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となつた。即ち元亀三年武田信玄の襲来に方つても、天正三年五月武田勝頼の来攻に際し
ても共に吉国後見の時代であつたが、其家臣等の奮闘によつて天正の戦には敵首十八級を
得以て家康の台覧に供したと伝へられて居る。之より先康長は松平の姓を賜はり、家康の
仝母妹久松氏に配したのであるが、後屡々徳川氏の為に戦功を立て、天正十八年家康の関
東移封と同時に武蔵国東方一万石に封ぜられたのである。爾来仁連木城は遂に廃城となつ
て今日に至つたのであるが、今は大口喜六氏の所有地となり、一部農園を経営して居る。
豊川の清流…古名の色々…橋梁移転……
地子御免…貨物の運上…旧幕時代の湊…
豊橋の架つて居る川が即ち豊川である。其の源を北設楽郡段戸山に発し南流して段嶺村
を過ぎ、作手川を容れて寒狭川となり南設楽郡長篠村に至り三輪川を合し、更に西南に流
れて宝飯、八名、渥美、豊橋、三郡一市の界を為し前芝村に至つて渥美湾に入るのである
が、延長凡そ十七里である。此河の古名を飽海河と謂ひ、後吉田川とも言つたが、近世一
名姉川の称があつた。併し此名は余り世に知られて居らぬ昔飽海郷と宝飯郡と渡会郷との
間に志香須賀と云ふ豊川の渡しがあつた。地形の変遷が甚だしいので今其位置が明かでな
い元は此の名を然菅と書いたが中世からは白菅の字を訛用したるものと思はれるが其後又
た更らに鹿菅などとも書かれて居る。豊橋を渡れば宝飯郡の下地町である、橋の此方が市
内の船町である。此町は池田輝政の橋梁移転に依つて漸次発展を来たしたものであるが、
船乗又は運送渡世の者が多かつたので、慶長五年関ヶ原の役には城主輝政の命を受けて伊
勢の津又は松坂などへ往来したのである。夫れか縁故となつて爾来引続き藩主から船役を
命せられ、地子御免の上、此河に輸入する貨物の運上を取る事をも認められて居たのであ
る。而かも旧幕時代には此処以外豊川沿岸の地に湊を許されなかつたから。伊勢又は尾張
地方に交通する船舶は常に橋下に輻輳して、船町の繁昌は著しかつたものであつた。
豊橋名代行事
煙火…………鬼祭
元禄時代と謂へば誰も知らぬものはない江戸全盛の時であるが、其矯【驕の誤植か】奢の風は地方にま
でも流れて来たので、彼の吉田の花火なども此頃から盛大になつたのである。勿論此花火
は関屋町県社吉田神社の祭礼に於て行れたのであるが、元同社の神官であつた石田家の記
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