翻刻
惜哉(をしいかな)、共(とも)に何(いづ)れも其侍(そのさふらひ)なる者(もの)の国所姓名(くにところせいめい)を載(の)する事(こと)なし
又(また)一|説(せつ)には、八丁堀(はツてうぽり)に住(す)む与力(よりき)某なりしと歟(か)いへと、既(すで)に
事実考証(じじつかうしよう)の内(うち)、町奉行(まちぶぎやう)某より時(とき)の閣老(かくらう)某の許(もと)へ贈(をく)りし書(しよ)
中(ちう)にも「何国(いづく)の武士(ぶし)にや云〻(しか〴〵)」とあり左(さ)すれば只伝説(たゝいひつたへ)のみ
にして未(いま)だ確(たしか)めたる事(こと)なきものと見(み)ゆ、且巻中(かつくわんちう)の話(はなし)、概(おほむ)ね
其姓名(そのせいめい)を脱(だツ)する者甚(ものはなは)だ多(おほ)し、是(こ)れ予(よ)が深(ふか)く憾(うら)む所(ところ)なりと
雖(いへど)も已(や)む事(こと)を得(ゑ)ざるなり、看官幸(みるひとさいはひ)に諒之焉
○身(み)を捨(すて)て過(あやま)ちを謝(しや)す
麻布辺(あざぶへん)に住(す)める者(もの)、近所(きんじよ)の子供両人(こどもふたり)を連(つ)れ、祭見(まつりみ)に出(いで)たるに、
橋落(はしをち)し時(とき)、右子供等(みぎこどもら)の陥(をちい)りしかば其親(そのおや)たちに対(たい)して何(なに)とも
言訳(いひわけ)なしと、正直(しやうじき)一|偏(ぺん)に狼狽(あたふた)して俄(にわか)に心迫(こゝろせま)りし者(もの)と見(み)え己(おのれ)
も跡(あと)より羽織(はをり)を証拠(しようこ)に脱(ぬ)ぎ捨(す)て置(お)きて入水(じゆすい)したりし由(よし)な
るが前(さき)に落(を)ちたる子供等(こどもら)が生死(しやうし)の程(ほど)も、慥(たしか)に見留(みと)めずして
態(わざ)と自(みづか)ら落(を)ち入(い)りしは。心尽(こゝろつく)しの足(た)らざりし名残(なご)りにて、其(その)
情感(じやうかん)ずべきも亦最(またい)と惜(を)しき終(をは)りとこそは思(おも)ひはべりぬ(右
蜷川某の記録)
《割書:永代|惨話》文化の夢《割書:終| 》