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作なり南都招提寺(なんとせうたいし)より遷(うつ)すといふ有信(うしん)の|人ありて至心(ししん)にこの本尊を念すれは其(その)祈願(きくはん)一言(ひとこと)にして成就(しやうしゆ)する故(ゆへ)に霊応(れいおう)の著(いちしるき)を》 《割書:表(ひよう)して|いふと也》 弁財天(へんさいてん)祠 《割書:同所にあり世に藁裹(わらつと)弁才天(へんさいてん)と称(しようす)昔(むかし)当寺(たうし)の開山(かいさん)上人 勤行(こんきやう)念仏(ねんふつ)の間|仏堂の前にして藁裹(わらつと)に弁才天(へんさいてん)の御首(みくし)はかりを入たるを拾(ひろ)ひ得(え)たりまさ》 《割書: しく弘法大師(こうほふたいし)の作なるへき事を推知(すいち)し新(あらた)に仏体(ふつたい)を|彫刻(てうこく)して小祠(ほこら)を営(いとな)み当寺の護法神(こほふしん)とあかめたりといへり》 馬頭観世音(はとうくはんせおむ) 《割書:本堂(ほんたう)の前左(まへひたり)の方にあり明暦(めいれき)中|幕下(はくか) 御慈愛(こちあひ)の名馬(めいは)斃(へう)し》 《割書: たるを深(くか)くあはれませたまひ当寺に葬(はふむ)り吊(とふら)ふへき旨(むね)| 台命(たいめい)ありしにより開山(かいさん)上人 馬頭観音(はとうくはんおん)にあかめけるといへり》 円光大師(えんくわうたいし)堂 《割書:同しならひにあり|円光大師(ゑんくわうたいし)播州(はんしう)室津(むろのつ)の》 《割書: 遊女(いうしよ)某(それかし)乞(こふ)にまかせて作りたまふ時に船子(ふなこ)出船(しゆつせん)を急(いそき)告(つけ)けれは御首(みくし)はかりをあたへらる其後(そのゝち)彼(かの)遊女(いうしよ)| 土をつかねて全身(せんしん)を造(つく)りそへたりとなり遊女(いうしよ)は尼(あま)となり念仏三昧(ねんふつさんまい)にして終(つい)に七十五歳にして大往生(たいわうしやう)》 《割書: を遂(とけ)たり| しと》 蓮池(れんち) 《割書:信誉(しんよ)上人常に蓮実(れんしつ)をもて念珠(ねんしゆ)に代(かへ)て称名(しようみやう)す其(その)蓮実(れんしつ)の積(つも)る事三十五石に|およへりとなり今この池(いけ)に生(しやう)する蓮(はちす)はこの種(たね)より生するところなりといへり》 樟(くす) 《割書:是も信誉上人 手自(てつから)植(うへ)られし|とて同し池のかたはらにあり》 阿弥陀如来銅像(あみたによらいのとうさう) 《割書:本堂の正面(しやうめん)にあり|座像(ささう)一丈六尺あり》

現代語訳

その後、この地へ移されました。毎月8日と12日を縁日として参詣者が多いです。 **深川八幡宮御旅所** 大川端の大船倉の前にあります。富岡八幡宮の祭礼の際には、神輿がこの地へ渡御されます。 **弁財天社** 同所の一の橋の南詰にあります。祭神は相模国江島と同じです。元禄年間の初めに総検校杉山氏が勧請しました。己巳の日に参詣者が多いです。 [伝承によると杉山検校は奥州の出身で信一といいました。その志は天下に名を成したいということで、21日間飲食を断って相模国江島に至り、天女窟に参籠して至心にそのことを祈請したところ、果たして霊験があったため、ついに鍼術に妙を得ました。故に世に杉山流と称します。慶安の頃、将軍の命を受けて何度も江戸城内に召され、側近に仕えました。元禄の初めに今の土地を賜りました。ここにおいて一派の規則が整いました。毎年2月16日と6月19日には盲人が宝前に集会して琵琶を弾き、平曲を奏します。これは京都の積塔舎にならって行うところです。] **国豊山回向院** 両国橋の東詰にあります。[昔はこの辺りも柳島の中にあって大西と称していたということが「事跡合考」という冊子に見えます。]当寺は称念上人の遺風にして捨世一派の仏域です。明暦3年(1657年)丁酉の春の大火の時、焼死した人々の冥福を祈るため、毎年7月7日に大施餓鬼法会を修行します。また同8日には仏餉施入の檀主のために現世と来世の両方の利益を願う法事があります。総門の額に「国豊山」とあるのは縁山定月和尚の筆です。 **本堂** 本尊の阿弥陀如来座像は一丈ほどあります。[元禄16年の冬、当寺は火災にかかって昔の本尊である金銅の阿弥陀仏が溶けてしまったため、当寺第4世観誉上人祐鑑和尚が再び今の本尊を造立しました。堂前に現存する銅像の鋳型をもって本尊としました。この堂は昔は今の方丈の場所にありましたが、天和2年の火災の後、当寺第3世喚霊和尚が今の場所に移されたといいます。] **備中千体阿弥陀如来** [後堂に安置されており、俗に奥の院といいます。本尊の高さは1尺1寸で、恵心僧都の作であり、黒本尊と同体であるといいます。縁山23世の貫首遵誉貴屋上人の念持仏で、明暦の大火で焼死・溺死した10万8千余人の亡者を回向すべき旨を命じられ、その頃官府より仮の仏堂を造営させ、この霊像を本尊として回向を行いました。故に焼死・溺死の亡魂得脱の如来とも称しました。] **三仏堂** [本堂の右にあり、弥陀・釈迦・大日等の三尊を安置します。この堂は牢死・刑死者の幽魂追福のため、万治年間に官府より建立されました。堂前の石塔婆にその旨趣を彫り付けてあります。当寺より日々大江戸の市街を巡回して仏餉を乞う僧徒16人が常にこの堂中にいます。] **一言観音** [池の傍らにあります。本尊は聖観音で恵心僧都の作です。南都招提寺より遷したといいます。信心のある人が至心にこの本尊を念ずれば、その祈願が一言で成就するため、霊験の著しいことを表してこう言います。] **弁財天祠** [同所にあります。世に藁苞弁才天と称します。昔、当寺の開山上人が勤行念仏の間、仏堂の前で藁苞に弁才天の御首だけを入れたものを拾い得ました。まさしく弘法大師の作であることを推察し、新たに仏体を彫刻して小祠を営み、当寺の護法神としたといいます。] **馬頭観世音** [本堂の前左の方にあります。明暦中、将軍がご慈愛の名馬が斃れたのを深くあわれまれ、当寺に葬り弔うべき旨の台命があったため、開山上人が馬頭観音としたといいます。] **円光大師堂** [同様に並んであります。円光大師が播州室津の遊女某の乞いに応じて作られた時、船子が出船を急いで告げたので御首だけを与えられました。その後、その遊女が土をこねて全身を造り添えました。遊女は尼となり念仏三昧にして、ついに75歳で大往生を遂げたといいます。] **蓮池** [信誉上人が常に蓮実をもって念珠に代えて称名しました。その蓮実の積もることが35石に及んだといいます。今この池に生する蓮はこの種より生するところであるといいます。] **樟** [これも信誉上人が手ずから植えられたとして、同じ池の傍らにあります。] **阿弥陀如来銅像** [本堂の正面にあります。座像で一丈六尺あります。]

英語訳

After that, it was moved to this location. Many worshippers visit on the 8th and 12th of each month, which are designated as festival days. **Fukagawa Hachiman Shrine御旅所 (Temporary Shrine)** Located in front of the large boat warehouse at Ōkawa-bata. During the festival of Tomioka Hachiman Shrine, the portable shrine is carried to this location. **Benzaiten Shrine** Located at the southern end of Ichi-no-hashi (First Bridge) in the same area. The deity enshrined is the same as that of Enoshima in Sagami Province. It was established in the early Genroku period (1688-1704) by Grand Inspector Sugiyama. Many worshippers visit on the days of the Snake (己巳). [According to tradition, Inspector Sugiyama was from Ōshū and was called Shin'ichi. His ambition was to make a name for himself throughout the realm. He fasted for 21 days and traveled to Enoshima in Sagami Province, where he secluded himself in the Celestial Maiden's Cave and earnestly prayed for his wish. As he indeed received divine blessing, he ultimately mastered the art of acupuncture. Therefore, it is called the Sugiyama School in the world. Around the Keian era (1648-1652), he received the shogun's command and was repeatedly summoned to Edo Castle to serve as a close retainer. In the early Genroku period, he was granted the current land. Here, the rules of his school were established. Every year on February 16th and June 19th, blind musicians gather before the altar to play the biwa and perform Heike recitations, following the practice of Sekitōsha in Kyoto.] **Kokufuzan Ekōin Temple** Located at the eastern end of Ryōgoku Bridge. [In ancient times, this area was also part of Yanagishima and was called Ōnishi, as recorded in a booklet called "Shiseki Katsukō."] This temple follows the tradition of Priest Shōnen and serves as a Buddhist realm of the Shasei sect. During the great fire of Meireki 3 (1657), a grand Segaki memorial service is held every year on July 7th to pray for the souls of those who died in the fire. Also on the 8th, there are memorial services for the benefits of both this world and the next for patrons who make offerings. The plaque reading "Kokufuzan" on the main gate was written by Priest Enzō Jōgetsu. **Main Hall** The seated statue of Amida Buddha is about one jō (approximately 3 meters) tall. [In the winter of Genroku 16 (1703), the temple suffered a fire disaster, and the old principal image, a bronze Amida Buddha, melted. Therefore, the temple's 4th abbot, Priest Kan'yo Yūkan, created the current principal image. The bronze statue mold that remains in front of the hall was used as the principal image. This hall was formerly located where the current abbot's quarters stand, but after the fire of Tenna 2 (1682), the temple's 3rd abbot, Priest Kanrei, moved it to its current location.] **Bitchū Thousand-Body Amida Buddha** [Enshrined in the rear hall, commonly called the Inner Sanctuary. The principal image is 1 shaku 1 sun tall, made by Eshin Sōzu, and is said to be of the same body as the Black Principal Image. It was the devotional Buddha of Priest Jun'yo Kioku, the 23rd head priest of Enzan. He was commanded to perform memorial services for the over 108,000 souls who died by fire and drowning in the Meireki fire. At that time, the government had a temporary Buddha hall constructed, and memorial services were performed with this sacred image as the principal Buddha. Therefore, it was also called the Buddha of Salvation for souls who died by fire and drowning.] **Three Buddha Hall** [Located to the right of the main hall, enshrining the three honored ones: Amida, Shakyamuni, and Dainichi. This hall was established by the government during the Manji era (1658-1661) for memorial services for the souls of those who died in prison or by execution. The stone stupas in front of the hall have these purposes carved into them. Sixteen monks from this temple who daily make rounds through the streets of Edo to beg for offerings constantly reside in this hall.] **One-Word Kannon** [Located beside the pond. The principal image is Shō Kannon, made by Eshin Sōzu. It is said to have been moved from Shōdaiji Temple in Nara. People with faith who earnestly pray to this principal image will have their wishes fulfilled with just one word, hence it is called so to express its remarkable spiritual efficacy.] **Benzaiten Shrine** [Located in the same place. It is commonly called the Straw-Wrapped Benzaiten. Long ago, while the founding priest of this temple was conducting Buddhist practices and nembutsu chanting, he found a straw wrapper containing only the head of Benzaiten in front of the Buddha hall. Knowing it was truly the work of Kōbō Daishi, he newly carved a Buddha body, built a small shrine, and made it the guardian deity of this temple.] **Batō Kanzeon** [Located to the left front of the main hall. During the Meireki era, the shogun deeply mourned when a beloved famous horse died, and issued a command to bury and memorialize it at this temple. Therefore, the founding priest dedicated it as Batō Kannon.] **Enkō Daishi Hall** [Located similarly nearby. When Enkō Daishi responded to the request of a certain courtesan from Murotsu in Harima Province, a boatman urgently announced the ship's departure, so only the head was given. Later, that courtesan made the complete body by kneading clay. The courtesan became a nun, devoted herself to nembutsu meditation, and ultimately achieved great enlightenment at age 75.] **Lotus Pond** [Priest Shin'yo always used lotus seeds instead of prayer beads for chanting. The accumulated lotus seeds reached 35 koku (about 175 cubic meters). The lotus growing in this pond today is said to come from these seeds.] **Camphor Tree** [This was also hand-planted by Priest Shin'yo and stands beside the same pond.] **Bronze Statue of Amida Buddha** [Located in front of the main hall. The seated statue is one jō six shaku (about 4.8 meters) tall.]