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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋商工案内 - 翻刻

豊橋商工案内 - ページ 227

ページ: 227

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【右頁】 一般冷蔵業  大正製水冷蔵株式会社      豊橋市湊町一六      電話一三五一番 【左頁】  東田の北に朝倉川と云ふ小川が流れて居る。之は八名郡との境界をなすもので蝉川の下 流であるが、此川に臨める高地に仁連木城の旧址がある。此城の来歴に就いて種々なる説 があるけれど、明応年中戸田弾正左衛門尉宗光の築いたのであると云ふのが事実らしい宗 光は初め碧海郡上野の城に居たが、寛正六年五月徳川家康から六代目の祖に当る松本和泉 守信光と共に室町幕府の命を受けて、三河国内の一揆を平定した事は蜷川親元の日記など にもあつて有名な話である。宗光は其後居を渥美郡の老津に移し、更らに一色氏の後を襲 いで、永正十三年の頃田原に根拠を構へたが、其後更らに時を得て此仁連木にも城を築き 田原をば其子憲光に委ねて、自分は此処に移つたのであるが、多分明応初年頃であると思 を。宗光卒去の後は憲光及其次男吉光も亦此処に居城した事実がある。其後は此城も暫ら く放棄されてあつた様に考へられるが、天文十年に至つて憲光の曽孫に当る丹波守宜光が 牛窪の加治村から之を再興したのである、永禄七年吉田城から其母を奪ひ返した主殿介重 貞は即ち其子であつたが、重貞は其の年の十一月吉田の城攻めに於て戦死したので、其後 を弟の甚平忠重が襲ひだ、然るに之れも亦た永禄十年五月病没したのである、当時其子の 康長はまだ六歳の子供であつたから、一族の戸田伝十郎吉国と云ふ人が之れを扶けて陣代 (297)