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コレクション: アジアの映画関連資料アーカイブ

デンキカン・ニュース - 翻刻

デンキカン・ニュース - ページ 3

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(四) 大正十年六月二十三日発行 デンキカン・ニユース 第百三十号 【上段】    雑記 (一)            大津広次  私は長い間沈黙した。そうして忍耐して 人々の云ふ事を素直に受け入れてゐた、が もうその時ではない…………。  昨今、映画に対して弁士及音楽の廃止を 提唱する人々の多きを見受ける。そう極端 にまで行かなくとも、其の使用の範囲を或 る程度までと云ふ制限的な言論もある。或 ひは其の中間を行つて、弁士の廃止のみを 必要とする人々の言葉を知つてゐる。谷崎 潤一郎氏の如きも新小説誌上に於て 或る 場合の音楽廃止を意味する言葉を洩らして ゐる。  素より映画劇は無言劇なるが故に映画そ れ自身が其の内容のすべてを表現するを理 想としてゐるのは勿論である。此の意味に 於て私は此等の議論に頭をさぐるに吝では ない、が、音楽、弁士の廃止如何は一つに 映画が全き表現をなし得るや否やの問題に かゝつてゐる。そうして私は残念にも映画 それ自身のみにでその内容を全く表現し能 はざる事を認めねばならぬ。現今の映画に はその程度までの進化を求むる事は不可能 であらう。  かくするときは映画に対して、その表現 の不足を何に依つて補はんとするか。音楽 のデリケートとセンチメンタル・メランコ リー、そうして人々の心に喰ひ居る言愁感 は到底他に比す可くもないのである。 【中段】    私の説明感 (二)            秋渓生  是が正しいか、間違つて居るかは、説明 に確然たる定則が与へられない限、説明を 必要とする吾国では決定し憎い事です。是 を一方より見れば、観客は映画を見ると同 時に同じ講談を聞くやうなものですし、普 段はそれが大して可笑しいとも思ひませぬ が、国語幕文の邦映画劇となると、流石煩 雑で耳について苦情を云ふやうです。然し それは従来の説明法―即講談の形式を採つ たので、字幕が読めると云ふて苦情を言ふ のは言ふ人が悪いのです。何故なら長い間 に説明と云ふ形式に説明の領域を超えたも のが充されることを無意識的に黙許して了 ひ自身それに慣れて居るのですから。  畢竟、一般の観客は映画は映画として味 ひ、別に説明者の活□【術?】を一つの演芸の如く に取扱つて、讃美鑑賞するのに何の不思議 を感じて居りません。今でも丁寧に弁士評 をやる御仁がありますが、其人は説明と云 ふ事が直ちに講談の如くに思ふて居るので せう。然し過去の中毒的名説明も覚醒せる フアンの知能に依つて最近撃退せられまし た。  それでも現在に於て、映画上に無用な会 話が省略された場面を、沈黙 内に想像す るより、説明者の会話即科白を得て味ふ方 が吾々でも倦怠を招かない事は明らかです 是位に吾々は説明に慣れて居ります。此逆 論から行けば、簡単な字幕で劇を進めよう とする邦映画劇□【も?】説明廃止に於ては実地に 少なからぬ阻隔を生ずるでせう。 【下段】  以上の如くで、要するに日本人には説明 がいくらか不要であつても大体に於て必要 であります、一般民衆が今猶説明を力とす る事は変り無い筈です。説明は小数フアン 高級観客の言葉に応じて撤廃亦は縮少さる べきでないと断言を致します。  猶、説明は映画に属する物ではありませ ん、映画は絶対 完全であり、音学説明の 一片をも必要と致しません。説明は寧ろ観 客に属すべきものでせう。  最後に、説明は現在の儘で充分でありま す、亦それが拡張されるほど進化する程の 偉大な境地を持つて居るものでもありませ んから。唯、或館に於ては、是を最も高尚 な形式で現し、観客のレベルの低い館では 卑近な体裁を採れば宜しいのです。無説明 鑑賞と云ふ事などは、英語が達者で、活動 好の暇人が新らしい試み位に、不定期に青 年会館辺りで開けば結構でせう。東京に一 館位は無説明の館があつても宜いと或人が 申されましたが、その次に私は、高級な説 明音楽て観客に映画を鑑賞させる館が東京 に一軒あれば事足りると附け加へて置きま せう。       了(二一・四・二〇)    活動漫語 (二)  ドロシー、ダルトン嬢の映画界に入つた のはトーマス、エツチ、インス氏の配下に 加はつた時からである。当時一端役として 出演し或時はウイリアム、エス、ハート氏 と共演した事も有る。彼女の成功の第一歩 は「ユーコン河の侠妓」である。 大正十年六月二十三日発行 定価一部三銭郵税二銭         発行編輯兼印刷人  森田勝祐       浅草公園六区三号八番  デンキカン社               電話浅草三六二一・三六二二