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翻刻
一七二
社の事といはれて居り、服部社は貞観雑儀に見える大嘗会の御用を
承つた処で、三河の蚕業は此地附近を中心として発達したものと思
はねばなりません。其中心が奈良朝に入つて西の方八幡村へ移つた
のは豊川の水流変化による航行不便の結果、西方に海津を求められ
たによるものと私は解釈して居ります。
砥鹿神社 は三河一宮で今国幣小社です。大己貴命を祭り、文徳
実録嘉祥三年七月三河国砥鹿神授従五位下とあるを初め度々昇叙の
御沙汰がありました。社伝では大宝年間文武天皇の御悩で鳳来寺の
利修仙人をお召しになる勅使として、草砥鹿【草鹿砥】公宣卿が当国に下られ
た際神託があつて此処に祀られたといひます。現在の社殿は余り古
くはありませんが優美軽快な流れ造りで周囲の風物と誠によく調和
して居ります。もう二三百年で国宝になるかも知れません。
宝物には御西院天皇第六皇女宝鏡寺宮御染筆の伊勢物語上下二冊
と銅鐸が一口あります。この銅鐸は天保年間に北設楽郡田峰で発見
されたもので袈裟襷紋の高さ一尺二寸程の小形なものです。古文書
も昔は沢山あつたやうですが殆んど散逸しまして、ただ文政十年に
正一位を贈られた神位記があるのみです。祭礼は一月三日の田遊祭
これは菟足神社や財賀寺で行はれるのとよく似て居りまして、五月
四日の例祭に流鏑馬が行はれ、それに一月十五日、本宮山上の奥宮
で行はれます管粥祭といふのは、管を入れ粥を煮まして其管に米粒
の入る加減で其年の豊凶を占ひます。農家もこれによつて其年の方
針を定めるのでありまして、これは石巻神社にもありますが古い遺
風と見られて居ります。
社家の草祗鹿【草鹿砥の誤植】氏は神社の前方に邸があり、維新当時の宣隆神主は
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