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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之18 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之18 - ページ 83

ページ: 83

翻刻

 の像(さう)は十六歳にならせ給ふ時(とき)自(みつから)親造(つく)り給ふとなり当寺(たうし)は淳和(しゆんわ)  天皇(てんわう)の嘉祥(かしやう)年間(ねんかん)慈覚大師(しかくたいし)東国遊化(とうこくいうけ)の頃(ころ)の創建(さうこん)にして帝(みかと)百(ひやく)  畝(ほ)の水田(すゐてん)を寄付(きふ)し給ふ天文(てんふん)の頃(ころ)此地(このち)祝融氏(しゆくゆうし)の災(わさはひ)にかゝりし  ときも太子(たいし)の霊像(れいさう)は自(みつから)火焔(くはえん)を遁(のか)れ出(いて)給ひて恙(つゝか)なかりしよし  江戸名所談(えとめいしよはなし)にみえたり

現代語訳

の像は十六歳におなりになった時に、自ら親しく造られたということである。当寺は淳和天皇の嘉祥年間(848-851)に、慈覚大師が東国遊化の頃の創建で、帝が百畝の水田を寄付なさった。天文年間(1532-1555)の頃、この地が火災にかかった時も、太子の霊像は自ら火炎を逃れ出なさって無事であったということが『江戸名所談』に見えている。

英語訳

The statue was personally created by Prince Shotoku himself when he was sixteen years old. This temple was founded during the Kasho era (848-851) of Emperor Junna, when the Great Master Jikaku was traveling and teaching in the eastern provinces, and the Emperor donated one hundred tan of paddy fields. During the Tenbun era (1532-1555), when this area was struck by fire, the sacred image of the Prince miraculously escaped the flames on its own and remained unharmed, as recorded in the "Edo Meisho Hanashi" (Tales of Famous Places in Edo).