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翻刻
―第二章 変遷 八
寺口にて殺せり。此頃此地を中心として東三河の地には戦の絶間なく西三河にも一向専宗の乱ありしため家康の来攻はな
かりしが、永禄七年の初に至り家康岡崎より大挙して攻め来れり。其頃今の豊橋市の東郊なる仁連木にも仁連木城ありて
城主戸田主殿介重貞は家康に欵を通ぜり、然るに鎮実能く拒ぎしかば家康も容易に、抜く能はざりしが翌八年に及び漸く
其手に帰することゝなれり。かくて家康は此城を酒井左衛門尉忠次に与へしかば、爾来忠次は此城を根拠として東三河の
旗頭を勤め、城池の拡張をも計画し、元亀元年には今の関屋川岸より初めて豊川に土橋を架設せり。斯くして吉田は追々
繁盛に赴きたり。
元亀二年四月武田信玄自ら出
馬して仁連木城を抄略し吉田城
に押寄せしが未だ大戦にもなら
ずして引退きたり。天正三年四
月其子勝頼又々大兵を率ゐて仁連木に襲来し吉田城に迫り引続き長篠会戦となれ
り。
其後家康、秀吉の為に関東八州へ移封せらるるに及び、茲に長き間の歴史を重
ねたる此地方も一度徳川氏と別るることゝなり、城主家次(忠次退隠)も家康に従ひて上州碓井の城へ移れり。
次に此地に来りしは、池田三左衛門輝政なり、知行十五万二千石にして仁連木城は其時より廃せられしも牛久保、新城
田原の諸城は其配下に属せり。輝政は又直ちに城池の拡張を計画せり。先づ関屋の橋梁を船町に移して(現在の位置より一
町余の下流)擬宝珠勾欄の板橋とせり。これ豊橋(橋名)の始とも云ふべきなり。其他市区の改正などを実施せし事少なか
【図の説明】酒井忠次花押
【図の説明】池田輝政の花押
らざりしが、慶長五年開ヶ原の戦後功を以て播州姫路五十二万石に封ぜられ此吉田城を去れり。此地の発展は本時代に於
て最も著しきものあり。今川氏の施設は頗る多方面に渉り租税の徴収法に改革を加へ、商工業の発達にも干渉する処あり
しが一面には神社仏閣を造営し、之に金品を寄附したることも少なからざりき。されば此期に於ては神社仏閣の創立され
しは比較的少きも在来のものにて、面目を一新せし事は著しかりき。酒井忠次の時代となりて大いに市区の整理を行ひ此
地も追ひ〳〵城廓として体を具ふるに至りしが、更に池田輝政によりて、これが拡張を計画せられたり豊川の河身の如き
も現今のものは輝政の計画になりたるものの如し。
徳川幕府時代(●●●●●●) 輝政移封の後を襲ぎしは松平玄蕃頭家清にして、封禄僅に三万石なりき。
其後慶長十七年に松平主殿助忠利、寛永九年に水野隼人正忠清、寛永十九年に水野監物忠善と数々城主の交迭ありしが禄
高は多きも四
万五千石なり
しかば、到底
城下の発展は
望むを得ざり
き。然るに其
頃より此地を
代表すべき名
物の出来しは吉田の大橋なり。即ち輝政の架設せしものなるが徳川幕府に至り之を公儀の直営となしたり。
【図の説明】元禄二年吉田大橋仕様帳
【図の説明】小笠原長祐花押
【図の説明】久世広之の花押
―第二章 変遷 九