翻刻
善く其の顛末事情を明かにし其の前後四周の状況を知悉せざるべからず古人には誠に思慮
深き徒ありて或は書を著はし或は記念碑を建て後世の為め其事実を伝えて鑑戒に供せんと
するものあり然るに今人は存外に思慮浅く太平に狃れては唯刹那の享楽に耽けり今日ある
を知って明日あるを知らず姑息因循只一日の安を偸んで能く反省修養して以て警戒の道を
講する者ある少なし然して一朝事あるに当つてや俄かに周章狼狽し天を怨み人を尤む亦己
に晩し痛嘆の至りと謂ふべし
凡そ世事何事にても深慮熟慮能く細心の注意を払へば脉胳貫通し一条の妙理其中に存する
を見ん况してや此の天地間の自然法則に於てをや天曇りて雨を降らし風寒ふして水凍る自
然法則ならざるなし本邦毎年秋季八九月の交俗に二百十日(〇〇〇〇)と称して暴風の期節あり是れ旧暦
七八月頃にして季節風の中心位置を転する際に発する颱風の作用なり然も昔は不注意とて
誰人も之に気付くものなく出放題に海上に乗出したる為め船舶の遭難絶間なかりき彼の歴
史に有名なる文永弘安両度の蒙古襲来も皆此の季節に来りたるものにして支那人の如きす
ら全く其の知識なく皆二百十日の暴風に其の死を送りたるものにて其の艦隊覆滅は伊勢神
霊を待たずして己に自ら招きたるものなり
然して我が邦人の中、伊勢人は昔より商機の敏に冒険の志あり江戸開府の時も衆に先んじ
之に至り今に伊勢屋の諺名を存ず其の舟人夙に海上に乗り出ずもの始めて注意して二百十
日の暴風を知る実に元禄の時代なりといふ然して日本人是より始めて二百十日の恐るべき
を知り爾来二百年民皆其警戒を守りて此に始めて海上の難を免るに至る伊勢人の積亦大な
りと謂ふべし
偖て地震の如き大災は昔より人生不可抗力として恐れ警む所にして今日に於ても未だ明白
に之を予知ずるの方法なきは遺憾の至りなり
然も今日に於て深き注意を払ひ細密の観察を積むとき恰も日本に於て近時始めて二百十日
の危険日を発見し之を避けて海上の禍を免れ得し如く何かの方法によりて其の災害を予知
し其の危険を免るの方を検出し得んや知るべからず
好し亦地震予知の方を得ずと雖も過去の震災につき能く其の状況を詳悉するときは之に対
する保護対抗の手段を考へて適当なる施設を尽くさは其の損害必ずしも今日の如く過大な
らず能く人生の安全を保して未来の楽地を作り出さんとこと難からざるべし是れ今日吾人の
希望亦責任なり