翻刻
【右丁】
《割書:謚(おくりな)す肖像(しやうざう)は中山(なかやま)法華寺(ほつけし)にあり又 妙法(めうほふ)の住(すみ)たりし旧跡(きうせき)は今(いま)の金竜院(きんりうゐん)と米倉家(よねくらけ)陣屋(ちんや)の|間(あひた)いさゝかの地(ち)を荒井(あらい)と呼(よ)ふ前(まへ)の日荷(につか)上人 加持水(かちすゐ)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり又云 江戸(えと)谷中(やなか)延寿寺(えんしゆし)の》
《割書:記(き)に妙法(めうほう)禅門(せんもん)日荷(につか)上人は六浦(むつら)荒井(あらゐ)の城主(しやうしゆ)播磨守(はりまのかみ)と号(なつ)くるとあれとも城主(しようしゆ)といふ事 考(かんか)へ|す或(あるひ)は此妙法(めうほふ)は杉田(すきた)如法(によほふ)と号(なつけ)て北条(ほうてう)時頼(ときより)の臣(しん)なりと云(いふ)しかれとも時頼(ときより)逝(せい)する年歴(ねんれき)を》
《割書:以(もつ)て考(かんか)ふるにすこふる時代(したい)かなひかたし|》
寶篋(はうきやう)印塔(いんたふ)《割書:祖師堂(そしたう)の前(まへ)左(ひたり)の方(かた)の山(やま)の裾(すそ)にありて髙(たか)さ一丈二尺あまりあり|塔(たふ)の正面(しやうめん)には梵字(ほんし)を刻(こく)し横面(わうめん)には文治(ふんち)元年の年号(ねんかう)を刻(こく)せり》
《割書:當寺(たうし)往古(いにしへ)真言宗(しんこんしう)なりし證(しやう)なり|》
《割書:按(あんする)に米倉家(よねくらけ)陣屋(ちんや)の上なり上行寺(しやうきやうし)の後(うしろ)の山續(やまつゝき)は知足山(ちそくさん)龍華寺(りやうけし)の旧地(きうちなりし)|と云(いふ)今(いま)も上行寺(しやうきやうし)の後(うしろ)の山(やま)の上 畑道(はたけみち)の号(な)に花蔵院橋(けさうゐんはし)と号(なつ)くるものあるは昔(むかし)竜華寺(りやうけし)の》
《割書:支院(しゐん)花蔵院(けさうゐん)の門前(もんせん)にありし橋(はし)なる故(ゆゑ)にしか号(なつく)となり|》
鎌倉志(かまくらし)に當寺(たうし)什宝(しうはう)に位牌(ゐはい)一 枚(まい)あり日祐(にちいう)上人 筆(ふて)の曼陀羅(まんたら)を
彫(ほり)其下(そのした)に日祐(にちいう)上人一 世(せ)の間(あひた)引導(いんたう)せし人々(ひと〳〵)の法号(はふかう)俗名(そくみやう)を
挙(あけ)て應安(おうあん)三年と記(しる)せり又(また)日祐(にちいう)上人の大曼陀羅(おほまんたら)及(およ)ひ日蓮(にちれん)
大士(たいし)の消息(せうそこ)等(とう)を存(そん)する由(よし)記(しる)されたれとも今(いま)當寺(たうし)に傳(つた)へ
すと云(いふ)
金剛山(こんかうさん)嶺松寺(れいしようし)同所三丁斗を隔(へた)てゝ西南(にしみなみ)の方(かた)道(みち)より右側(みきかは)に
あり禅宗(せんしう)にして建長寺(けんちやうし)龍峯庵(りうほうあん)に属(そく)す本尊(ほんそん)に釋迦(しやか)如来(によらい)の
【左丁】
木像(もくさう)を安置(あんち)せり開山(かいさん)は月窻(けつさう)和尚(おしやう)と号(かう)す《割書:諱(いみな)は元暁(けんきやう)紀州(きしう)の人(ひと)|貞治(ていち)元年十一月》
《割書:二日|寂(しやく)す》儉約翁(けんやくをう)の法副(はつす)なり傳(つた)へ云(いふ)當寺(たうし)は千葉介(ちはのすけ)胤義(たねよし)の建立(こんりふ)也と
鎌倉志(かまくらし)に瀬戸(せと)明神(みやうしん)の鐘(かね)の銘(めい)に神主(かんぬし)平(たひらの)胤義(たねよし)とあり神主(かんぬし)は
平姓(へいせい)千葉氏(ちはうち)なり此人(このひと)の建立(こんりふ)欤(か)千葉(ちは)系圖(けいつ)にも胤義(たねよし)と云(いふ)
有(あ)り寺(てら)建立(こんりふ)の事(こと)いまた詳(つまひらか)ならすと云々《割書:因(ちなみ)に云(いふ)千葉家(ちはけ)累代(るいたい)の|塋域(はかところ)は本堂(ほんたう)の後園(こうゑん)百歩(ひやくほ)》
《割書:はかりを隔(へた)てゝ|山(やまの)傍(かたはら)にあり》
六浦(むつら)《割書:東鑑(あつまかゝみ)六浦(むつら)六連(むつら)|或(あるひ)は六面(むつら)に作(つく)る》東鑑(あつまかゝみ)に将軍家(しやうくんけ)此地(このち)に遊覧(いうらん)の事(こと)往々(わう〳〵)見えたり
又(また)同書(とうしよ)に建久(けんきう)三年壬子二月廿四日丁卯 武蔵國(むさしのくに)六浦(むつら)海辺(かいへん)に
おいて上緫(かつさの)五郎(こらう)兵衛尉(へうゑのせう)忠光(たゝみつ)を梟首(きやうしゆ)す義盛(よしもり)是(これ)を奉(うけたまは)る
云々又 鎌倉(かまくら)大草紙(おほさうし)に應永(おうえい)四年正月廿四日 小山(おやま)若犬丸(わかいぬまる)か
子(こ)とも二人 弱年(しやくねん)にてありしを會津(あひつ)の三浦(みうら)左京(さきやうの)太夫(たいふ)是(これ)を
召捕(めしとらへ)鎌倉(かまくら)へ進上(しんしやう)けるを実檢(しつけん)の後(のち)六浦(むつら)の海(うみ)に沈(しつめ)らるゝ
とあり《割書:北条(ほうてう)九代記(くたいき)には田村(たむら)庄司(しやうし)則義(のりよし)小山(おやま)若犬丸(わかいぬまる)に與(くみ)して管領(くわんれい)氏満(うちみつ)に|叛(そむ)ける故(ゆゑ)に鎌倉(かまくら)より攻(せめ)けれは則義(のりよし)は自害(しかい)す其子(そのこ)五歳(こさい)と七歳(しちさい)に》