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翻刻
八八
歴代藩主の崇敬を受けまして、天文十六年に今川義元の寄附した神
輿の棟札と、同時に納めた木彫りの獅子面があります。其外延享三
年に松平資訓が石鳥居を、正徳六年に伊豆守信高が水盤を、享保十
七年に豊後守資訓が石灯籠を奉納したのが現に残つて居ります。祭
礼は毎年七月十三、四、五の三日に亘つて行はれますが、これは昔
から吉田の祗園祭とて有名なものでして、馬琴の羈旅漫録にも載つ
てゐますが、今も大体昔の通りに十三日にこの地方特有の花火、手
筒、大筒を放揚します。手筒は太い竹へ火薬をつめ縄を巻いて一抱
へもあるのを出すので、三間も四間もの高さに打揚り、甚だ勇壮な
ものです。以前東京の靖国神社へ奉納して放揚しました処、火事と
間違へて消防自動車が何台も馳せつけたといふ逸話もあります。大
筒の方はそれを一層大きくしたもので、この方は台に据へて打揚げ
ます。これを出す処を見ると勇壮といふよりはむしろ悲壮といつた
感がします。従つて危険性も多く、其筋でも厳重な制限を加へるや
うになりましたが若者達は怪我には懲りても花火には懲りないと豪
語して居る始末です。これは社前で出しますが翌十四日は打揚げで
今日では裏手の豊川に船を浮べ、その船から出しますが両国の川開
きなど比較にならぬ豪勢さで、其壮観は実に想像以上のものがあり
ます。旧幕時代に、祭礼中本町の通行をとめ町内で出したといふ仕
掛煙火の立物といふのは今はありません。それから十五日になると
神輿の渡御があります。この行列に子供姿の頼朝と、その乳母があ
りまして、その家来に十騎の武者が従ひます。その外饅頭喰ひとい
ひまして、これは錦の陣羽織を着用し、周囲へ幣の下つた笠をつけ
藩主の桟敷へ来て、「私頼朝の家来なり頼朝先へ通られました此処
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