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九〇
にて昼弁当使ふなり」といつて持つて居る嚢の中から饅頭を取出し
桟敷へ投げこんださうですが、今は藩主がありませんから、この姿
で船町の神明社へ挨拶に行きます。行列はかくして氏子中を渡御し
ますが、途中先程来ました四ッ角を南にいつた処に天王社があり、
そこで休みますので其社を御輿休天王といひ、町の名を御輿休町と
いひました。
この社は文治年中に頼朝公の武運祈願に石田治郎為久と云ふ者が勧
請した事になつて居り、初めは二日市天王といひました。この石田
家は後世まで両社に仕へた神主の家抦です。別に笹踊りといふがあ
りますが、これは大太鼓一人に小太鼓二人で、同じ衣裳に塗笠被り
錦の陣羽織、小手臑当と云ふ面白い出立ちで、昔は囃方が数十人、
揃ひの編笠に浴衣姿、提灯を吊した笹を立て囃を入れたもので、歌
詞など今に伝はつてゐます。この笹踊りはこの地方所々の神事に残
り東三だけに十ヶ所からに行はれてゐます。
本社の裏手豊川に臨んだ処は、文亀年間酒井忠次が初めて橋を架け
た処だと伝へられて居りますが、其附近は維新後一時花卉などを植
え、文人達の遊んだ処で百花園の名は今に残つて居ります。
次は少し戻つて悟真寺の屏について西へ参ります。こゝは天王町
と云つて、此処に天王門があり番所がありました。右手の奥に広
徳寺と賢養院があります。
広徳寺、賢養院 広徳寺は龍拈寺の隠居寺で以前は相当な建物も
ありましたが、火災にかゝつて本堂も庫裡もなく、今はさゝやかな
仮堂ですが、本尊だけは残つて居ります。木彫りの高さ三尺許りの
地蔵さまですが、これは創立当時のものだらうといはれてゐます。
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