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土木衛生
地方開発…都市計画……………
輓近豊橋市及接続町村の急激なる人口増加の趨勢並に商業の殷賑工業の隆昌其他市及町
村部落を通し蔚然物興の機運を醸成せる産業の発展に伴ひ、人車の交通、貨物の集散愈々
繁劇の度を加へ随つて交通機関の整備改善は蓋し急務中の急務に属するのである。市当局
は之等交通の状態に鑑み、豊橋市を中心として各道路の改善其幹線の連絡並に主要鉄道停
車場を連絡する主要道路の改善に関しては鋭意之を企図すると共に地方開発に必要なる道
路の改修を計画し以て時運に伴ふ施設を完ふせん事を頻りに研究調査を重ねつゝあつたが
大正十二年都市計画法に依る市として指定発表せられ仝年七月一日から実施せらるゝ事と
なつたが、上水道は総費額金三百五万余円の継続費を大正十五年六月三十日市会で可決さ
れ一昨年七月十八日起工式を挙行したが其の工事の概要を示せば、豊川の伏流水を水源と
して豊橋市を距る約一里余の八名郡下川村西下条三ノ下地先の河底に集水埋渠を構築し送
水喞筒井により東南三十三町を距る仝郡石巻村大字多米の濾過池に揚水し浄水となし高揚
喞筒で配水池に送り同所より市内では岩崎町と岩田町飯村町の一部を除き隣町下地町大字
下地の市街地を成せる一部の給水区域に送り人口十六万人に給水し将来新に形成される市
街地の給水は拡張計画に待つとのことである。
名勝旧蹟
今橋城…戸田今川の争闘…家康と織田氏…
城主の交代…最後の藩主…吉田城址………
今の豊橋を吉田と称へたのは天文年間から明治二年迄で、其以前は今橋と謂つた。当時
三河の国の守護は吉良氏であつたが、文明の頃に至つて牧野古白が此の今橋に築城したの
である然るに永正三年八月駿河の今川氏自ら軍を率ゐて今橋城を攻めたのであつた。古白
は城に拠つて固守する事六十余日、悪戦苦闘を続けたけれど力遂ひに及ばすして自殺する
に至つた。此に於て城は一時田原の城主戸田弾正憲光の一族戸田金七郎の有となつたので
あつたが其後大永の始め頃に至つて、古白の遣子伝左衛門成之と伝蔵信成の為めに再び取
り返されたのである。程なく成之は隠居して信成其後を襲いたが亨【享の誤植】保二年岡崎の松平清康
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