賀茂社関係文書翻刻プロジェクト

コレクション: 賀茂社記録

賀茂社記録. 第24冊 - 翻刻

賀茂社記録. 第24冊 - ページ 34

ページ: 34

翻刻

     ヲ南方之官軍者十二月廿七日退散之間敏久ハ被退所      職教久ハ翌年正月四日如元可為神主之由披露之間      至正月三日無社務依之正月元日御戸開之神事者一社      一同加評儀致其沙汰了 正月二日節養ナシ依無      社務也三日節養者如元祝保歳令勤仕畢 《割書:三品》  教久卿  《割書:六ケ度》  康安元年十二月世上変化之間不用正平十六年      如元康安元年ト号ス翌年康安二年正月四日如      元可為神主之由於一社被披露了《割書:七十九》同年六月      廿一日令譲補社務職於正祢宜宗平教久ハ叙従三位      同年七月廿七日死去《割書:七十九》治五ケ月酒殿三品神主ト号ス      此時康安二年四月御祭之時見出ス本社ノ御酒参ラ      スル御杯御箸御台御桃子皆失サセ給フ是ハ何レモ      銀也希代之珍事也何レノ盗人取タリトモ不知三月三日迄ハ      渡ラセ給ヒシナリ御マカリシタリケルヤラン御前ニ取ワスレ      タリケルヤラン分明是ヲ覚スト申ス矢刀祢不沙汰也依之      社務成敗トナシテ白衣黄衣ヲ社頭ニ参籠セサセ起請文      ヲ書セシツヲ守ルトイエトモツイニアラハレス 《割書:員平一男》  宗平      康安二年六月廿一日受教久卿之譲神主ニ補《割書:五十》貞治四      年十二月廿四日本社之神服盗失之事ニヨリテ濫臨之咎ニ      ツイテ被解官了《割書:五十三》治四年 十月三日見出ス本社      之御鏁ハツレテ御戸アカセ給ヒタリトテ一社仰天ス以五      官之連署及奏聞之間可奉見知御内之由 勅許

現代語訳

南方の官軍は十二月二十七日に退散したため、敏久は職を退き、教久は翌年正月四日に元の通り神主となるべき旨が披露されたが、正月三日まで社務が不在であった。そのため正月元日の御戸開の神事は一社一同で評議を行いその沙汰を行った。正月二日は社務不在のため節養を行わなかった。三日の節養は元の通り祝保歳が勤仕を行った。 《三品》教久卿 《六度目》康安元年十二月、世上が変化したため正平十六年を用いず、元の通り康安元年と号した。翌年康安二年正月四日、元の通り神主となるべき旨が一社において披露された《七十九歳》。同年六月二十一日、正祢宜宗平に社務職を譲った。教久は従三位に叙せられ、同年七月二十七日に死去した《七十九歳》。治五ヶ月で酒殿三品神主と号した。この時、康安二年四月の御祭の時に判明したが、本社の御酒を献上する御杯・御箸・御台・御桃子がすべて失われていた。 これらはいずれも銀製で希代の珍事であった。どの盗人が取ったかも分からない。三月三日までは存在していたのだが、持ち去られたのか、御前に取り忘れたのか分明でない。これを覚えていると申す者もおらず、矢刀祢も不沙汰であった。そのため社務は成敗として白衣黄衣を社頭に参籠させ起請文を書かせて守らせたが、ついに現れなかった。 《員平一男》宗平 康安二年六月二十一日、教久卿の譲りを受けて神主に補任された《五十歳》。貞治四年十二月二十四日、本社の神服盗失の事により濫臨の咎について解官された《五十三歳》。貞治四年十月三日に判明したが、本社の御錠が外れて御戸が開いているとして一社が仰天した。五官の連署により奏聞に及び、御内を見知すべき旨の勅許があった。