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翻刻
―第二章 変遷 六
るは、独り正林寺のみなり。
二、今橋時代(室町初期より享禄年間に至る)
此地の発展は実に街道復旧以後なり。正平十六年(康安元年)には今の蓮泉寺の前身たる正行寺、馬見塚に創立せられ
仝二十一年(貞治五年)には悟真寺の前身たる浄業院、今の城址の西隅辺に建てられ続いて元中七年(明徳元年)喜見寺
の創立ありたりと云ふ。其頃には既に此地方に今橋といふ地名生れたり。宝飯郡御津村御津神社に保存せる納経の奥書に
は「於三州今橋悟真寺住持比丘慈智翁応永十六年十二月二十九日申刻了」とあり。当時三河国の守護は吉良氏にして、幡
豆郡西尾町に根拠を構へ居たりしが、室町の季世に至りて其威力次第に行はれず、文明の頃には早や東三河の天地も所謂
英雄割拠の状態となれり。此時に方り此今橋の地に築城せしは牧野古白なり、古白は永正二年自ら之に拠りしが、翌三年
田原の城主戸田憲光と不和を生じ、戸田方には今川氏の援ありしが、古白は城に拠つて固守すること六十余日苦戦を重ね
遂に力及ばずして自殺するに至れり。此に於て、城は一時憲光の一族戸田金七郎の有となりしが、大永の初頃古白の遺子
伝左工門成三、伝蔵信成の二人協力して再び此城を復せり。其頃より吉田の称ありしものゝ如く、牛久保密談記其他によ
りて推定せらる。されど今橋の地名も亦其以後廿余年の天文年間までも用ひられたり。程なく成三隠居し信成其後を襲ぎ
しが、当時天下は益々乱れて麻の町く、此地方の如きも殆ど戦時の状況を継続せり。亨禄二年岡崎の松平清康は大挙して
此城に襲来し、信成は之と下地に於て戦ひしが遂に運拙く戦死せり。
此時代に於ける豊橋は大いに発達せるものと見るべきなり。古白の築城に方りて、多数の鍛冶職を牛久保の長山より此
地に移住せしめたり、これ後に鍛冶町の出来たる原因と見るべし。
寺院の如きも前述の正行寺、浄業院、喜見寺の外、文明年間に興徳寺の建立あり、永正の中頃より大永の初に亘り王琳
寺、応通寺、浄国寺等も川毛に創立され、所謂川毛道場の名を伝ふるに至れり、其他大永の初に龍拈寺の建立あり。今は
其遺址をも認め得ざれども大雄山吉祥院も亦此頃の寺なり。
神社にも此時代の創立と伝ふるものに中柴町の諏訪神社あり。
此時代の地名には細かきものあり。即ち飽海の地名は最早東南の一小部分にのみ用ひられ、羽田の地名は今の花田より
北は船町、東は松葉町、花園町の辺にまで及びしが此両者の間には、馬見塚、川毛、二日市、野口等の地名ありたり。
其中馬見塚は旧城址より八町練兵場辺までを称したるものの如く、川毛も今の東八町附近より練兵場へかけての総称な
りしかば自然馬見塚との区別判然せず、或は馬見塚の名は古く川毛の名は稍新しきものならんか。二日市は町の中央部を
称し、野口は其南部に当りて、今の紺屋町辺より魚町辺をもこめて、花園町辺に至るまで一帯の地名なりしならん、され
ば今橋の地名はこれ等の何程までを総称せしものか判然せず。
三、吉田時代(徳川幕府前)
牧野氏亡びて後此城は一時松平氏の有となりしが、天文四年復び戸田金七郎の有に帰し、爾来十余年の間は舟形山一帯
の山脈を境界として、戸田、今川両氏
の間に争闘の絶ゆることなかりき、然
るに天文十五年に至り遂に今川義元の
勢力範囲に入れり。当時義元の勢力は偉大にして民政の上にも頗る留意したる形跡見ゆ。然るに義元は永禄三年五月十九
日桶狭間に戦死し、翌四年其子氏真と松平元康(徳川家康)との中に間隔を生じ遂に隣交断絶となれり。其頃吉田城に
は今川氏の将、小原肥前守鎮実ありて東三河に於ける諸将の人質を此域に頂り居たりしが、家康に属せるものは悉く龍拈
【図の説明】今川義元花押
【図の説明】今川氏真花押
―第二章 変遷 七