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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之4 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之4 - ページ 81

ページ: 81

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【右丁】    《割書:按(あんする)に北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に六郷殿(ろくかうとの)六郷(ろくかう)大森分(おほもりふん)同(おなしく)小花和(をはなわ)の地(ち)を領(りやう)し六郷(ろくかう)の内(うち)|大森(おほもり)を渋谷又三郎(しふやまたさふらう)領(りやう)す又 六郷内(ろくかううち)鎌田(かまた)を圓城寺(えんしやうし)同(おなしく)堤方(つゝみのかた)は蒲田助五郎(かまたすけごらう)六郷(ろくかう)》    《割書:原分(はらふん)は嶋津弥七郎(しまつやしちらう)六郷(ろくかう)《振り仮名:雪か谷|ゆき や 》同(おなしく)入不計(いりやます)花井分(はないふん)共(とも)に大田新六郎(おほたしんろくらう)六郷内(ろくかううち)新井(あらゐ)|宿(しゆく)は梶原日向守(かちはらひうかのかみ)同(おなしく)入不計(いりやます)記吾跡(きこあと)は斉藤何某(さいとうなにかし)同(おなしく)牛久新次郎(うしひさしんしらう)同(おなしく)《振り仮名:一ノ倉|    くら》蒲田分(かまたふん)》    《割書:同(おなしく)戸越村(とこえむら)梶原分(かちはらふん)も太田新六郎(おほたしんろくらう)所領(しよりやう)なり幷(ならひ)に六郷内(ろくかううち)根岸(ねきし)梶原分(かちはらふん)六郷内(ろくかううち)極(こく)|樂寺分(らくしふん)六郷(ろくかう)大師河原(たいしかはら)行方与次郎(なめかたよしらう)所領(しよりよう)同(おなしく)川崎内(かはさきうち)万透院分(まんたうゐんふん)六郷内(ろくかううち)蓮沼(はすぬま)雉田(きした)》    《割書:新三郎(しんさふらう)領(りやう)せりかくの如(こと)く昔(むかし)は六郷(ろくかう)と称(しよう)せし地(ち)の廣(ひろ)かりし事しるへし林春斎先生(はやししゆんさいせんせい)|寛永(くわんえい)二十年 癸未記行(   きかう)に畠山重忠(はたけやましけたゝ)嘗(かつ)てこゝに居住(きよちゆう)すといへとも旧記(きうき)を考(かんか)へす然(しかる)に》    《割書:重忠(しけたゝ)は武州(ふしう)甲族(かうそく)にしてしは〳〵鎌倉(かまくら)へ往来(わうらい)す其理(そのり)なきにあらさるへき欤(か)とあり按(あんする)に|江戸名勝志(えとめいしようし)に渋谷金王丸(しふやこんわうまる)の一族(いちそく)に渋谷庄司次郎重國(しふやしやうししらうしけくに)といふ者(もの)あり違論(ゐろん)の事ある》    《割書:を以(も)て一家(いつけ)をはなれ川崎(かはさき)の六郷(ろくかう)へ引退(ひきしりそ)き渋谷氏(しふやうぢ)を改(あらため)て川崎(かはさき)とよへり云々 依(よつて)考(かんか)ふるに|重忠(しけたゝ)も畠山庄司次郎(はたけやましやうししらう)といひしかは後人(こうしん)川崎庄司次郎(かはさきしやうししらう)と混(こん)し誤(あやま)りて重忠(しけたゝ)にとりたかへし》    《割書:にや重忠(しけたゝ)は男衾郡(をふすまこほり)畠山(はたけやま)に居住(きよちゆう)せしなれは鎌倉(かまくら)への往来(わうらい)には此所(このところ)を通(とほ)るへからす府(ふ)|中(ちゆう)より関戸(せきと)へかゝりしなるへし此地(このち)へかゝりて鎌倉(かまくら)へ行(ゆく)は甚(はなはた)しき廻(まは)り道(みち)なり》 要嶋辨財天社(かなめしまへんさいてん  ) 羽田村(はねたむら)の南(みなみ)の州崎(すさき)にあり故(ゆゑ)に羽田辨財天(はねたへんさいてん)とも称(しよう)せり  《割書:此(この)羽田(はねた)の浦(うら)を《振り仮名:扇か濵|あふき はま》と|号(なつく)る故(ゆゑ)此地(このところ)を要島(かなめしま)とよへり》別當(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして金生山(こんしやうさん)龍王蜜院(りうわうみつゐん)と号(かう)す本尊(ほんそん)  辨財天女(へんさいてんによ)の像(さう)は相州(さうしう)江島本宮(えのしまほんぐう)巖窟辨財天(いはやへんさいてん)と同躰(とうたい)にして弘法大師(こうはふたいし)の  作(さく)なりといへり此(この)靈像(れいさう)昔(むかし)江戸有馬矦(   ありまこう)藤原純政(ふちはらのすみまさ)の家(いへ)に傳(つた)へて尊(そん)  信(しん)ありしに當社(たうしや)海誉法印(かいよほふいん)の時(とき)靈夢(れいむ)に感(かん)する所(ところ)あるを以(もつ)て宝永(はうえい)八年 辛卯四月 此(この)本尊(ほんそん)を此地(このち)に迁(うつ)し奉(たてまつ)るとなり《割書:品川(しなかは)大竜寺(たいりうし)開山(かいさん)香國禪師(かうこくせんし)正德(しやうとく)|三年に誌(しる)す所(ところ)の社記(しやき)と有馬家(ありまけ)の》 【左丁】  《割書:縁起(えんき)異同(いとう)|少(すくな)からす》又 當社(たうしや)に如意寳珠(によいはうしゆ)一顆(いつくわ)を安置(あんち)せり《割書:天然(てんねん)のものにして其質(そのしつ)|金銀銅銕(きん〳〵とうてつ)の類(るい)にあらす》  《割書:とい|へり》相傳(あひつた)ふ武州(ふしう)日原山(にちけんさん)は弘法大師(こうはふたいし)開創(かいさう)の地(ち)なり山中(さんちゆう)に大日(たいにち)の  靈水(れいすゐ)と称(しよう)するあり水中(すゐちゆう)一顆(いつくわ)の宝珠(はうしゆ)を存(そん)す然(しかる)に往古(そのかみ)此(この)宝珠(ほうしゆ)玉(たま)  川(かは)の流(なかれ)にしたかひ羽田(はねた)の辺(あたり)に止(とま)る水中(すゐちゆう)昼夜(ちうや)靈光(れいくわう)を現(けん)す依(よつて)土人(としん)  あやしんて纲(あみ)を下(くた)し是(これ)を得(え)て後(のち)社(やしろ)を建(たて)て崇敬(そうきやう)す當社(たうしや)是(これ)なりと  云云《割書:畧縁起(りやくえんき)には康治(こうち)二年の春(はる)當社(たうしや)の南(みなみ)の大河(たいか)に纲引(あひき)して一顆(いつくわ)の|宝珠(はうしゆ)を得(え)たり故(ゆゑ)に玉川(たまかは)と名(な)つけ玉川弁才天女(たまかはへんさいてんによ)と称(しよう)し奉(たてまつ)るといふ》又 此地(このち)往古(いにしへ)より  社殿(しやてん)を経営(けいえい)するといへとも屢(しは〳〵)風波(ふうは)の災(わさはひ)にかゝりて永(なか)く保事(たもつこと)あた  はさりしか別當(へつたう)海誉阿闍梨(かいよあしやり)法華経(ほけきやう)全部(せんふ)の文字(もんし)を一字(いちし)一石(いつせき)に  書冩(しよしや)し此(この)海底(かいてい)に沈(しつ)めて島(しま)を築(きつ)き宝殿(はうてん)を建立(こんりふ)すその感應(かんおう)や  ありけん夫(それ)より已降(このかた)青松(せいしやう)鬱蒼(うつさう)として繁茂(はんも)し庭上(ていしやう)苔(こけ)むし竟(つひ)に  風波(ふうは)の難(なん)を免(まぬか)るゝ事を得(え)たりとなり 江戸名所圖會天璇之巻              【朱角印】#1

現代語訳

【右丁】 北条家の所領役帳によると、六郷殿は六郷・大森分・小花和の地を領していた。六郷の内、大森を渋谷又三郎が領し、また六郷内の鎌田を円城寺が、同じく堤方を蒲田助五郎が領していた。六郷原分は島津弥七郎が、六郷雪ヶ谷・入不計・花井分をともに太田新六郎が領していた。六郷内の新井宿は梶原日向守が、同じく入不計・記吾跡は斉藤何某が、同じく牛久新次郎が、同じく一ノ倉・蒲田分を領していた。 同じく戸越村・梶原分も太田新六郎の所領であった。並びに六郷内の根岸・梶原分、六郷内の極楽寺分、六郷大師河原は行方与次郎の所領で、同じく川崎内の万透院分、六郷内の蓮沼は雉田新三郎が領していた。このように昔は六郷と称した地域が広大であったことがわかる。林春斎先生の寛永二十年癸未記行によると、畠山重忠がかつてここに居住したとあるが、旧記を考証していない。しかし重忠は武蔵国の有力武士であり、しばしば鎌倉へ往来していたので、その理由がないわけではないだろうとある。 江戸名勝志によると、渋谷金王丸の一族に渋谷庄司次郎重国という者がおり、意見の相違があったため一家を離れ、川崎の六郷へ引退し、渋谷氏を改めて川崎と名乗ったという。これを考えると、重忠も畠山庄司次郎と言ったので、後人が川崎庄司次郎と混同し、誤って重忠と取り違えたのではないか。重忠は男衾郡畠山に居住していたので、鎌倉への往来にはこの場所を通る必要はなく、府中より関戸へかかったであろう。この地へかかって鎌倉へ行くのは非常に遠回りである。 要島弁財天社 羽田村の南の州崎にある。故に羽田弁財天とも称している。 この羽田の浦を扇ヶ浜と呼ぶ故、この地を要島と呼んでいる。別当は真言宗で金生山龍王密院と号する。本尊弁財天女の像は相模国江島本宮巌窟弁財天と同体で、弘法大師の作と言われている。この霊像は昔、江戸有馬侯藤原純政の家に伝えられ尊信されていたが、当社海誉法印の時に霊夢に感ずるところがあったため、宝永八年辛卯四月にこの本尊をこの地に遷し奉ったという。(品川大竜寺開山香国禅師が正徳三年に記した社記と有馬家の縁起には異同が少なくない) 【左丁】 また当社に如意宝珠一顆を安置している(天然のもので、その材質は金銀銅鉄の類ではないという)。 伝えるところによると、武蔵国日原山は弘法大師開創の地である。山中に大日の霊水と称するものがあり、水中に一顆の宝珠が存在する。しかし往古、この宝珠が玉川の流れに従って羽田の辺りに止まった。水中で昼夜霊光を現すので、土地の人が怪しんで網を下してこれを得て、後に社を建てて崇敬した。当社がこれであるという。(略縁起には康治二年の春、当社の南の大河で網引きして一顆の宝珠を得た。故に玉川と名付け、玉川弁才天女と称し奉るという) またこの地は往古より社殿を経営していたが、しばしば風波の災いにかかって長く保つことができなかった。しかし別当海誉阿闍梨が法華経全部の文字を一字一石に書写し、この海底に沈めて島を築き宝殿を建立した。その感応があったのか、それより以降青松が鬱蒼と繁茂し、庭上に苔がむし、ついに風波の難を免れることができたという。 江戸名所図会 天璇之巻

英語訳

【Right Page】 According to the land registry of the Hōjō family, Lord Rokugō governed the territories of Rokugō, Ōmori division, and Kohanawa. Within Rokugō, Ōmori was ruled by Shibuya Matasaburō, Kamata within Rokugō was governed by Enjōji temple, and Tsutsumi-no-kata by Kamata Sukegorō. Rokugō Hara division was ruled by Shimazu Yashichirō, and Rokugō Yukigaya, Iriyamasu, and Hanai divisions were all governed by Ōta Shinrokurō. Arai-juku within Rokugō was ruled by Kajiwara Hyūga-no-kami, and Iriyamasu and Kigo-ato by a certain Saitō, Ushihisa Shinjirō, and Ichinokura and Kamata divisions. Tokoe village and Kajiwara division were also territories of Ōta Shinrokurō. Similarly, Negishi and Kajiwara divisions within Rokugō, Gokurakuji division within Rokugō, and Rokugō Taishi-kawara were territories of Namekata Yoshijirō, along with Mantōin division within Kawasaki and Hasunuma within Rokugō, which were ruled by Kijita Shinsaburō. Thus we can see how vast the area once called Rokugō was. According to Hayashi Shunsai's record from Kan'ei 20 (1643), Hatakeyama Shigetada once resided here, though this lacks verification in old records. However, since Shigetada was a powerful warrior of Musashi Province who frequently traveled to Kamakura, this would not be without reason. According to the Edo Meishō-shi, among the Shibuya Kon'ōmaru clan was one called Shibuya Shōji Jirō Shigekuni, who due to a disagreement left his family, retired to Rokugō in Kawasaki, and changed his name from Shibuya to Kawasaki. Considering this, since Shigetada was also called Hatakeyama Shōji Jirō, later people may have confused him with Kawasaki Shōji Jirō and mistakenly identified him as Shigetada. Since Shigetada resided in Hatakeyama in Ōsuma District, he would not have needed to pass through this location when traveling to Kamakura, but would have gone via Sekido from Fuchū. Going to Kamakura via this location would be an extremely roundabout route. Kaname-shima Benzaiten Shrine is located at Susaki, south of Haneda village. It is therefore also called Haneda Benzaiten. Since this bay of Haneda is called Ōgi-ga-hama (Fan Beach), this location is called Kaname-shima. The head temple belongs to the Shingon sect and is called Konshōzan Ryūō Mitsu-in. The statue of Benzaiten is said to be identical to the cave Benzaiten of Enoshima Main Shrine in Sagami Province and is attributed to Kōbō Daishi. This sacred image was previously treasured in the household of Edo's Lord Arima Fujiwara no Sumimasa, but when the temple's chief priest Kaiyō Hōin received a divine revelation in a dream, the main deity was transferred to this location in the fourth month of Hōei 8 (1711). (There are considerable discrepancies between the shrine record written by Zen master Kōkoku, founder of Shinagawa Tairyūji, in Shōtoku 3 and the Arima family's foundation legend.) 【Left Page】 The shrine also enshrines one sacred jewel (nyoi-hōshu), said to be natural and not made of gold, silver, copper, or iron. According to tradition, Mount Nichigen in Musashi Province was a site established by Kōbō Daishi. In the mountain is what is called the sacred water of Dainichi, in which exists one sacred jewel. In ancient times, this jewel followed the flow of the Tama River and came to rest near Haneda. Since it emanated sacred light day and night from the water, the local people found it mysterious, cast nets to retrieve it, and later built a shrine to venerate it. This is said to be the current shrine. (According to the abbreviated foundation legend, in the spring of Kōji 2 (1143), they obtained one sacred jewel by net fishing in the great river south of the shrine. Therefore it was named Tama River and called Tamagawa Benzaiten.) Although this location had maintained shrine buildings since ancient times, they were frequently damaged by wind and waves and could not be preserved for long. However, the head priest Kaiyō Ajari copied the entire Lotus Sutra with one character per stone, sank these into the seabed to build an island, and constructed a treasure hall. Perhaps due to this spiritual response, from then on green pines grew luxuriantly, moss covered the grounds, and finally the shrine was able to escape the disasters of wind and waves. Edo Famous Places Illustrated - Tenzen Volume