東京学芸大学「学びと遊びの歴史」を翻刻!

コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之7 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之7 - ページ 8

ページ: 8

翻刻

【右丁】  教法(けうはふ)を弘(ひろ)め給ひし頃(ころ)佛法(ふつはふ)王法(わうはふ)護持(こち)の為(ため)且(かつ)は和光(わくわう)の利益(りやく)を  普(あまね)く萬民(はんみん)に蒙(こふむ)らしめむと欲(ほつ)して我立杣(わかたつそま)の日吉山王二十一社(ひよしさんわう      しや)上  中下の内(うち)より一社宛(  しやつゝ)を撰(えらみ)て三所の靈神(れいしん)を彼地(かしこ)に勧請(くわんしやう)し給ひ  かくて星霜(せいさう)を経(へ)たり然(しかる)に文明年中(ふんめいねんちゆう)太田道灌(おほたたうくわん)此(この)山王(さんわう)三所の  御神(おんかみ)を星野山(せいやさん)より江戸(えと)に迁(うつ)し奉(たてまつ)る《割書:其頃(そのころ)の社地(しやち)は今(いま)の梅林坂(はいりんさか)の|あたりにして菅祠(くわんし)とならひて》  《割書:ありしよし大道寺(たいたうし)友山翁(いうさんをう)の説(せつ)なり或人云(あるひといふ)太田家譜(おほたかふ)に文明(ふんめい)十年六月十五日|《振り仮名:於_二|おいて 》《振り仮名:江戸城内_一|えとしやうないに 》《振り仮名:建_二|たつ 》山王権現堂(さんわうこんけんたう)荒神祠(くわうしんのほこら)《振り仮名:菅丞相祠_一|くわんしやう〳〵のほこらを  》云々 菅祠(くわんし)は今(いま)の平川天神(ひらかはてんしん)の事なり》  《割書:御國初(おんこくしよ)の頃迠(ころまて)は両社(りやうしや)ともに御城内(こしやうない)にありしを菅祠(くわんし)は平川口御門(ひらかはくちこもん)の外(そと)へ|迁(うつ)され山王(さんわう)は御城(おんしろ)の鎮守(ちんしゆ)として紅葉山(もみちやま)に迁座(せんさ)まし〳〵けるなり》天正(てんしやう)より  このかた江戸(えと)を以(もつ)て永(なか)く御當家(こたうけ) 御居城(こきよしやう)の地(ち)に定(さため)させられし頃(ころ)  紅葉山(もみちやま)において新(あらた)に社(やしろ)を御造営(こさうえい)ありて御産神(おんうふすな)にあかめ給ふ其後(そののち)  御城西(おんしろのにし)貝塚(かいつか)の地(ち)へ迁(うつ)され《割書:其(その)年歴(ねんれき)詳(つまひらか)ならず江戸名所記(えとめいしよき)に後土御門院(こつちみかとのゐん)|延徳(えんとく)年中 仰(おほせ)の旨(むね)ありて道灌(たうくわん)結縁(けちえむ)の為(ため)三所の》  《割書:御社(おんやしろ)を城西(しやうさい)にうつし給ひ再興修造(さいこうしゆさう)ありと云云 此説(このせつ)未(いまた)考(かんか)へず寛永(くわんえい)明暦(めいれき)等(とう)の江戸(えと)|図(つ)によりて考(かんか)ふれは其社(そのやしろ)の旧地(きうち)は井伊掃部矦(ゐいかもんこう)の北(きた)今(いま)の三宅備後矦(みやけひんここう)の第宅(ていたく)の》  《割書:地(ち)なり菊岡沾凉云(きくをかせんりやういはく)山王宮(さんわうのみや)の旧地(きうち)は三宅備後守殿宅(みやけひんこのかみとのたく)の裏(うら)の坂(さか)に祠(ほこら)あり此所(このところ)元(もと)|山王(さんわう)の旧地(きうち)なりとあるは実(しつ)にしかり又 事跡合考(しせきかふかう)に云く井伊掃部頭殿(ゐいかもんのかみとの)の居舘(きよくわん)の南(みなみ)》  《割書:後(うしろ)凡未申の方の小坂の際(きは)巾(はゝ)二間ばかり長(なかさ)十間あまり松杉(まつすき)の少(すこ)しき繁(しけ)りたる坂(さか)の内(うち)に|稲荷(いなり)の小祠(しやうし)ある除地(ちよち)是(これ)山王(さんわう)一度(ひとたひ)半蔵御門外(はんさうこもんそと)にうつされし古跡(こせき)の由緒(ゆいしよ)と云々》 【左丁】  又(また)承應(しやうおう)三年甲午 回禄(くわいろく)の後(のち)溜池(ためいけ)の築山(つきやま)勝地(しようち)たるにより  竟(つひ)に 台命(たいめい)あつて今(いま)の地(ち)へ迁座(せんさ)なし奉(たてまつ)り宮社(きうしや)御造営(  さうえい)ありし  より江府(こうふ)第一(たいいち)の宮居(みやゐ)となれり《割書:名勝志(めいしようし)に云く明暦(めいれき)丁酉の歳(とし)回禄(くわいろく)によつ|て承應(しやうおう)三年 當社(たうしや)を貝塚(かいつか)より今(いま)の地(ち)へ》  《割書:迁(うつ)し奉(たてまつ)るとあれとも承應(しやうおう)は明暦(めいれき)より先(さき)の年号(ねんかう)なれは|此説(このせつ)證(しやう)とするにたらず或人云(あるひといふ)万治(まんち)元年 今(いま)の地(ち)にうつると云々》金殿玉樓(きんてんきよくろう)は天(てん)に輝(かゝや)き  畵棟朱簾(くわとうしゆれん)は地(ち)に映(えい)せり《割書:名勝志(めいしようし)に此地(このち)は元(もと)松平(まつたいら)|主殿殿(とのもとの)第宅(ていたく)の地(ち)なりしとあり》しかありしより已降(このかた)  和光同塵(わくわうとうちん)の利益(りやく)浅(あさ)からす内(うち)には圓宗(えむしう)の教法(けうはふ)を守(まも)り外(ほか)には  鎮國利民(ちんこくりみん)の德(とく)を施(ほとこ)し給ふ殊更(ことさら) 御當家(こたうけ)の御産土神(おんうふすな)として  御崇敬(こそうきやう)最厚(もつともあつ)く天下泰平(てんかたいへい)國家安鎮(こくかあんちん)の御祈祷(こきたう)永世(えいせい)に怠(おこた)  る事なし 成田下總守長泰旧地(なりたしもふさのかみなかやすのきうち) 永田馬塲山王(なかたはゝさんわう)の隣(となり)丹羽家(にはけ)の地(ち)なりと  いふ古(いにし)へ武州(ふしう)忍(おし)の城主(しやうしゆ)なり 第六天祠(たいろくてん  ) 同所 兼松家(かねまつけ)の地(ち)にあり太田左金吾道灌(おほたさきんごたうくわん)の勧請(くわんしやう)なり  といひつたふ

現代語訳

【右丁】 教法を広め給った頃、仏法王法護持のため、かつは和光の利益を広く万民に被らせようと欲して、我立杣の日吉山王二十一社の上中下の内より一社ずつを選んで三所の霊神をかの地に勧請し給い、こうして星霜を経た。然るに文明年中、太田道灌がこの山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る《割書:その頃の社地は今の梅林坂のあたりにして菅祠と並んでありしよし大道寺友山翁の説なり。或る人いわく太田家譜に文明十年六月十五日江戸城内において山王権現堂荒神祠菅丞相祠を建つ云々。菅祠は今の平川天神の事なり》 《割書:御国初の頃までは両社ともに御城内にありしを菅祠は平川口御門の外へ遷され山王は御城の鎮守として紅葉山に遷座ましましけるなり》天正よりこのかた江戸をもって永く御当家御居城の地に定めさせられし頃、紅葉山において新たに社を御造営ありて御産神にあがめ給う。その後御城西貝塚の地へ遷され《割書:その年暦詳らかならず江戸名所記に後土御門院延徳年中仰せの旨ありて道灌結縁のため三所の御社を城西に遷し給い再興修造ありと云云。この説未だ考えず。寛永明暦等の江戸図によりて考うればその社の旧地は井伊掃部侯の北今の三宅備後侯の第宅の地なり。菊岡沾凉いわく山王宮の旧地は三宅備後守殿宅の裏の坂に祠あり此所元山王の旧地なりとあるは実にしかり。又事跡合考にいわく井伊掃部頭殿の居館の南後凡そ未申の方の小坂の際、幅二間ばかり長さ十間あまり松杉の少しき繁りたる坂の内に稲荷の小祠ある除地、これ山王一度半蔵御門外に遷されし古跡の由緒と云々》 【左丁】 又承応三年甲午回禄の後、溜池の築山勝地たるにより、ついに台命があって今の地へ遷座し奉り宮社御造営ありしより江府第一の宮居となれり《割書:名勝志にいわく明暦丁酉の歳回禄によって承応三年当社を貝塚より今の地へ遷し奉るとあれども承応は明暦より先の年号なればこの説証とするにたらず。或る人いわく万治元年今の地に遷ると云々》金殿玉楼は天に輝き、画棟朱簾は地に映せり《割書:名勝志にこの地は元松平主殿殿第宅の地なりしとあり》。しかありしよりこのかた、和光同塵の利益浅からず、内には円宗の教法を守り外には鎮国利民の徳を施し給う。殊更御当家の御産土神として御崇敬最も厚く、天下泰平国家安鎮の御祈祷永世に怠る事なし。 成田下総守長泰旧地 永田馬場山王の隣、丹羽家の地なりという。古え武州忍の城主なり。 第六天祠 同所 兼松家の地にあり。太田左金吾道灌の勧請なりと言い伝う。

英語訳

【Right page】 During the time when the Buddhist teaching was being spread, in order to protect both Buddhist law and royal law, and desiring to make the benefits of harmonious illumination widely available to all people, one shrine each was selected from the upper, middle, and lower ranks of the twenty-one shrines of Hiyoshi Sannō at Wagatatsusoma, and the three sacred deities were invited to that place. Thus many years passed. However, during the Bunmei era, Ōta Dōkan moved these three Sannō deities from Seiya-san to Edo. {{Note: At that time, the shrine grounds were around what is now Bairinzaka, alongside the Kan shrine, according to the theory of Elder Daidōji Yūzan. Someone says that the Ōta family records state that on June 15, Bunmei 10, the Sannō Gongen Hall, Kōjin shrine, and Kan Shōjō shrine were built within Edo Castle. The Kan shrine refers to what is now Hirakawa Tenjin.}} {{Note: Until the early days of the realm, both shrines were within the castle grounds, but the Kan shrine was moved outside Hirakawaguchi Gate, while Sannō was relocated to Momijiyama as the castle's guardian shrine.}} From the Tenshō era onward, when Edo was permanently established as the location of our lord's castle, a new shrine was constructed at Momijiyama and revered as the birth deity. Later it was moved to the Kaizuka area west of the castle. {{Extended notes about various historical theories and locations follow...}} 【Left page】 After the great fire of Jōō 3 (1654), because the artificial hill at Tameike was an excellent location, by imperial command the shrine was finally relocated to its present location, and with the construction of the shrine buildings, it became the foremost shrine residence in Edo. {{Note: Various theories about the exact dates of relocation are discussed...}} The golden halls and jeweled towers shine in the heavens, while the painted beams and vermillion blinds are reflected on earth. {{Note: This location was formerly the residence grounds of Matsudaira Tonomo.}} From this time forward, the benefits of harmonious illumination with the world have been profound - internally preserving the teachings of the Round School, externally bestowing virtues for pacifying the nation and benefiting the people. Especially as the tutelary deity of our lord's house, it receives the deepest reverence, and prayers for peace under heaven and tranquility of the state continue without cease for all eternity. Former grounds of Narita Shimōsa-no-kami Nagatai: Adjacent to Nagata Baba Sannō, said to be the grounds of the Niwa family. In ancient times, he was the lord of Oshi Castle in Musashi Province. Dairokutensha Shrine: In the same area, located on the grounds of the Kanematsu family. It is said to have been established by Ōta Sakingofu Dōkan.