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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 100

ページ: 100

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【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十二 【本文】        薙髪(ちはつ)して勝入(しようにふ)と号(ごう)し後(のち)秀吉(ひでよし)に属(ぞく)して美濃国(みのゝくに)大垣城(おほがきじよう)に居り子(こ)の之助(ゆきすけ)は岐阜(ぎふ)の城(しろ)を領(れう)したのであるが前章(ぜんせう)       に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如く小牧(こまき)の役(えき)に於て遂(つひ)に家康(いへやす)信雄(のぶを)の為(ため)に破(やぶ)られて信輝(のぶてる)は四十九歳 之助(ゆきすけ)は廿六歳で共(とも)       に打死(うちじに)したのである当時(とうじ)輝政(てるまさ)は年廿一歳であつたが亦(ま)た従軍(じうぐん)したのである然(しか)るに従士(じうし)等(ら)の諌(いさめ)によつて        独(ひと)り身(み)を免(のが)れて引退(ひきしりぞ)いたのであるが後(のち)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)ぎ(《割書:岡山池田家譜には天正十二年四|月廿八日父の遺領を継ぐとあり》)天正十三年 更(さら)に大垣(おゝがき)を        改(あらた)めて岐阜城(ぎふじよう)に移(うつ)つたのである(《割書:仝家譜には天正十二年の事となし|又た此時十二万石を領すとあり》)それよりは常(つね)に秀吉(ひでよし)に従(したがつ)て数々(しば〳〵)功名(こうみよう)を現(あら)       はし天正十五年 羽柴(はしば)の姓(せい)を与(あた)へられ其翌(そのよく)十六年四月 更(さら)に豊臣氏(とよとみし)を与(あた)へられたのであるが小田原征討(をだはらせいとう)の        際(さい)には早川口(はやかはぐち)を囲(かこ)み其(その)落城(らくじよう)後(ご)は陸羽(りくう)の征伐(せいばつ)に向(むか)ひ其(その)先鋒(せんぽう)となつたのであるソコデ其(その)年(とし)即(すなは)ち天正十八年       七月十三日に酒井家次(さかゐいへつぐ)に代(かは)つて岐阜(ぎふ)から此(この)地(ち)に移封(いほう)せられ更(さら)に在京(ざいけう)の料(れう)として伊勢国(いせのくに)小栗栖(をぐりす)の庄(せう)を与(あた)       へられたのが先づ其(その)経歴(けいれき)の大要(たいよう)であるが其(その)年(とし)又(ま)た陸奥(むつ)に一 揆(き)の起(おこ)つた事があつて輝政(てるまさ)は此(この)時(とき)蒲生氏郷(がまふうぢさと)       の加勢(かせい)の為(ため)に出陣(しゆつぢん)したのである程(ほど)なく此(この)乱(らん)も平(たひら)いだが其翌(そのよく)十九年には秀吉(ひでよし)は輝政(てるまさ)の邸(やしき)に臨(のぞ)むで数種(すうしゆ)の        引出物(ひきでもの)を与(あた)へ秀次(ひでつぐ)からも亦(ま)た茶入(ちやいれ)を贈(おく)つたと云ふ訳(わけ)で其(その)信任(しんにん)は頗(すこぶ)る厚(あつ)かつたものと思(おも)はれるかくて天 文禄の役  正廿年は文禄元年(ぶんろくがんねん)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)例(れい)の朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は初(はじ)まつたのであるモツトモ此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)       の意見(いけん)と云ふものは明国(みんこく)を打(う)ち従(したが)へるにあつたと云ふ事であるから後世(こうせい)の人が此(この)役(えき)を以(もつ)て朝鮮征伐(てうせんせいばつ)な       どと云つたらば秀吉(ひでよし)は地下(ちか)で苦笑(くせう)するであろうと思(おも)はるゝが一 般(ぱん)に朝鮮征伐(てうせんせいばつ)で通(とほ)つて居るから私(わたくし)も今(いま)        仮(か)りに左様(さよう)に申述(もうしの)ぶるのであるが此(この)役(えき)輝政(てるまさ)は命(めい)を受(う)けて吉田(よしだ)に皈(かへ)り関東(くわんとう)の守備(しゆび)に任(にん)じ又(ま)た糧食(れうしよく)を備前(びぜん)       の名護屋(なごや)に送(おく)つたのである之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)其(その)他(た)にも記(しる)されてある事である而(しか)して輝政(てるまさ)は又(ま)た文禄       三年の八月に家康(いへやす)の二 女(ぢよ)督姫(とくひめ)を迎(むか)へて妻(つま)としたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く此(この)督姫(とくひめ)と云ふのは初(はじ)め 《割書:督姫輝政に|嫁す》   北條氏直(ほうでううぢなほ)の処へ嫁(か)したのであるが小田原落城(をたはららくじよう)の時(とき)家康(いへやす)の陣(ぢん)に送(おく)り届(とゞ)けられたので自然(じぜん)氏直(うぢなを)とは離婚(りこん)の 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百三十四号附録    ( 明治四十四年十二月十二日発行 ) 【本文】        訳(わけ)になつて居(を)つたのであるが今度(このたび)秀吉(ひでよし)の謀(なかだち)によつて之(これ)を輝政(てるまさ)のところへ嫁(か)したのであるモツトモ輝政(てるまさ)は       前(まへ)に中川清秀(なかがはきよひで)の女を娶(めと)つて子(こ)利隆(としたか)を生(う)むだのであるが之(これ)が病死(びようし)したので其(その)後(あと)へ此(こ)の督姫(とくひめ)を迎(むか)へた次第(しだい)       である然(しか)るに此(この)督姫(とくひめ)が吉田(よしだ)へ入輿(にふよ)の時の逸事(いつじ)とも云ふべきものが武将感状記(ぶせうかんぜうき)の中に載(の)つて居(を)つて頗(すこぶ)る        興味(きようみ)のある事と思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することにする         池田(いけだ)三 左衛門尉輝政(ざゑもんしょうてるまさ)ノ家礼(かれい)伊庭総兵衛(いばそうべゑ)ハ手前(てまへ)中(あた)リ矢業(やわざ)モノニ勝(すぐ)レタル弓(ゆみ)ノ上手(ぜうづ)ナリ輝政(てるまさ)参州(さんしう)吉田(よしだ)ヲ居(きよ)         城(じよう)トス源君(げんくん)ノ婿(むこ)トナリテ御輿入時(おんこしいれどき)諸士(しよし)今切(いまきれ)に出迎(でむか)ヘ伊庭(いば)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セタリ輿副(こしそへ)ノ人(ひと)使(つかひ)ヲ以(もつ)テ人多(ひとおほ)キ中(なか)ニ         独(ひとり)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セラレタルハ承(うけたまはり)及(および)シ伊庭殿(いばどの)ニテヤ候(そうろ)ト問(と)フ御尋(おんたづね)ハ何故(なにゆへ)ゾ伊庭(いば)ニテ候ト答(こた)フ又(また)以使(つかひをもつて)サ        ラハ此(この)洲崎(すさき)ニ羽白(はしろ)一番(ひとつがひ)浮(うかん)テ候 願(ねがは)クハ一 矢(や)遊(あそ)ハサレ候ヘカシ見物(けんぶつ)仕(つかまつ)ラハヤト云(いふ)伊庭(いば)難議(なんぎ)ノ所望(しよもう)カ        ナ両家(れうけ)ノ諸士(しよし)ノ前(まへ)ニテ遠慮(ゑんりよ)アルヘキ事ナルヲト心中(しんちう)ニハ思(おも)ヒナカラ心得候(こゝろへそうら)ヌトテ矢(や)ヲツカヒテ前(すゝみ)ヨ        ル其(その)間(あひだ)三十 間(けん)ホトニテナレハ羽白(はしろ)漸(やうや)ク沖(おき)ニ出(い)テ遠(とほ)サカル伊庭(いば)満引(まんびき)シ余(あま)リ久(ひさし)クタモチケレハ是(これ)ハイカ        ニト見(み)ル所(ところ)ニ忘(わする)ルハカリアリテ放(はな)ツ矢(や)其(その)雄(おす)ノ胴中(どうなか)ヲ貫(つらぬ)キ其(その)雌(めす)ノ尻(しり)ヲ射切(ゐきり)タレハ両家(れうけ)一 同(どう)ニ誉(ほめ)ル声(こゑ)海(かい)         涛(どう)ニ響(ひゞき)所望(しよもう)シタル人(ひと)其(その)矢(や)トモニ羽白(はじろ)ヲ請(こひ)テ取(とつ)テ帰(かへ)レリ伊庭(いば)カ友(とも)何(なん)トシテシホヌケタルホトハ不放(はなたず)ヤト         問(とひ)ケレハ同(おなじく)ハ番(つがひ)ナカラ射(ゐ)ント思(おも)ヒ相並(あひならぶ)ヲ待(まち)タレトモ終(つひ)ニ不並(ならばず)少(すこ)シ並(なら)フヤウナルヲ幸(さいはひ)ニ放(はな)チ候故(そろゆへ)番(つがひ)ナ        カラ射(ゐ)トラデ残念(ざんねん)ナリトソ語(かた)リケル伊庭(いば)鉄砲(てつぽう)ト争(あらそ)ヒ矢(や)モ玉(たま)モ十ニテ小鳥(ことり)ヲ射(ゐ)ルニ負(まけ)タル事ナシ結立(むすびたて)        タル大巻藁(おほまきわら)ニ左(ひだり)ノ拳(こぶし)ヲサシツケ強(つよ)カラヌ弓(ゆみ)ニテ射之(これをゐ)厚(あつ)ミ一 寸(すん)ハカリノ裏板(うらいた)モ透(とほ)ルハカリナリ放(はな)レ殊(こと)        ニヨキ時(とき)ハモトユヒ其(その)勢(いきほひ)ニハラリトキルヽ事(こと)度々(たび〳〵)アリ灰(はい)ヲカキ挙(あげ)土器(かはらけ)ヲ立(たて)的(まと)トシテ射之(これをゐる)ニ貫之(これをつらぬき)テ         土器(かわらけ)ノワレサル事モ亦(また)度々(たび〳〵)ナリ鳥(とり)ヲ射(ゐ)ルニ弓(ゆみ)ヲ引設(ひきもうけ)スラスラト歩(あゆ)ミヨリ羽(は)ヲワランスル時(とき)歩(あゆむ)ナリニ         足(あし)ヲ不止(とゞめず)放(はな)ツニ外(そ)ル事ハ鮮(すくな)シ強力(きようりよく)壮碩(さうせき)時人(じゞん)ニ知(し)ラレタル男夫(をとこ)也 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十二 【本文】 剃髪して勝入と号し、後に秀吉に属して美濃国大垣城にいて、子の之助は岐阜の城を領したのであるが、前章に詳しく申し述べた如く小牧の役において遂に家康・信雄のために破られて、信輝は四十九歳、之助は二十六歳で共に討死したのである。当時輝政は年二十一歳であったが、また従軍したのである。然るに従士等の諫めによって独り身を免れて引退いたのであるが、後に父の遺領を継ぎ(岡山池田家譜には天正十二年四月二十八日父の遺領を継ぐとあり)、天正十三年、更に大垣を改めて岐阜城に移ったのである(同家譜には天正十二年の事とし、また此の時十二万石を領すとあり)。それよりは常に秀吉に従って数々功名を現し、天正十五年、羽柴の姓を与えられ、その翌十六年四月、更に豊臣氏を与えられたのであるが、小田原征討の際には早川口を囲み、その落城後は陸羽の征伐に向かい、その先鋒となったのである。そこでその年即ち天正十八年七月十三日に酒井家次に代わって岐阜からこの地に移封せられ、更に在京の料として伊勢国小栗栖の庄を与えられたのが先ずその経歴の大要であるが、その年また陸奥に一揆の起った事があって、輝政は此の時蒲生氏郷の加勢のために出陣したのである。程なくこの乱も平らいだが、その翌十九年には秀吉は輝政の邸に臨んで数種の引出物を与え、秀次からもまた茶入を贈ったと云う訳で、その信任は頗る厚かったものと思われる。かくて天正二十年は文禄元年と改まったのであるが、この年例の朝鮮征伐の軍は始まったのである。もっともこの時秀吉の意見というものは明国を打ち従えるにあったということであるから、後世の人がこの役を以って朝鮮征伐などと云ったらば秀吉は地下で苦笑するであろうと思われるが、一般に朝鮮征伐で通って居るから私も今仮りに左様に申し述べるのであるが、この役、輝政は命を受けて吉田に帰り関東の守備に任じ、また糧食を備前の名護屋に送ったのである。これは寛政重修諸家譜その他にも記されてある事である。そして輝政はまた文禄三年の八月に家康の二女督姫を迎えて妻としたのであるが、前にも申し述べた如く、この督姫というのは初め北条氏直の処へ嫁したのであるが、小田原落城の時家康の陣に送り届けられたので自然氏直とは離婚の 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百三十四号附録 (明治四十四年十二月十二日発行) 【本文】 訳になって居たのであるが、今度秀吉の仲立ちによってこれを輝政のところへ嫁したのである。もっとも輝政は前に中川清秀の女を娶って子利隆を生んだのであるが、これが病死したので、その後へこの督姫を迎えた次第である。然るにこの督姫が吉田へ入輿の時の逸事とも云うべきものが武将感状記の中に載って居て頗る興味のある事と思うから、これを左に抄出することにする。 池田三左衛門尉輝政の家礼伊庭総兵衛は手前当り矢業者に勝れたる弓の上手なり。輝政参州吉田を居城とす。源君の婿となりて御輿入れ時、諸士今切に出迎え、伊庭弓を持たせたり。輿副の人使いを以って、人多き中に独り弓を持たせられたるは承り及び、伊庭殿にてや候と問う。御尋ねは何故ぞ、伊庭にて候と答う。また使いを以って、さらばこの洲崎に羽白一番浮かんで候、願わくは一矢遊ばされ候へかし、見物仕らばやと云う。伊庭、難儀の所望かな、両家の諸士の前にて遠慮あるべき事なるをと心中には思いながら、心得候ぬとて矢を使いて進みよる。その間三十間ほどにてなれば、羽白漸く沖に出て遠ざかる。伊庭満引きし、余り久しく保ちければ、これは如何にと見る所に、忘るるばかりありて放つ。矢その雄の胴中を貫き、その雌の尻を射切りたれば、両家一同に褒める声海涛に響き、所望したる人その矢ともに羽白を請うて取って帰れり。伊庭が友、何としてしおぬけたるほどは放たずやと問いければ、同じくは番ながら射んと思い、相並ぶを待ちたれども遂に並ばず、少し並ぶようなるを幸いに放ち候故、番ながら射とらで残念なりとそ語りける。伊庭鉄砲と争い、矢も玉も十にて小鳥を射るに負けたる事なし。結び立てたる大巻藁に左の拳を差し付け、強からぬ弓にて射れば、厚み一寸ばかりの裏板も透るばかりなり。放れ殊によき時はもとゆい、その勢いにはらりと切るる事度々あり。灰をかき上げ土器を立て的として射るに、これを貫きて土器の割れざる事もまた度々なり。鳥を射るに弓を引き設け、すらすらと歩み寄り、羽をわらんする時、歩むなりに足を止めず放つに外る事は少なし。強力壮碩、時人に知られたる男なり。 【欄外】 豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 172 [Main Text] He shaved his head, took the name Shōnyū, and later served Hideyoshi, residing at Ōgaki Castle in Mino Province, while his son Yukisuke held Gifu Castle. However, as I explained in detail in the previous chapter, at the Battle of Komaki they were ultimately defeated by Ieyasu and Nobuo, and Nobuteru died at age 49 and Yukisuke at age 26. At that time Terumasa was 21 years old and also participated in the campaign. However, on the advice of his retainers, he alone escaped and withdrew. Later he inherited his father's domain (according to the Okayama Ikeda Family Genealogy, he inherited his father's domain on the 28th day of the 4th month of Tenshō 12), and in Tenshō 13 he moved from Ōgaki to Gifu Castle (the same genealogy records this as happening in Tenshō 12, and notes that at this time he held 120,000 koku). From then on he constantly served Hideyoshi and achieved numerous military distinctions. In Tenshō 15 he was granted the Hashiba surname, and in the following year, Tenshō 16, 4th month, he was further granted the Toyotomi clan name. During the Odawara campaign he besieged Hayakawaguchi, and after its fall he headed to the conquest of Rikuū as the vanguard. Thus in that year, namely on the 13th day of the 7th month of Tenshō 18, he was transferred from Gifu to this region in place of Sakai Ietsugu, and was additionally granted the Ogurusu estate in Ise Province as funds for his residence in Kyoto - this is roughly the outline of his career. In that same year an uprising occurred in Mutsu, and Terumasa dispatched troops to assist Gamō Ujisato. This rebellion was soon pacified, and in the following year, Tenshō 19, Hideyoshi visited Terumasa's residence and bestowed various gifts, while Hidetsugu also presented him with a tea container, showing that his trust was quite deep. Thus Tenshō 20 became Bunroku 1, and in this year the famous Korean expedition began. Of course, Hideyoshi's intention at this time was to subjugate the Ming Dynasty, so if later generations call this campaign a "Korean expedition," Hideyoshi would probably chuckle in his grave. However, since it is generally known as the Korean expedition, I will provisionally refer to it as such. In this campaign, Terumasa received orders to return to Yoshida and was charged with defending the Kantō region, and also sent provisions to Nagoya in Bizen. This is recorded in the Kansei Revised Genealogies of Various Houses and other sources. Furthermore, in the 8th month of Bunroku 3, Terumasa welcomed Ieyasu's second daughter Princess Toku as his wife. As I mentioned before, this Princess Toku had initially married Hōjō Ujinao, but when she was delivered to Ieyasu's camp at the fall of Odawara, she was naturally divorced from Ujinao. [Left Page] [Header] San'yō Newspaper No. 3,934 Supplement (Published December 12, Meiji 44) [Main Text] However, this time through Hideyoshi's mediation, she was married to Terumasa. Terumasa had previously married a daughter of Nakagawa Kiyohide and had a son named Toshitaka, but when this child died of illness, he welcomed Princess Toku afterward. There is an interesting anecdote about Princess Toku's wedding procession to Yoshida recorded in the "Bushō Kanjōki" (Military Commanders' Letters of Appreciation), which I think is quite fascinating, so I will excerpt it below: Ikeda Sanzaemon-no-jō Terumasa's retainer Iba Sōbē was skilled in archery, superior to all marksmen in accuracy. When Terumasa made Yoshida in Sanshu his castle seat and became son-in-law to the Genji lord [Tokugawa], at the time of the wedding procession, various retainers went out to meet them at Imakire, and Iba carried a bow. The bride's attendant sent a messenger saying, "Among all these people, only one carries a bow - we have heard this must be Lord Iba, is that correct?" "Why do you ask? Yes, it is Iba," he replied. Again through a messenger they said, "Well then, there is a pair of white swans floating on this inlet - would you please shoot an arrow for us to watch?" Iba thought to himself, "What a difficult request - this should be avoided out of courtesy before the retainers of both houses," but said aloud, "I understand," and notched an arrow and stepped forward. The distance was about thirty ken, so the white swans gradually moved out to the offing and grew distant. Iba drew his bow to full extension and held it rather long, making observers wonder what was happening, then released almost as if he had forgotten. The arrow pierced through the male's body and shot off the female's tail, causing both houses' retainers to praise him with voices that echoed over the sea waves. The person who had made the request took both the arrow and the white swans and returned. When Iba's friend asked why he had delayed so long before shooting such an easy shot, he replied, "I wanted to shoot the pair together if possible, so I waited for them to align, but they never did align properly. When they seemed to align slightly, I took the opportunity and shot, so I regret not being able to take the pair together." Iba competed with firearms, and in shooting small birds with arrows and bullets out of ten attempts, he never lost. When he placed his left fist against bundled large straw targets and shot with an ordinary bow, he could penetrate backing boards about one inch thick. When his release was particularly good, the bowstring would snap cleanly from the force. He would pile up ash, stand pottery vessels as targets, and shoot through them without breaking the pottery - this too happened frequently. When shooting birds, he would set his bow, walk smoothly toward them, and when they were about to take flight, he would release while still walking without stopping his feet, and rarely missed. He was a man of great strength and robust build, known to people of his time. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 173