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コレクション: 松平文庫

四民遊芸之部 御目付支配之部 - 翻刻

四民遊芸之部 御目付支配之部 - ページ 70

ページ: 70

翻刻

一享和元酉十月四日御掃除奉行広部甚五右衛門口上書を以相達候ハ御掃除茂大夫忰甚次郎  と申者去月十七日夜ゟ相見へ不申内々相尋候得共一向行方相知不申段相達候ニ付猶又念入相尋候  様且又外ニ訳合も無之哉致吟味候様申付候得共何之訳合与申儀も無之趣尤方々相尋候得共未た相知不申  趣相達ニ付其段御家老中へ相達之候 一文化三寅二月広部甚五右衛門相達御掃除治兵衛実子当年十五歳罷成候右治兵衛跡御掃除ニ被召抱被  下置候様相願候旨口上書を以申達候ニ付勝手次第召抱候様及即答候事 一文化四卯七月御小人支配高木庄右衛門口上書を以相達候ハ御草り取池村兵蔵与申者此度岩村門右衛門  組安川円蔵与申者明跡江相済申度内証申合候ニ付御慈悲之上御暇被下置候様願差出候ニ付勝手次  第申付候様申答候事 一享和三寅十月江戸表           大宮彦右衛門   御供先御道御案内之儀此度御達之上以後   羽織袴ニ而被召連筈ニ候御小人共古キ者ゟ   弐人振退相勤候様可被取計候 一享和元酉六月十六日         小寄合格御駕小頭 桜井弥三大夫   出精相勤候ニ付小算格ニ被成下候 一同二戌十一月廿三日         御駕之者 清蔵   小頭格ニ被仰付勤向是迄之通俵数三俵   御増被下帯刀御免被成候 一享保十二未閏正月十二日土居奉行吉田又助下役桜之馬場伝右衛門与申者家之儀ニ付探源院様御代御長柄並ニ  被成下候古格等之儀其外留有之 一同十三申九月十六日御小人五十四人之内拾人被減〇荒子六百八十五人之内八十五人被減之〇川荒子五十壱人之内廿壱人被減候 一同十六亥五月廿五日御駕籠之者拾人御長柄組ニ被仰付右御駕籠之者之儀以来ハ明滅ニ被仰付旨 一延享四卯四月十九日御裏役へ其方支配高原仁左衛門跡役之儀被相願候仍之仁左衛門最前相勤候先格を以御花作り萩右衛門義御切米九俵二人ふち  被下御長柄格被仰付候 一天保元寅十一月七日御■■【広敷?】御小人并御徒目付支配之分年数未満之者病死或ハ切替御暇相願候跡自分抱之願不及指出旨相極候事 

現代語訳

一、享和元年酉十月四日、御掃除奉行広部甚五右衛門が口上書をもって届け出たのは、御掃除茂大夫の息子甚次郎という者が先月十七日夜から姿が見えなくなり、内々に尋ねても一向に行方が分からないと報告があった。そこで、さらに念入りに尋ねるよう、また他に事情がないか吟味するよう申し付けたが、何の事情ということもなく、もっとも方々に尋ねても未だ分からないとの報告があったため、その旨を御家老中へ報告した。 一、文化三年寅二月、広部甚五右衛門が報告したのは、御掃除治兵衛の実子で当年十五歳になる者について、この治兵衛の跡を継いで御掃除として召し抱えていただきたいと願っている旨を口上書で申し出てきたことである。これに対して勝手次第に召し抱えるよう即答したこと。 一、文化四年卯七月、御小人支配高木庄右衛門が口上書をもって届け出たのは、御草履取池村兵蔵という者が、このたび岩村門右衛門組の安川円蔵という者の跡目に養子として入りたく内証で申し合わせたため、御慈悲により御暇をいただきたいと願い出てきたことである。これに対して勝手次第に申し付けるよう回答したこと。 一、享和三年寅十月、江戸表において大宮彦右衛門(から連絡があり)、御供先での御道案内の件について、このたび御達しの上、以後は羽織袴で召し連れることになった。御小人どもの古参者から二人選んで交代で勤めるよう取り計らうべきである。 一、享和元年酉六月十六日、小寄合格御駕小頭桜井弥三大夫が出精して勤めたため、小算格に昇格させられた。 一、同二年戌十一月二十三日、御駕籠之者清蔵が小頭格に任命され、勤め向きはこれまで通りだが俵数三俵を御増しいただき、帯刀御免となった。 一、享保十二年未閏正月十二日、土居奉行吉田又助の下役桜之馬場伝右衛門という者の家の件について、探源院様御代に御長柄並びに昇格させられた古格等の件、その他留め置きがある。 一、同十三年申九月十六日、御小人五十四人のうち十人を減員、荒子六百八十五人のうち八十五人を減員、川荒子五十一人のうち二十一人を減員した。 一、同十六年亥五月二十五日、御駕籠之者十人を御長柄組に任命し、この御駕籠之者については今後は明き次第減員することとした。 一、延享四年卯四月十九日、御裏役へその方支配の高原仁左衛門の跡役の件について願い出があった。よって仁左衛門が最前に勤めた先例により、御花作り萩右衛門を御切米九俵二人扶持をいただき御長柄格に任命した。 一、天保元年寅十一月七日、御広敷御小人並びに御徒目付支配の者で年数未満の者が病死または交替で御暇を願った跡について、自分で抱える願いは提出に及ばない旨を決めたこと。