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翻刻
一七六
感が致します。
城址の際にある法性寺の山門は、もと城の二の丸門であつたと伝
へます外に、遺物は何も残つては居ません。この城は永正十三年に
菅沼定則が築きまして、子の定村と孫の定盈と三代居りました。そ
の定盈が武田信玄に攻められ三旬の間防ぎましたが、菅沼氏の親族
である山家三方衆の交渉で城を開いたといひます。彼の信玄が城中
の笛の音に聞きとれ近寄つた処を鉄砲で撃たれ、それが原因となつ
て死んだといひますのは此城だといふ事ですが、事実はどうか分り
ません。数年前まで昔を語るやうな松の大木が城址の辺にあつて、
よい目印となつてゐましたが、数年前心なき里人によつて切り去ら
れました。
次が新城で、徳川時代には菅沼氏の陣屋がありました。今もその
廃墟が東入舟といふ処に残つてゐます。これは天正三年奥平信昌
が築いたものです。
芭蕉句碑 は、この町を西へ出外れる処の庚申寺にあります。道
添ひにある大きな自然石で、
「京に飽きてこの木がらしや冬住居」
とあります。建てたのが寛政十二年で書いたのは吉田の俳人古市木
朶です。
永住寺鐘 この町の永住寺にある鐘は長享二年のもので、設楽郡
市場村(今の南設楽郡作手村)の松尾大明神にあつたものでした。
それを天正二年に奥平美作守が老母の追善にこの寺に寄附したこと
が銘文によつて知られます。これは奥平氏が軍陣の用に神社の鐘を
持出し、それが済むと今度はこの寺に寄附したと解釈せねばならぬ
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