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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋商工案内 - 翻刻

豊橋商工案内 - ページ 219

ページ: 219

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(294) 大挙して此城を襲来し、信成は一族郎党と共に下地に於て戦つたが運拙くして遂ひに戦死 し、城は一時松平氏の有に帰した。然るに天文四年吉田時代に入り清康の守山崩れ以後は 復び戸田金七郎の有となり爾来十有余年間舟形山一帯の山脈を境界として、戸田今川両氏 の争闘が絶へなかつたのであるが、天文十五年遂ひに今川義元の範囲に入つたのである。 処が永緑【禄の誤植】三年五月桶狭間の戦ひに於て義元戦死した、其時徳川家康はまだ松平元康と云つ て今川氏の味方であつたが、其翌四年に至つて義元の子氏真との間に不和を生じ隣交は断 絶となつたのである。 其頃吉田城には今川氏の将小原肥前守鎮実が居つて、東三河に於ける諸将の人質を此城に 預つて居たが、家康に属したものは悉く龍拈寺口と云ふ処で殺して仕舞つた。家康が岡崎 から大挙して此の城を攻めたのは永緑【禄の誤植】七年の初めであつたが其頃今の豊橋市の東郊に当る 仁連木にも城があつて戸田主殿介重貞が居つた、此重貞も早くから家康に心を寄せて居た のであつたけれと何分にも其母が人質として此城に容れてあつた為め反旗を翻す前に先づ 母を奪ひ戻さなければならぬと考へ種々工夫した末に首尾よく目的を達したのである、家 康は翌八年鎮実を亡ぼし此城を酒井左衛門尉忠次に与へたのであつた、斯くて程なく今川 氏は衰へ三河は勿論遠江全国までも徳川氏の有に帰するに至つたが、其代り今度は追々甲 州から武田氏の侵入が始まつたのである。即ち元亀三年十二月信玄軍を率ゐて遠江と三方 ヶ原に於て戦つたのであつたが、此合戦は徳川氏の大敗となつた、信玄は勢に乗じ更らに 三河に進入し、天正元年正月南設楽郡の野田城を陥れたけれど、此の戦の為めに逝去する に至つたのである。然るに天正三年四月其子勝頼大兵を挙げて二連木城を襲ひ続ひて吉田 城に迫つた、夫れから長篠の合戦となつたのであるが、今度は武田方の大敗となり、之れ が原因で天正十年三月織田信長と家康との為に其の根拠を侵略されて、武田氏全く滅亡す るに至つたのである。其年六月信長は本能寺に於て明智光秀に殺され、之れより秀吉の舞 台となつた、秀吉と家康は小牧山で一度戦を交へたけれど程なく相和し、天正十八年秀吉 が小田原に北条氏を征伐した時にも家康も国を明けて秀吉に捧げ自分も之に従軍した、其 役の終つた処で家康は秀吉の為めに関東八州へ移封せられたのである。此時忠次は既に隠 居し其子家次が相続して居たが之れも家康に従つて上州碓井の城に移つた。家次の後へ来 たのは池田三左衛門輝政で牛久保、新城、田原の三城も其配下に属し知行十五万二千石を 領する事となつた。仁連木城は此時廃止されたのである。然るに慶長五年関ヶ原の合戦後 (295)