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【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十四
【本文】
ソコで輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に残(のこ)した事柄(ことがら)で尚(な)ほ一つ諸君(しよくん)に御紹介(ごせうかい)せねばならぬのが妙円寺(みようゑんじ)建立(こんりう)の事である妙(みよう)
妙円寺 円寺(ゑんじ)は日蓮宗(にちれんしう)の寺(てら)で今(いま)も尚(な)ほ当市(とうし)大字(おほあざ)清水(しみづ)に現存(げんぞん)して居(を)る此(この)寺(てら)は初(はじ)め妙立寺(みようりうじ)と云つて文禄(ぶんろく)二年の建立(こんりう)
であるが元(も)と遠江国(とふとうみのくに)吉美(よしみ)の妙立寺(みようりうじ)から別(わか)れたもので当時(とうじ)其(その)妙立寺(みようりうじ)の僧(そう)に日円(にちゑん)と云ふ人があつて余程(よほど)の
輝政と日円 名僧(めいそう)であつたが輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)にあるの時に深(ふか)く日円(にちゑん)を信(しん)じて数々(しば〳〵)招(せう)じて教(おしへ)を聴(き)いと云ふ事が妙円寺(みようゑんじ)
の記録(きろく)に残(のこ)つて居る即(すなは)ち此(この)人(ひと)の為(ため)に一 寺(じ)を現今(げんこん)の処に創立(そうりつ)して初めて矢張(やはり)妙立寺(みようりうじ)と称(せう)したのであるが
其後(こののち)輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に移封(いほう)になつて又(ま)た此(この)日円(にちゑん)を呼(よ)び寄(よ)せたので姫路(ひめぢ)にも妙立寺(みようりうじ)と云ふ寺(てら)を建立(こんりう)したので
あるソコで当市(とうし)の方(はう)は妙円寺(みようゑんじ)と改称(かいせう)し今(いま)に至(いた)つたものであるが私(わたくし)は此(この)頃(ころ)姫路(ひめぢ)に参(まゐ)つた時(とき)態々(わざ〳〵)其(その)妙立(みようりう)
寺(じ)を尋(たづ)ねて見(み)たが惜(おし)い事に僧侶(そうろ)が皆(みな)不在(ふざい)で何等(なんら)得(う)る処がなかつたのである併(しか)し規模(きぼ)は余(あま)り大(おほき)な寺(てら)では
なく締(しま)りのよい一寸(ちよつと)したものであるモツトモ輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に於(おい)て卒(そつ)したが其(その)地(ち)の龍峯寺(りうはうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)り
後(のち)に至(いた)つて儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備前国(びぜんのくに)和気郡(わきこほり)敦土山(つるどやま)に改葬(かいそう)したのであるから此(この)妙立寺(みようりうじ)は元(もと)より池田家(いけだけ)の菩提寺(ぼだいじ)
などと云ふ訳(わけ)ではなく只(た)だ輝政(てるまさ)が日円(にちゑん)を信(しん)ずるの余(あま)り其(その)人(ひと)の為(ため)に特(とく)に建立(こんりう)したものであると云ふ事が
分(わか)るのである当市(とうし)の妙円寺(みようゑんじ)も亦(ま)た右(みぎ)と同様(どうよう)の次第(しだい)であるが只(た)だ当時(とうじ)の日円(にちゑん)と輝政(てるまさ)とに関係(くわんけい)せる文書(ぶんしよ)な
どが少(すこ)しも今日に残(のこ)つて居(を)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である
⦿池田輝政の人物
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた外(ほか)に輝政(てるまさ)の人物(じんぶつ)に就(つい)ては大(おほい)に伝(つた)ゆべきものがあると思(おも)ふ名将言行録(めいせうげんこうろく)の中(なか)には其(その)人(ひと)とな
輝政の人物 りに就(つい)て「輝政(てるまさ)幼(よう)にして倜儻(てきたう)長(てう)ずるに及(およ)びて雄偉人(ゆうゐじん)となり剛直(がうちよく)にして下(した)に臨(のぞ)むに寛(かん)なり多(おほ)く名士(めいし)を招(せう)
致(ち)し孝悌(かうてい)を旌表(せいひよう)し上(かみ)に勤(つと)めて夙夜(しゆくや)懈(おこた)らず卒(そつ)するに及(およ)び上下駭惋(ぜげがんゑん)せざるものなし」としてあるが実(じつ)に其(その)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
輝政の幼時 通(とほ)りであつた事と思(おも)ふ元来(がんらい)輝政(てるまさ)と云ふ人は小供(こども)の時から剛気(がうき)であつたが之(これ)は其(その)十歳の時の話(はなし)である父(ちゝ)
勝入(しようにふ)が囲炉裏(ゐろり)に栗(くり)の実(み)を入(い)れて焼(や)いて居(を)つたが輝政(てるまさ)が其(その)側(かたはら)に居寄(ゐよ)つたので勝入(しようにふ)は此(この)栗(くり)が欲(ほ)しいかと
尋(たづ)ねたスルト輝政(てるまさ)は欲(ほ)しいと答(こた)へたので其(その)胆力(たんりよく)を試(こゝろ)みむと思(おも)ふたものかソレと云ふので勝入(しようにふ)は火(ひ)の中(なか)
にあつた栗(くり)を其(その)まゝ箸(はし)で挟(はさ)むで輝政(てるまさ)の手(て)の上(うへ)に与(あた)へたのである普通(ふつう)ならば小供(こども)でなくても之(これ)は熱(あつ)いと
云ふので驚(おどろ)くべき処であるが此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で押(お)し戴(いたゞ)いて之(これ)を食(た)べたと云ふ事が備前老(びぜんらう)
人物語(じんものがたり)と云ふものゝ中(なか)にあると云ふので色々(いろ〳〵)の書物(しよもつ)に引用(いんよう)せられて居(を)るモツトモ此(この)類(るい)の話(はなし)は如何(いか)にも
東西(とうざい)の英雄伝中(えいゆうでんちう)によくある事であるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が幼少(ようせう)の頃(ころ)から非凡(ひぼん)の剛気(ごうき)であつた事が分(わか)ると思(おも)ふ
輝政の質素 然(しか)るに此(この)輝政(てるまさ)と云ふ人は勢力(せいりよく)を得(え)て後(のち)も実(じつ)に質素(しつそ)の人で思(おも)ひ出草(いでぐさ)と云ふものゝ中(なか)に輝政(てるまさ)の事を記(しる)して
姫路(ひめぢ)の城(しろ)に住給(すみたま)ひし時(とき)居間(ゐま)の竹水筒(たけすゐとう)しば〳〵損(そん)しけるゆへ有司(ゆうじ)とも今世上(いませぜう)にて水筒(すゐとう)を銅(あかがね)にて作(つく)る
事はやり申なり一 度(ど)拵(こしら)へ候へは何時(いつ)迄(まで)も損(そん)せぬゆへに倹約(けんやく)にもなるへしと乞(こ)ひければ其(その)方(はう)とも云ふ
如(ごと)く一 度(ど)に物(もの)を入(い)れて後(あと)の為(ため)にはなるへけれと今(いま)費(つひや)す所(ところ)竹(たけ)とは大(おほい)に相違(さうゐ)あるべし何事(なにごと)も世(よ)につれて
旧(きう)を改(あらた)むるよからぬ事なりと仰(あふ)せられて其(その)儀(ぎ)止(や)みぬ
と書(か)いてあるような次第(しだい)であるトコロが巳(おの)れの此(こ)の質素(しつそ)倹約(けんやく)なるに似(に)ず其(その)家直(いへなほ)に対(たい)しては頗(すこぶ)る厚遇(こうぐう)を
《割書:輝政士を愛|す》 与(あた)へたもので又(ま)た名士(めいし)とあれば勉(つと)めて之(これ)を召抱(めしかゝ)へたのである即(すなは)ち自(みづか)ら奉(ほう)ずるに薄(うす)く人を遇(ぐう)するに厚(あつ)し
と云ふ事を能(よ)く実行(じつこう)した人であるが或時(あるとき)老臣共(らうしんども)が輝政(てるまさ)の余(あま)りに倹素(けんそ)であるのを見兼(みか)ねて少(すこ)しは寛(かん)にせ
られたらば如何(いかゞ)であろうかと云ふ事を申上(もうしあげ)た処が輝政(てるまさ)が云ふには成程(なるほど)自分(じぶん)にも倹(けん)に過(す)ぐると云ふ事は
知(し)つて居(を)るが如何(いかん)せん斯(か)くあらでは家来(けらい)を多(おほ)く召抱(めしかゝ)ゆることは出来(でき)ぬ今(いま)は世(よ)が静(しづか)であつても何時(いつ)乱(みだ)るゝ
事があるかも分(わか)らぬ此(この)上(うへ)にも欲(ほ)しきものは武士(ぶし)であるから無益(むえき)の入費(にふひ)を省(はぶ)いて人を多(おほ)く抱(かゝ)ゆるのが予(よ)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十四
【本文】
そこで輝政がこの吉田に残した事柄でなお一つ諸君に御紹介しなければならないのが妙円寺建立の事である。妙円寺は日蓮宗の寺で今もなお当市大字清水に現存している。この寺は初め妙立寺と云って文禄二年の建立であるが、元は遠江国吉美の妙立寺から分かれたもので、当時その妙立寺の僧に日円という人があって相当の名僧であったが、輝政はこの吉田にある時に深く日円を信じて度々招いて教えを聴いたということが妙円寺の記録に残っている。即ちこの人のために一寺を現今の処に創立して初めてやはり妙立寺と称したのであるが、その後輝政は姫路に移封になってまたこの日円を呼び寄せたので姫路にも妙立寺という寺を建立したのである。そこで当市の方は妙円寺と改称し今に至ったものであるが、私はこの頃姫路に参った時わざわざその妙立寺を尋ねて見たが惜しい事に僧侶が皆不在で何等得る処がなかったのである。しかし規模は余り大きな寺ではなく締りのよい一寸したものである。もっとも輝政は姫路において卒したが、その地の龍峯寺という寺に葬り、後に至って儒礼を以って備前国和気郡敦土山に改葬したのであるから、この妙立寺は元より池田家の菩提寺などという訳ではなく、ただ輝政が日円を信ずるの余り、その人のために特に建立したものであるということが分かるのである。当市の妙円寺もまた右と同様の次第であるが、ただ当時の日円と輝政とに関係せる文書などが少しも今日に残っていないのは遺憾とする処である。
⦿池田輝政の人物
前章に申し述べた外に輝政の人物については大いに伝えるべきものがあると思う。名将言行録の中にはその人となりについて「輝政幼にして倜儻、長ずるに及びて雄偉人となり、剛直にして下に臨むに寛なり。多く名士を招致し孝悌を旌表し、上に勤めて夙夜懈らず。卒するに及び上下駭惋せざるものなし」としてあるが、実にその
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
通りであった事と思う。元来輝政という人は小供の時から剛気であったが、これはその十歳の時の話である。父勝入が囲炉裏に栗の実を入れて焼いていたが、輝政がその側に居寄ったので勝入はこの栗が欲しいかと尋ねた。すると輝政は欲しいと答えたので、その胆力を試みんと思ったものか、それというので勝入は火の中にあった栗をそのまま箸で挟んで輝政の手の上に与えたのである。普通ならば小供でなくても、これは熱いというので驚くべき処であるが、この時輝政は驚かない。一向平気で押し戴いてこれを食べたという事が備前老人物語というもののなかにあるというので色々の書物に引用されている。もっともこの類の話は如何にも東西の英雄伝中によくある事であるが、兎に角輝政が幼少の頃から非凡の剛気であった事が分かると思う。
然るにこの輝政という人は勢力を得て後も実に質素の人で、思い出草というもののなかに輝政の事を記して「姫路の城に住給いし時、居間の竹水筒しばしば損じけるゆえ、有司ども今世上にて水筒を銅にて作る事はやり申なり。一度拵え候えば何時までも損ぜぬゆえに倹約にもなるべしと乞いければ、その方ども云う如く一度に物を入れて後の為にはなるべけれど、今費やす所竹とは大いに相違あるべし。何事も世につれて旧を改むるよからぬ事なりと仰せられてその儀止みぬ」と書いてあるような次第である。ところが己のこの質素倹約なるに似ず、その家直に対しては頗る厚遇を与えたもので、また名士とあれば勉めてこれを召抱えたのである。即ち自ら奉ずるに薄く人を遇するに厚しということを能く実行した人であるが、或時老臣共が輝政の余りに倹素であるのを見兼ねて少しは寛にせられたらば如何であろうかという事を申上げた処が、輝政が云うには「成程自分にも倹に過ぐるということは知っているが、如何せん斯くあらでは家来を多く召抱えゆることは出来ぬ。今は世が静かであっても何時乱るる事があるかも分からぬ。この上にも欲しきものは武士であるから無益の入費を省いて人を多く抱えゆるのが予
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十五
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 174
[Main Text]
Now, there is one more matter that Terumasa left behind in Yoshida that I must introduce to you all - the establishment of Myōenji Temple. Myōenji is a Nichiren sect temple that still exists today in the Shimizu district of our city. This temple was initially called Myōryūji and was established in Bunroku 2, but it originally split off from Myōryūji Temple in Yoshimi, Tōtōmi Province. At that time there was a monk at that Myōryūji named Nichien who was quite a renowned priest, and when Terumasa was in Yoshida, he deeply believed in Nichien and frequently invited him to listen to his teachings, according to records remaining at Myōenji Temple. He established a temple at the present location for this person and initially called it Myōryūji as well. Later, when Terumasa was transferred to Himeji, he summoned Nichien there too and built a temple called Myōryūji in Himeji as well. Therefore, the one in our city was renamed Myōenji, which continues to this day. When I recently visited Himeji, I made a point of seeking out that Myōryūji temple, but unfortunately all the monks were absent and I gained nothing from the visit. However, it is not a very large temple in scale but rather a neat, compact establishment. Terumasa died in Himeji and was buried at a temple there called Ryūhōji, and later was reburied according to Confucian rites at Tsurudo-yama in Wake District, Bizen Province. Therefore, this Myōryūji was never the Ikeda family temple, but rather was built specifically for Nichien due to Terumasa's deep faith in him. The Myōenji in our city has the same background, but it is regrettable that no documents relating to Nichien and Terumasa from that time remain today.
⦿The Character of Ikeda Terumasa
Besides what I described in the previous chapter, I think there is much to be said about Terumasa's character. The "Record of Famous Generals' Words and Deeds" describes his character as follows: "Terumasa was bold and unconventional in his youth, and grew to become a heroic figure. He was upright and strict yet lenient with his subordinates. He recruited many distinguished men, honored filial piety and brotherly respect, served his lord diligently day and night without slacking. When he died, there was none among high and low who was not shocked and saddened." I believe this was truly the case.
[Left Page]
[Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper
[Main Text]
Originally, Terumasa had been strong-willed since childhood - here is a story from when he was ten years old. His father Shōnyū was roasting chestnuts in the hearth when Terumasa came to sit beside him. Shōnyū asked if he wanted some chestnuts. When Terumasa said yes, perhaps wanting to test his courage, Shōnyū used chopsticks to pick up a chestnut straight from the fire and placed it in Terumasa's hand. Normally even an adult would cry out that it was hot and be startled, but Terumasa showed no surprise at all. He calmly received it respectfully and ate it. This story appears in something called "Tales of Old Men of Bizen" and has been quoted in various books. Of course, this type of story commonly appears in hero legends from East and West, but in any case, we can see that Terumasa had extraordinary courage from his early childhood.
However, even after gaining power, Terumasa remained truly frugal. In a work called "Recollections" there is an account of Terumasa: "When he resided in Himeji Castle, the bamboo water containers in his living quarters frequently broke, so his officials said, 'These days it is fashionable to make water containers from copper. If we have one made, it will never break and would be economical.' He replied, 'As you say, investing once would benefit the future, but the current expense would be very different from bamboo. It is not good to change old ways just to follow the times,' and the matter was dropped." Yet despite his personal frugality, he treated his retainers very generously and made efforts to recruit distinguished men. He truly practiced the principle of "being sparing with oneself but generous with others." Once when his senior retainers, concerned about his excessive frugality, suggested he might be a bit more lenient with himself, Terumasa replied: "I certainly know that I am perhaps too frugal, but I cannot help it - without this I could not support many retainers. Though the world is peaceful now, one never knows when it might be disturbed again. What I desire most is warriors, so I save on unnecessary expenses to support many men. This is my
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 175