翻刻
生写(しやうゝつし)相生(あひおひ)源氏(げんじ)下之巻
東都 女好菴主人著
第八 地蔵堂(ぢざうだう)のまき
竹(たけ)の柱(はしら)に萱(かや)の屋根(やね)。鯨(くじら)よる浜(はま)虎(とら)伏(ふ)す野辺(のべ)も。思(おも)ふ郎(をとこ)とくらすなら。何(なん)の厭(いと)はん
なに怨襟(つら)からうと。むかし〳〵の流行(はやり)唄(うた)に。あるものながら是(これ)はこれ。その情態(じやうたい)の
切(せつ)なるを。物(もの)に喩(たと)へていふのみにて。実(じつ)にその事(こと)あるときは。少々(せう〳〵)否(いや)な漢士(をとこ)の傍(そば)でも
朝夕(あさやふ)楽(らく)に不自由(ふじゆう)なく暮(くら)すが倍(まし)ぞと思(おも)ふべし。されば音勢(おとせ)は吉光(よしみつ)に誘(いざな)はれたる夜(よる)
の道(みち)。怖々(こわ〳〵)ながら走往(はせゆき)て。軒(のき)も傾(かた)ふく地蔵堂(ぢざうだう)。渾身(みうち)しとゞに濡(ぬれ)しぼたれ。間(ひま)もる風(かせ)の
身に染(しみ)て。それさへ心苦(こゝろくる)しきに。またもや降来(ふりく)る雨(あめ)の脚(あし)。生憎(あやにく)風(かぜ)のふき起(おこ)りて。堂(だう)の
板間(いたま)へばら〴〵と。音(おと)も厳(きび)しく降沃(ふりそゝ)ぐ。それのみならで今(いま)までは。消残(きえのこ)りたる燈明(みあかし)
の。幽(かすか)ながらも心(こゝろ)の便(たより)と。思(おも)ひしものを吹入(ふきい)るゝ。烈(がげ)しき風(かぜ)にはしなくも。滅(きえ)ての
后(のち)は烏玉(うばたま)の。そことも別(わか)ぬ真闇暗(まつくらやみ)。たゞ怖(おそろ)しさの弥倍(いやまし)て。吉光(よしみつ)の傍(そば)にすり倚(よ)り