翻刻
をつかはされて、糺明(きうめい)せられしにかの押(お)して取(と)りたる
物(もの)を京兆(けいてう)より返(かへ)されさるによりて、奉行(ぶぎやう)の上洛(じやうらく)延(えん)
引(にん)せり、《割書:康富|記》
文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)七月二十八日(しちぐわつにじふはちにち)、琉球人(りうきうじん)参洛(さんらく)す、これは足(あし)
利義政(かゞよしまさ)の世(よ)になりて六度目(ろくたびめ)なり、《割書:斉藤親|基日記》
天正(てんしやう)十一年(しふいちねん)、琉球国(りうきうこく)入貢(じゆこう)、《割書:和漢合運、異|国往来記》
按(あん)ずるに、宝徳(はうとく)三年(さんねん)、兵庫(ひやうご)に来(きた)る琉球(りうきう)の商物(あきなひもの)、先(せん)
先(せん)年々(ねん〳〵)の借財(しやくざい)といひ、また文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)の参洛(さんら )【ママ】六度(ろくたび)
目(め)、とあるによりておもへば、永享(えいきやう)以後(いこ)かの国人(くにひと)
の来(きた)れること、しば〳〵なりと見ゆれども、記載(きさい)に乏(とも)
しければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て考(かんが)ふべからず
薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづし)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
琉球国(りうきうこく)は、嘉吉年間(かきつねんかん)、足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてよりこの
かた、世々(よゝ)薩州(さつしう)の附庸(ふよう)の国(くに)たるところ、天正(てんしやう)の頃(ころ)群(ぐん)
雄(ゆう)割拠(くわつきよ)の時(とき)にあたりて、琉球(りうきう)の往来(わうらい)しばらく絶(たえ)たり、
その後(のち)世(よ)治(をさま)り士民太平(しみんたいへい)をとなふるに至(いた)りて、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より琉球(りうきう)へ使(つかひ)をつかはし、もとの如(ごと)く
貢使(こうし)あるべきよし再三(さいさん)に及(およ)ぶといへども、彼国(かのくに)の三司(さんし)
現代語訳
を派遣して調査させたところ、京兆が押収した物品を返却しないため、奉行の上洛は延期された。《割書:康富記》
文正元年七月二十八日、琉球人が参洛した。これは足利義政の世になって六度目である。《割書:斉藤親基日記》
天正十一年、琉球国が入貢した。《割書:和漢合運、異国往来記》
按ずるに、宝徳三年に兵庫に来た琉球の商品について「先々年々の借財」と言い、また文正元年の参洛が「六度目」とあることから考えると、永享以後にあの国の人々が来朝することはしばしばあったと見えるが、記録に乏しいので、その詳細については十分に考察することはできない。
薩摩太守島津氏が琉球を征伐す
琉球国は、嘉吉年間に足利義教の命令があってから以来、代々薩摩の属国であったところ、天正の頃の群雄割拠の時代にあたって、琉球との往来がしばらく絶えた。その後世が治まり士民が太平を謳うに至って、薩摩の太守島津家久より琉球へ使者を遣わし、元の如く貢使があるべき旨を再三申し入れたけれども、彼の国の三司
英語訳
were dispatched to investigate the matter. However, since Keicho did not return the confiscated goods, the magistrates' journey to the capital was postponed. 《Marginal note: Kōtomi-ki》
On the twenty-eighth day of the seventh month of Bunshō 1 (1466), Ryukyuans came to the capital. This was the sixth time since the reign of Ashikaga Yoshimasa began. 《Marginal note: Saitō Chikamoto Diary》
In Tenshō 11 (1583), the Ryukyu Kingdom sent tribute. 《Marginal note: Wakan Gōun, Ikoku Ōraiki》
Upon consideration, given that the Ryukyuan commercial goods that came to Hyōgo in Hōtoku 3 are described as involving "debts from previous years," and that the visit to the capital in Bunshō 1 is noted as the "sixth time," it appears that people from that country came [to Japan] frequently after the Eikyō era. However, since records are scarce, the details cannot be thoroughly examined.
Lord of Satsuma, the Shimazu Clan, Subjugates Ryukyu
The Ryukyu Kingdom had been a tributary state of Satsuma for generations since the command of Ashikaga Yoshinori during the Kakitsu period. However, during the era of competing warlords around the Tenshō period, communication with Ryukyu was temporarily severed. Later, when the world became peaceful and the samurai and people enjoyed tranquility, the lord of Satsuma, Shimazu Iehisa, sent envoys to Ryukyu repeatedly requesting that tribute missions be resumed as before. However, the Sanshi of that country