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【左頁】
豊橋商工案内
総説
沿革―地勢―気象―富力―官公署及新聞社―隣接町村―其他統計
東海道五十三次の一として名高かった吉田の宿が、豊橋と改称されたのは明治二年六月
であるが、彼の吉田と呼んだ頃の戸口は一体どの位有ったであらうかと云ふに昔から吉田
の二十四ヶ町と言つて、徳川三百年の間に変りの無かつた如く、戸数にも左程の増減を見
なかつた。貞享五年に一千戸のものが、寛永七年に一千十一戸、宝政十年に一千二戸と云
ふ実況である、尤も此の以前即ち寛永四年に大地震があつて、総戸数一千十一戸の内全潰
戸数二百十戸半潰戸数二百六十六戸で、外に死者十一人も出した事であるからだとしても
極めてその増加率の少かつたのは事実である。随つて人口も亦弘化元年に男女合せて五千
五百四十五人であつたものが、其の翌年には十人を減じ、嘉永元年に至つて五千五百十九
人と云ふ数を示して居る、然るに明治二十二年始めて自治制を実施された当時には今の豊
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