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【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十
【本文】
だ其(その)移転(いてん)を実行(じつこう)せない前(まへ)に輝政(てるまさ)の方(ほう)が姫路(ひめぢ)に移封(いほう)となつたので悟眞寺(ごしんじ)は其(その)替(か)へ地(ち)の貰(もら)ひ徳(とく)となつたよ
うな訳(わけ)であるが其(その)後(ご)移転(いてん)は遂(つひ)に沙汰止(さたや)みとなつたが輝政(てるまさ)から貰(もら)つた敷地(しきち)は今(いま)も尚(なほ)大字(おゝあざ)花田(はなだ)字(あざ)築地(ちくじ)に九
千七百余圷の地を所有(しよいう)して居(を)ると云ふ結果(けつくわ)となつたのである其(その)外(ほか)にも市内(しない)の鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)俗(ぞく)に元鍛冶町(もとかぢまち)
と称(せう)する処に移(うつ)し集(あつ)めたのも矢張(やはり)輝政(てるまさ)であると云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)も種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推及(すゐきふ)すると確(たしか)
城地の拡張 に信(しん)が措(お)けるように思(おも)はれるソコで城廓(じようくわく)であるが之(こ)れ亦(ま)た現今(げんこん)に残(のこ)つて居る状態(ぜうたい)は確(たしか)に輝政(てるまさ)の計画(けいくわく)
に成(な)るものが大部分(だいぶぶん)であると信(しん)ぜられるモツトモそれも「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」や「三河堤(みかはつゝみ)」などに伝説(でんせつ)が記(しる)し
てあるのと口碑(こうひ)に伝(つた)はつて居る位(くらゐ)に過(す)ぎぬのではあるが酒井氏(さかゐし)在城(ざいじよう)時代(じだい)の城地(じようち)は到底(とうてい)今日の如き大さ
のものではなかつたと云ふ事は当時(とうじ)の戦(たゝかひ)を記(しる)したものだの前(まへ)に申述(もうしの)べた橋梁(けうれう)の位置(ゐち)などでも分(わか)ると思(おも)
ふ而(しか)して輝政(てるまさ)後(のち)には余(あま)り大(たい)なる普請(ふしん)を此(この)城(しろ)に加(くは)へた事実(じゞつ)がないので又(ま)た徳川時代(とくがはじだい)となつては濫(みだ)りに城(じよ)
地(うち)の拡張(くわくてう)は許(ゆる)しもしなかつたのであるから矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は全(まつた)く事実(じゞつ)であるものと信(しん)ずるの
柳生門 であるが兎(と)に角(かく)当時(とうじ)十五万二千石の大名(だいみよう)としては比較的(ひかくてき)に大規模(だいきぼ)の計画(けいくわく)であつたものと云ふべきであ
る又(ま)た旧(きう)柳生門(やぎゆうもん)と云ふものは元(も)と長篠城(ながしのじよう)の大手門(おほてもん)であつたのを此(この)城(しろ)に移(うつ)したのであると云ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)
があるが之(これ)は果(はた)して酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の時であるか輝政(てるまさ)の時であるか移転(いてん)の時代(じだい)に就(つい)て少(すこ)しく明瞭(めいれう)を欠(か)く所(ところ)が
あると思(おも)ふ併(しか)し「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」には「或云往古大手門ト云飽海門也、次柳生門大手通ニ用、池田三左
衛門ノ時有城普請ト云」とあつて初(はじ)めは飽海門(あくみもん)が大手(おほて)であつたが後(のち)に柳生門(やぎゆうもん)を大手通(おほてとほり)となしたもので
あると云ふ説(せつ)であるが之(これ)は確(たしか)であるに相違(さうゐ)ない結局(けつきよく)輝政(てるまさ)が此(この)吉田城(よしだじよう)を初(はじ)め市街(しがい)に向(むか)つて比較的(ひかくてき)大規模(だいきぼ)
の拡張(くわくてう)を行(おこな)ひそれが今日に残(のこ)つて居る総(すべ)て基礎(きそ)となつて居る事は事実(じゞつ)と信(しん)ずべきであると思(おも)ふソコ
《割書:豊川の治水|事業》 で私(わたくし)が常(つね)に思(おも)ふのは此(この)豊河(とよかは)の治水事業(ちすいじぎよう)と云ふものは元来(がんらい)誰(たれ)が行(おこな)つたであろうかと云ふ事である即(すなは)ち此(この)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
河(かは)が古来(こらい)崖岸(がいがん)広遠(くわうゑん)で渡船(とせん)さへ困難(こうなん)であつた事からそれが次第(しだい)に土砂(どしや)の為(ため)に埋(うま)つて遂(つひ)には土橋(どばし)さへ架(か)せ
らるゝに至(いた)つた事は前(まへ)にも段々(だん〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるが現(げん)に残(のこ)つて居る治水事業(ちすゐじぎよう)と云ふものは中々(なか〳〵)工風(くふう)
したもので今日の学術(がくじゆつ)から見(み)たらばドウデあるかそれは私(わたくし)共(ども)には分(わか)らぬ事であるが兎(と)に角(かく)到底(とうてい)大事業(だいじぎよう)
家(か)でなければ成(な)し能(あた)はざる事であると思(おも)ふ彼(か)の上流(ぜうりう)にある宮井戸(みやゐど)の乗(の)り越(こ)しから箕堤(みのつゝみ)の工事(こうじ)などと云
ふものは当時(とうじ)にありては余程(よほど)工風(くふう)したものと云はねばならぬ之(これ)等(ら)はドウモ歴代(れきだい)の城主中(じようしゆちう)で此(この)輝政(てるまさ)より
外(ほか)に之(これ)を成(な)すべき適当(てきとう)の人はなかつたであろうと思(おも)ふ特(とく)に此頃(このころ)私(わたくし)は播州(ばんしう)の姫路(ひめぢ)に立寄(たちよ)つて輝政(てるまさ)の事蹟(じせき)
を見(み)たのであるか輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つてからなした事業(じぎよう)の中(なか)で彼(か)の白鷺城(しらさぎじよう)の建築(けんちく)と云ひ三 左(ざ)
衛門堀(ゑもんほり)の計画(けいくわく)と云ひ又(ま)た市街(しがい)を米字形(べいじがた)に区画(くぐわく)したと云ふ事などは頗(すこぶ)る思(おも)ひ当(あた)る処(ところ)があるように感(かん)じた
のである併(しか)し之(これ)は只(たゞ)私(わたくし)の臆説(おくせつ)であるが兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に意見(いけん)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の高教(かうけう)を仰(あふが)むとする次第(しだい)である
以上(いぜう)の如く輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に施(ほどこ)した事業(じぎよう)と云ふものは遺憾(ゐかん)ながら細密(さいみつ)には分(わか)り兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)大体(だい〳〵)の上(うへ)
から見(み)ても此(この)土地(とち)に対(たい)しては空前(くうぜん)の計画(けいくわく)をなしたもので又(ま)た其(その)後(ご)今日までには到底(とうてい)之(これ)に及(およ)ぶべき企画(きくわく)
をなしたものはなかつた事と思ふ而(しか)も此(この)地(ち)に於(お)ける計画(けいくわく)と云ひ姫路(ひめぢ)に於ける遣(や)り口(ぐち)と云ひ孰(いづ)れも猷大(ゆうだい)
なる規模(きぼ)であるが例(たと)へば加藤清正(かとうきよまさ)が熊本(くまもと)の経営(けいえい)をなした様(よう)な工合(ぐあひ)で如何(いか)にも豊臣時代(とよとみじだい)於(お)ける勇将(ゆうせう)の
遣(や)り前(まへ)を現(あら)はして居るのは誠(まこと)に壮快(さうくわい)の感(かん)に堪(た)えぬのである而(しか)して輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に来(き)たのは其廿七歳の
時でまだ青年時代(せいねんじだい)と云つてもよいのであるが之(これ)より慶長(けいてう)五年まで殆(ほとん)ど十個年の間(あひだ)此(この)地(ち)に居つたのであ
輝政の略歴 る而(しか)して輝政(てるまさ)が之(これ)迄(まで)の経歴(けいれき)であるが之(これ)をザツト申述(もうしの)べて見(み)ると御承知(ごせうち)の通(とほり)池田信輝(いけだのぶてる)の次男で幼名(えうめい)を古(こ)
新(しん)と呼(よ)び初(はじ)めは照政(てるまさ)と書(か)いたが後(のち)には輝政(てるまさ)と書(かい)たのである兄(あに)を之助(ゆきすけ)と云つたが父(ちゝ)信輝(のぶてる)は織田信長(をたのぶなが)乳母(うば)
の子(こ)であるので信長(のぶなが)の父(ちゝ)信秀(のぶひで)の代(だい)から織田氏(をたし)に仕(つか)へ頗(すこぶ)る功名(こうみよう)を現(あら)はした人である然(しか)るに信長(のぶなが)薨去(こうきよ)の後(のち)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十
【本文】
まだその移転を実行しない前に輝政の方が姫路に移封となったので、悟真寺はその替え地をもらった得となったような訳であるが、その後移転は遂に立ち消えとなったが、輝政からもらった敷地は今も尚大字花田字築地に九千七百余坪の地を所有していると云う結果となったのである。その外にも市内の鍛冶職を今俗に元鍛冶町と称する処に移し集めたのも矢張り輝政であると云う伝説がある。併しこれも種々の事情から推及すると確かに信が置けるように思われる。そこで城郭であるが、これまた現今に残っている状態は確かに輝政の計画に成るものが大部分であると信じられる。もっともそれも「三河国二葉松」や「三河堤」などに伝説が記してあるのと口碑に伝わっている位に過ぎぬのではあるが、酒井氏在城時代の城地は到底今日のような大きさのものではなかったと云うことは、当時の戦いを記したものだの前に申し述べた橋梁の位置などでも分かると思う。そして輝政後にはあまり大なる普請をこの城に加えた事実がないので、また徳川時代となっては濫りに城地の拡張は許しもしなかったのであるから、矢張り前に述べた伝説口碑は全く事実であるものと信ずるのであるが、兎に角当時十五万二千石の大名としては比較的に大規模の計画であったものと云うべきである。
また旧柳生門と云うものは元と長篠城の大手門であったのをこの城に移したのであると云う伝説口碑があるが、これは果たして酒井忠次の時であるか輝政の時であるか、移転の時代について少しく明瞭を欠く所があると思う。併し「三河国二葉松」には「或云往古大手門ト云飽海門也、次柳生門大手通ニ用、池田三左衛門ノ時有城普請ト云」とあって、初めは飽海門が大手であったが後に柳生門を大手通となしたものであると云う説であるが、これは確かであるに相違ない。結局輝政がこの吉田城を初め市街に向って比較的大規模の拡張を行い、それが今日に残っている総ての基礎となっている事は事実と信ずべきであると思う。
そこで私が常に思うのは、この豊川の治水事業と云うものは元来誰が行ったであろうかと云うことである。即ちこの
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
川が古来崖岸広遠で渡船さえ困難であった事から、それが次第に土砂のために埋まって遂には土橋さえ架せられるに至った事は前にも段々申し述べた通りであるが、現に残っている治水事業と云うものは中々工夫したもので、今日の学術から見たらばどうであるかそれは私共には分からぬ事であるが、兎に角到底大事業家でなければ成し能わざることであると思う。彼の上流にある宮井戸の乗り越しから箕堤の工事などと云うものは当時にありては余程工夫したものと云わねばならぬ。これ等はどうも歴代の城主中でこの輝政より外に之を成すべき適当の人はなかったであろうと思う。
特に此頃私は播州の姫路に立寄って輝政の事蹟を見たのであるが、輝政がこの吉田より姫路に移ってからなした事業の中で、彼の白鷺城の建築と云い三左衛門堀の計画と云い、また市街を米字形に区画したと云うことなどは頗る思い当たる処があるように感じたのである。併しこれは只私の臆説であるが、兎に角ここに意見を申し述べて諸君の高教を仰ぐとする次第である。
以上の如く輝政がこの吉田に施した事業と云うものは、遺憾ながら細密には分かり兼ぬるが、兎に角大体の上から見てもこの土地に対しては空前の計画をなしたもので、また其の後今日までには到底これに及ぶべき企画をなしたものはなかった事と思う。而もこの地における計画と云い姫路における遣り口と云い、孰れも雄大なる規模であるが、例えば加藤清正が熊本の経営をなした様な工合で、如何にも豊臣時代における勇将の遣り前を現わしているのは誠に壮快の感に堪えぬのである。そして輝政がこの吉田に来たのは其二十七歳の時で、まだ青年時代と云ってもよいのであるが、これより慶長五年まで殆ど十ヶ年の間この地にいたのである。
そして輝政がこれまでの経歴であるが、これをざっと申し述べて見ると、ご承知の通り池田信輝の次男で幼名を古新と呼び、初めは照政と書いたが後には輝政と書いたのである。兄を之助と云ったが、父信輝は織田信長乳母の子であるので、信長の父信秀の代から織田氏に仕え頗る功名を現した人である。然るに信長薨去の後
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十一
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 170
[Main Text]
Before the relocation could be carried out, Terumasa was transferred to Himeji, so Gōshin Temple ended up gaining from receiving the replacement land. Although the relocation was ultimately abandoned, the temple site that Terumasa had provided still results in the temple owning over 9,700 tsubo of land in Ōaza Hanada, Aza Chikuji to this day. In addition, there is a legend that it was also Terumasa who relocated and gathered the city's blacksmiths to what is now commonly called Moto-kajimachi. However, considering this from various circumstances, it seems quite credible.
Regarding the castle grounds, it is believed that most of what remains today was certainly planned by Terumasa. Although this is only based on legends recorded in works like "Mikawa no Kuni Futabamatsu" and "Mikawa Tsutsumi" and oral traditions, it is clear from records of battles of that time and the bridge positions I mentioned earlier that the castle grounds during the Sakai clan's residence were by no means as large as they are today. Since no major construction was added to this castle after Terumasa, and during the Tokugawa period arbitrary expansion of castle grounds was not permitted, I believe the legends and oral traditions mentioned earlier are entirely factual. In any case, for a daimyo of 152,000 koku at that time, this was a relatively large-scale plan.
There is also a legend that the former Yagyu Gate was originally the main gate of Nagashino Castle that was moved to this castle, but it is somewhat unclear whether this was during Sakai Tadatsugu's time or Terumasa's time. However, "Mikawa no Kuni Futabamatsu" states: "Some say that in ancient times the main gate was called Akumi Gate, but later Yagyu Gate was used as the main approach, and there was castle construction during Ikeda Sanzaemon's time." This suggests that initially Akumi Gate was the main gate, but later Yagyu Gate became the main approach, and this account seems certainly correct. Ultimately, I believe it is factual that Terumasa carried out relatively large-scale expansions of both Yoshida Castle and the urban area, which became the foundation for everything that remains today.
What I constantly wonder about is who originally carried out the flood control works on the Toyokawa River. Namely, this...
[Header note] Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his draft is nearly complete...
[Left Page]
[Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun.
[Main Text]
...river had steep and wide banks since ancient times, making even ferry crossings difficult, but gradually became filled with sediment until even earthen bridges could be built, as I have mentioned repeatedly before. The flood control works that actually remain are quite ingenious, and while I cannot say how they would be evaluated by today's academic standards, they were certainly achievements that only a great civil engineer could have accomplished. The bypass at Miyaido upstream and the construction of Minotsutsumi and other works must have been quite ingenious for their time. Among all the successive castle lords, I believe Terumasa was the only one suitable to accomplish such works.
Recently I visited Himeji in Harima Province and observed Terumasa's achievements. Among the projects he undertook after moving from Yoshida to Himeji - the construction of Hakuro Castle (White Heron Castle), the planning of Sanzaemon Moat, and the urban planning in a rice-character pattern - I felt there were quite striking similarities. However, this is merely my speculation, and I present this opinion seeking your learned guidance.
As described above, while the details of the projects Terumasa implemented in Yoshida are regrettably not precisely known, from a general perspective these represented unprecedented planning for this region, and I believe no subsequent projects have matched this scale to the present day. Whether considering his planning in this area or his methods in Himeji, both show grand-scale projects comparable to Katō Kiyomasa's development of Kumamoto, truly displaying the enterprising spirit of military commanders of the Toyotomi era, which fills one with admiration. Terumasa came to Yoshida at age twenty-seven, still in his youth, and remained in this region for nearly ten years until Keichō 5 (1600).
Regarding Terumasa's background up to this point, to summarize briefly: as you know, he was the second son of Ikeda Nobuteru, with the childhood name Koshin. Initially written as Terumasabut later as Terumasa. His elder brother was called Nosuke. His father Nobuteru was the son of Oda Nobunaga's wet nurse, so he served the Oda clan from the time of Nobunaga's father Nobuhide and achieved considerable fame. However, after Nobunaga's death...
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Ikeda Terumasa and Yoshida) - 171