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一一八
が、然しその阜頭ともいひたい此処に、古く大寺のあつた事から考
へて或る時代にはさうであつたかとも思はれます。この東へ向いた
処が湊の形で、もし渡があつたとすればこゝが船着場でなくてはな
りません。今畠になつてゐるこの一廓が寺址ですから相当大きな寺
だつたと思ひます。或は平安朝頃官道に添うて建てられた所謂官寺
ではないかとも想像されます。
これを西に行つた処に近頃橋が出来ました。殆んど豊橋と同じ形
で、其名も渡津橋といひます。渡津は和名抄以来対岸小坂井地方の
郷名ですから、所在地の古名をとるなれば然菅橋である筈で、その
上ワタムツと訓むべきをワタツとしたので何の事やら分らなくなり
ました。此等は歴史を知らないものゝ罪でせう。
その橋の近くを馬見塚といひ、こゝに
専願寺 があります。この村はもと吉田城址辺にあつたのを築
城の際移されたといひますが、この専願寺へは盆月になると解放さ
れた亡者が第一に来る処だといふので、新仏のある家々では三里五
里の道をこゝ迄出迎へる習慣になつてゐまして、旧暦六月晦日の夜
から七月朔日の朝へかけて非常な賑ひを呈します。
それからこのすぐ東に古墳があります。二町もありませうか、ご
く近いから参りませう
三ッ山古墳 といひます。この附近には培塚が二三ありましたが
開墾によつてなくなり、主墳だけが残つたものですが始【殆の誤植】んど完全に
近い前方後円墳で、主軸は東西に向ひ、前方部が十一間、後円部が
十六間あります。後円部の頂上に紀念碑が建てられ、また心なく手
入したので見苦しくはなりましたが、それでも築造当時の面影を偲
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