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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之6 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之6 - ページ 51

ページ: 51

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【右丁】  《割書:其形(そのかたち)甚(はなはた)|奇(き)なり》同 橋(はし)の下(した)に福石(ふくいし)と唱(とな)ふるものあり《割書:金澤四石(かなさはしせき)と称(しよう)するものゝ|一にして土人(としん)の諺(ことはさ)に此石(このいし)の》  《割書:前(まへ)にてものを拾(ひろ)ひ得(うる)事|あれは必(かならす)有福(いうふく)の身(み)となると云傳(いひつた)ふ》  鎌倉記行 社(やしろ)の前(まへ)は島(しま)をつき出して弁才天(へんさいてん)を勧請(くわんしやう)し嶋(しま)へは       㐧一㐧二の橋(はし)あり島(しま)のめくり古木(こほく)浦風(うらかせ)になひき       よる浪(なみ)しつ枝(え)をあらふ   波風も心もなきぬ大海をさなから神のひろまへに見て 澤菴 圓通寺(ゑんつうし) 日輪山(にちりんさん)と號(かう)す同所二町半斗 西(にし)の方(かた)道(みち)より右(みき)に  あり昔(むかし)法相宗(はふさうしう)にして南都(なんと)法隆寺(はふりうし)に属(そく)す今(いま)は天台宗(てんたいしう)に  改(あらた)#1りて江戸(えと)の東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)は元三大師(くわんさんたいし)を安置(あんち)す  開山(かいさん)は法慧法印(はふゑはふいん)と号(かうす)久世大和矦源廣之(くせやまとこうみなもとのひろゆき)寺領(しりやう)を附(ふ)  せらる  東照大権現宮(とうせうたいこんけんくう)《割書:山(やま)の上(うへ)に鎮座(ちんさ)なし奉(たてまつ)る郡官(くんくわん)|栁木氏(やなきうち)の勧請(くわんしやう)なりといふ》 昇天山(しやうてんさん)金龍院(きんりうゐん) 同所 西南(にしみなと)の方(かた)四町餘(  よ)を隔(へた)てゝ同し道(みち)の左(ひたり)  側(かは)の海岸(かいかん)にあり世俗(せそく)飛石山(とひいしやま)とも呼(よへり)禪宗(せんしう)にして 【左丁】  鎌倉(かまくら)の建長寺(けんちやうし)に属(そく)せり本尊(ほんそん)正観音座像(しやうくわんおんささう)二尺三寸 行基(きやうき)  大士(たいし)の作(さく)なり《割書:鎌倉志(かまくらし)に虚空蔵菩薩(こくうさうほさつ)を|本尊(ほんそん)とすといへともしからす》芳崖元圭和尚(はうかいけんけいおしやう)を以(もつ)て  開山(かいさん)とす《割書:和尚(おしやう)は儉約翁(けんやくをう)の法嗣(はふ  )なり|永徳(えいとく)三年九月十六日に寂(しやく)す》  飛石(とひいし)《割書:當寺(たうし)後園(こうゑん)の山(やま)の半服(はんふく)#2にありて髙(たか)さ一丈(いちちやう)あまり廣(ひろ)さ九尺はかりの巨(こ) |巖(かん)にして昔(むかし)瀬戸(せと)の三島明神(みしまみやうしん)豆州(つしう)より此(この)石上(せきしやう)に飛移(とひうつ)り給ふと云(いひ)》  《割書:傳(つた)へたりされと近頃(ちかころ)の地震(ちしん)に|震落(ふるひおと)して平地(へいち)に轉(まろ)ひてあり》  九覽亭跡(きうらんていのあと)《割書:同し山(やま)の上(うへ)にあり曲折(きよくせつ)して登(のほ)るいかなる人(ひと)の儲(まうけ)たりし亭(てい)の|跡(あと)なるや詳(つまひらか)ならす此所(このところ)の眺望(てうまう)も又 多景(たけい)なり寺僧云(しそういはく)此地(このち)の》  《割書:八景(はつけい)の能見堂(のうけんたう)を加(くは)へて見(み)るこゝろにて名(な)つけたりとなり|》 泥牛庵(ていきうあん) 金龍院(きんりうゐん)の前路(せんろ)を隔(へた)てゝ向側(むかふかは)にあり禪宗(せんしう)にして  鎌倉(かまくら)圓覚寺(ゑんかくし)に属(そく)す本尊(ほんそん)は七寸計(   はかり)の唐佛(たうふつ)の十一面観音(   めんくわんおん)の  像(さう)を安(あん)す此庵(このあん)の開祖(かいそ)は圓覚寺(ゑんかくし)の傳宗庵(てんしうあん)南山和尚(なんさんおしやう)《割書:諱(いみな)は|士雲(しうん)》  《割書:聖一國師(しやういつこくし)の嗣法(しはふ)なり建武(けんむ)三年|十月七日 寂(しやく)崇寿寺(そうしゆし)の開山(かいさん)なり》中興(ちゆうこう)は習甫玄道座原(しうほけんたうさけん)と号(かう)す  《割書:承應(しやうおう)|中(ちゆう)の人(ひと) 》當菴(たうあん)の南(みなみ)一町斗(   はかり)山(やま)の上(うへ)に古墳(こふん)二基( き)あり其一(その  )は海老名(ゑひな)  長門守(なかとのかみ)といへる人(ひと)の墓(はか)にして此人 泥牛菴(ていきうあん)にて自害(しかい)し

現代語訳

【右丁】 その形は非常に奇妙である。同じ橋の下に福石と呼ばれるものがある(金沢四石と称するもののひとつで、土地の人の諺では、この石の前で物を拾うことがあれば、必ず幸福な身となると言い伝えられている)。 鎌倉紀行では、「社の前は島を突き出して弁才天を勧請し、島へは第一・第二の橋がある。島の周りには古木があり、浦風になびいて寄る波が枝を洗う」とある。 「波風も心もなきぬ大海をさながら神のひろまへに見て」(澤庵) 圓通寺 日輪山と号する。同じ場所から西の方へ二町半ほど、道より右にある。昔は法相宗で南都法隆寺に属していたが、今は天台宗に改められて江戸の東叡山に属している。本尊は元三大師を安置している。開山は法慧法印と号し、久世大和侯源広之が寺領を付与された。 東照大権現宮(山の上に鎮座なさっている。郡官柳内氏の勧請だという) 昇天山金龍院 同じ場所から西南の方へ四町余りを隔てて、同じ道の左側の海岸にある。俗に飛石山とも呼ばれる。禅宗で 【左丁】 鎌倉の建長寺に属している。本尊は正観音座像二尺三寸で、行基大士の作である(鎌倉志では虚空蔵菩薩を本尊とするというが、そうではない)。芳崖元圭和尚を開山とする(和尚は儉約翁の法嗣で、永徳三年九月十六日に寂した)。 飛石(当寺後園の山の中腹にあって、高さ一丈余り、広さ九尺ばかりの巨岩で、昔、伊豆国の三島明神が豆州よりこの石上に飛び移られたと言い伝えられている。しかし近頃の地震で震落して平地に転がっている) 九覧亭跡(同じ山の上にある。曲がりくねって登る。どのような人が設けた亭の跡なのか詳しくは分からない。この所の眺望もまた変化に富んでいる。寺僧が言うには、この地の八景に能見堂を加えて見る心で名付けたという) 泥牛庵 金龍院の前路を隔てて向かい側にある。禅宗で鎌倉円覚寺に属する。本尊は七寸ばかりの唐仏の十一面観音の像を安置している。この庵の開祖は円覚寺の傳宗庵南山和尚(諱は士雲、聖一国師の嗣法で、建武三年十月七日寂、崇寿寺の開山である)。中興は習甫玄道座原と号する(承応年間の人)。当庵の南一町ほど山の上に古墳二基がある。そのひとつは海老名長門守という人の墓で、この人は泥牛庵で自害し

英語訳

[Right page] Its form is extremely peculiar. Below the same bridge there is something called the "Fortune Stone" (one of the four stones called Kanazawa Shiseki, and according to local proverb, if one picks up something in front of this stone, one will surely become blessed with good fortune). In the Kamakura Kikō (Travels to Kamakura), it states: "In front of the shrine, an island juts out where Benzaiten is enshrined, and there are first and second bridges to the island. Around the island, ancient trees sway in the sea breeze, and waves wash the branches." "Even waves and wind seem mindless, viewing the great ocean as if before the divine presence" (Takuan) Entsuji Temple - Called Nichirin-zan. About two and a half chō west from the same location, on the right side of the road. Formerly of the Hossō sect and affiliated with Hōryū-ji Temple in Nanto, it has now been converted to the Tendai sect and belongs to Tōeizan in Edo. The principal image enshrines Ganzan Daishi. The founding priest was called Hōe Hōin, and Kuze Yamato-no-kami Minamoto no Hiroyuki granted temple lands. Tōshō Daigongen Shrine (enshrined on top of the mountain; said to be established by county official Yanagiuchi) Shōtenzan Kinryū-in - More than four chō southwest from the same location, on the left side of the same road along the coast. Commonly called Tobiishi-yama. A Zen temple [Left page] affiliated with Kenchō-ji in Kamakura. The principal image is a seated statue of Shō Kannon, 2 shaku 3 sun tall, created by Gyōki Daishi (although Kamakura-shi states the principal image is Kokūzō Bosatsu, this is incorrect). Hōgai Genkei Oshō is considered the founding priest (the priest was a dharma successor of Ken'yaku-ō and died on September 16, Eitoku 3). Tobiishi (Flying Stone) (Located on the mountainside of the temple's rear garden, a massive rock about one jō high and nine shaku wide. It is said that long ago, Mishima Myōjin of Izu Province flew from Tōshū and alighted on this stone. However, due to recent earthquakes, it has fallen and now lies on flat ground) Kyūrantei Ruins (Located on the same mountain. One climbs along winding paths. It is unclear who built this pavilion. The view from this place is also quite varied. According to the temple monks, it was named with the intention of adding Nōkendō to the eight scenic views of this area) Teigyū-an - Located across the road in front of Kinryū-in. A Zen temple affiliated with Engaku-ji in Kamakura. The principal image houses a Tang Buddhist statue of Eleven-faced Kannon, about seven sun tall. The founder of this hermitage was Denshū-an Nanzan Oshō of Engaku-ji (his posthumous name was Shiun; he was a dharma successor of Shōitsu Kokushi, died on October 7, Kenmu 3, and was the founder of Sōshu-ji). The revival priest was called Shūho Kendō Zagen (a person from the Jōō period). About one chō south of this hermitage, on top of a mountain, there are two ancient tombs. One is the grave of a person called Ebina Nagato-no-kami, who committed suicide at Teigyū-an