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―第二章 変遷 四
第二章 変遷
一、市の沿革
一、飽海時代(鎌倉期以前)
和名抄等の記載によれば、一千年程以前の豊橋は只だ飽海、幡太の二郷なりしが、豊川の流れを隔て、渡津の郷あり、
これ今の宝飯郡小坂井より宿、平井辺を指したるものならん。此の渡津と飽海との間は、
一帯の水流にして交通不便なりしが、東海道の要路に当れるを以て渡船の設備ありき。こ
れ即ち志香須賀の渡にして、清少納言の枕草紙にも載り古歌にも数々詠まれたり。当時、
渡船の数少く橋梁備はらず、担夫等河辺に集りて常に闘争を事とし旅人日を累ねて渡るを
得ず、時に或は身命を害し財宝を失ふものもあり、斯の如く渡船の困難なりし結果は自然
往来の別路を求むることとなり、何時しか御油町の辺より本街道を北に分れ、これより八
幡を経て本野ヶ原にかゝり、牛久保より其頃の豊川宿に出て、豊川の流れを渡り岩崎に出
で船方の山脈を越え遠江に入り、鷲津、古美などの辺を過ぎて浜名の橋本に至り、此処に
て再び本街道に合せしものにて、古来三河の二見道とて有名なりしはこの状態をさしたるものなり。其後此の別路は次第
に繁盛に趣き、旧来の本街道たる此の地方は却つて漸く衰退に帰し、一時は往来も杜絶すべき状況なりき。
【図の説明】本野原より本宮山を望む
然るに其後、豊川の流域に変更あり、且つ追々河心に三角洲を生じ次第に郷も出来、渡の困難減少されたるを以て、此
の別路の繁盛も僅に二百六七十年にして街道は再び元の渡津道へ復れり。
要するに此の時代の豊橋は初め、東海道の要路なりしが、往来の変遷によつて一時衰運
に向ひ其後の再変にて、又元の街道となるに至りしなり。当時此地の発達程度は詳ならざ
れども、住民の聚落ありし事は想像さる。此時代に於ける三河の国府は今の宝飯郡国府町
附近にありしなり。大江定基が三河国国司たりしは永観の頃にして、志香須賀の渡も一時
衰亡に帰せし時代なり、其後鎌倉の初期に当りては頼朝の弟範頼が三河守となり、安達盛
良其奉行たりしが、之れより先、聚落飽海郷は天慶三年八月廿三日の太政官符を以て、既
に伊勢神宮の新神戸に編入せられたり、神宮雑例集に「三河国新神戸十戸号飽海神戸」と
あるは即ち之なり。神鳳抄に秦御厨薑御薗といふも、亦今の豊橋市の内花田及び東田に当
るものにして、此地方も亦古くより神宮の神領なりしなり。花田の内には今も羽田の地名残り、東田にも字名に薑といふ
名を存せり。今尚ほ豊橋地方の神社に、天照大神を奉祀せるものゝ多きは此ためならん、其中往昔より飽海神戸のものと
しては中八町の県社神明社、秦御厨のものとしては湊町の郷社神明社並に薑御薗のものとしては、東田の郷社神明社等顕
著なるものなり。其他飽海時代の創立と思はるゝ神社は、関屋町の県社吉田神社、東八町の村社八幡社、花田の郷社八幡
社、岩崎の村社日吉神社等にして、石田の村社神明社、魚町の村社安海熊野神社、新銭町の村社白山吡咩神社、岩崎の村
社鞍掛神社等も亦此時代に加ふるものならん。以上の神社は何れも度々の変遷に遭ひ、当初の位置を保存せるは稀なり。
又寺院としては、西竺寺、妙徳院、正林寺等は此時代に入るべきものなれど多くは、既に廃滅に帰し、幸にも其遺跡の残れ
【図の説明】豊川の清流(志香須賀古の渡)
―第二章 変遷 五