← 前のページ
ページ 127 / 491
次のページ →
翻刻
して。拾(ひろ)ひし金子(かね)を戻(もど)したるに。彼(かの)傳蔵(てんざう)は某(それがし)が。厚意(かうい)を深(ふか)く謝(じや)し了(おは)り。
扨(さて)いふやう。我(われ)今朝(こんてう)職業(せうばい)の取引(とりひき)にて。金子(かね)を懐中(ふところに)して西(にし)の郷(かう)まで
行(ゆ)く序(ついで)。従来(じうらい)の得意(とくい)へ立寄(たちより)しが。折節(をりふし)主人(あるし)独杓(どくしやく)にて。酒(さけ)打飲(うちのみ)たる所
とて。能(よく)こそ来(きた)れり敢々(いざ〳〵)と。勧(すゝ)めの随々(まに〳〵)数盃(すはい)を傾(かたふ)け。軈(やが)て其家(そのや)を出(いで)
けるに。いか計(ばかりか)過酒(すご)しけん。十二分(しうにぶん)の酔(ゑい)を発(はつ)し。志方(こゝろさすかた)へは行(ゆき)がたく。漸々(やう〳〵)にして
帰宅(きたく)せしに。其折(そのをり)から落(おと)したる処(ところ)也。是(これ)我(われ)大切(たいせつ)なる国宝(しな)を携(たづさ)へながら。
過酒(くはしゆ)して前後(ぜんご)を弁(わきま)へざりしは。天(てん)われを懲(こら)し戒(いまし)め給ふ処(ところ)にて。落(おと)せし
金子(きんす)我(わが)ものならず。往来(ゆきゝ)許多(あまた)の大道(だいどう)にて。御身(おんみ)の手(て)に拾(ひろ)ひ給ふは。所謂(いはゆる)
天(てん)の与(あた)ふ処(ところ)にて。既(すで)に御身(おんみ)の至宝(たから)也。しかるを態々(わざ〳〵)持来(もちきた)り給ふ。其(その)老実(らうじつ)
は感(かん)ずるに余(あま)りあれど。我(わが)所得(もの)とはなしがたしと。彼(かの)財布(さいふ)をおし戻(もど)せり。
某(それがし)が申は。是(こ)は理(り)に似(に)たるの非(あやまり)なり。其所以(そのわけ)は。天(てん)御身(おんみ)が酒癖(しゆへき)を懲(こら)さん
が為(ため)に。至宝(たいせつ)の金(かね)を失(うしなは)しめ給ふ。しかれども我(われ)これを拾(ひろ)ひて帰(かへ)し来(きたる)