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【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十六
【本文】
の楽(たのし)みであると答(こた)へたと云ふのであるが有斐録(ゆうひろく)の中(なか)にも輝政(てるまさ)が平素(へいそ)身分(じしん)には極(きは)めて質素(しつそ)な暮(くら)しをして
居(を)つた事を記(しる)した後(あと)に
是(こゝ)にて当時(とうじ)御質素(おんしつそ)なる事 思(おも)ひ知(し)るべし唯(たゞ)武備(ぶび)御人数(ごにんずう)にのみ御心(おこゝろ)を用(もち)ひ給(たま)ひ世(よ)に名(な)ある浪士(らうし)をは高知(かうち)
にて被召出(めしいだされ)御忠節(ごちうせつ)を被励(はげまされ)或時(あるとき)厠(かはや)に被為入(いらせられ)けしからぬ御声聞(おんこゑきこ)へける故(ゆゑ)御側(おそば)の人々 驚(おどろ)き走(はしつ)て奉伺(ほうし)御機(ごき)
嫌(げん)は郷御笑(けいおんわらひ)被遊候(あそばされそうろ)て我(われ)常(つね)に軍旅(ぐんりよ)の事のみ工夫(くふう)を凝(こら)す今(いま)も図(づ)にあたりたると思(おも)ふとあるに付(つき)我(われ)なら
ず斯(か)く之 有(あり)つらめあやしむことなかれ沙汰(さた)なし〳〵と御意被遊(ぎよいあそばされ)と老人(らうじん)の語(かた)り伝(つた)ふるあり
と云ふ事が載(の)せてあるソウ云ふ訳(わけ)であるから関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)後(ご)などは特(とく)に浪人共(ろうにんども)が輝政(てるまさ)の処へ行(い)つて住(す)み
込(こ)むだもので前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた牧野傳蔵成里(まきのでんざうなりさと)の如(ごと)きも矢張(やはり)此(この)人(ひと)に依(よ)つたのであるが輝政(てるまさ)は頗(すこぶ)る之(これ)
を優遇(ゆうぐう)し飽(あ)くまでも其(その)世話(せわ)をして遂(つひ)に家康(いへやす)に面会(めんくわい)せしめ旗本(はたもと)にまで引立(ひきたて)つるようにしたのであるそれ
等(ら)の親切(しんせつ)と云ふものは到底(とうてい)普通(ふつう)では出来(でき)ぬ事であると思(おも)ふがこう云ふ風(ふう)であるから輝政(てるまさ)は又(ま)た人に向(むか)
《割書:克く過を改|む》 つては頗(すこぶ)る寛大(かんだい)で自身(じしん)には克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ人であるソレにも種々(しゆ〳〵)なる資料(しれう)がある事であるが
《割書:租税を軽く|す》 先(ま)づ租税(そぜん)の幾分(いくぶん)を免除(めんぢよ)した事蹟(じせき)が諸処(しよ〳〵)に残(のこ)つて居(を)るのは其一である常山記談(じようざんきだん)にある左(さ)の記事(きじ)なども甚(はなは)
だ面白(おもしろ)い事であると思(おも)ふから抄録(しようろく)する
輝政(てるまさ)公(こう)武将(ぶせう)の重宝(じゆうほう)とすべきは領分(れうぶん)の百 姓(せう)と譜代(ふだい)の士(し)と鶏(にはとり)と三品なりそれを如何(いかん)と云ふに百 姓(せう)は田(た)
畑(はた)を作(つく)りて我上下(わがぜうげ)の諸卒(しよそつ)をやしなふ是(こ)れ一つの重宝(じようほう)なり譜代(ふだい)の士(し)たとへ気(き)に不応(おうぜず)して扶持(ふち)を放(はな)すと
いへども敵国(てきこく)にて彼者(かのもの)を実(じつ)に扶持(ふち)放(はなし)たると不思(おもはず)して間(ま)にも入(い)るゝかと思(おも)ふて疑(うたが)ふゆへに敵国(てきこく)に逗留(とうりう)
することあたはずして終(つひ)には我国(わがくに)へ帰(かへつ)て我兵(わがへい)となるゆへこれ二つの宝(たから)なり又(また)目(め)に見(み)ゆる相図(あひづ)耳(みゝ)に聞(きこ)ゆ
る相図(あひづ)は敵(てき)の耳目(じもく)にかゝることゆへにたやすく敵国(てきこく)にてなしがたし鶏鳴(けいめい)は唯(たれ)もその相図(あひづ)ぞと知(し)らざる
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百四十号附録 ( 明治四十四年十二月十九日発行 )
【本文】
ゆへに即(すなは)ち敵国(てきこく)の鶏鳴(けいめい)にて一 番鳥(ばんどり)にて人衆(じんしゆう)を起(おこ)し二 番鳥(ばんどり)にて食(しよく)し三 番鳥(ばんどり)にて打立(うちたつ)などゝ相図(あひづ)を究(きはめ)て
敵(てき)もその相図(あひづ)を知(し)らざるの徳(とく)ありこれ三つの重宝(じゆうほう)なり是(これ)を三の重宝(じゆうほう)と立(たて)しと宣(のたま)ふなり
輝政の寛大 又(ま)た大日本史料(だいにつぽんしれう)の内(うち)に池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)を引(ひ)いて左(さ)の記事(きじ)があるが其(その)内(うち)の一つは此(この)吉田(よしだ)に於(おい)てあつた事
らしいから尚更(なほさ)ら好資料(こうしれい)だと思(おも)ふのである
参河(みかは)にての事成(ことなり)しが或時(あるとき)御祝(おんいはひ)の申楽(さるがく)を設(もう)けられしにけふは何(なに)ほと大音(だいおん)にてもほめん事(こと)苦(くる)しからず若(もし)
諍論(そうろん)などする者(もの)あらば理非(りひ)の弁(わきまへ)なく罪(つみ)すべしと令(れい)ありみつからも其技(そのぎ)をし給(たま)ふ折(をり)ふし拝見(はいけん)の中(なか)に
口論(こうろん)起(おこ)りすでに掴合(つかみあひ)ける故(ゆへ)八田八蔵 梶浦太郎兵衛(かじうらたろべゑ)など走(はし)り行(ゆき)て取静(とりしづ)め双方(そうほう)をあづけ置(おい)て御前(ごぜん)に帰(かへ)り
しかば先(さき)にさわがしきは何事(なにごと)ぞと御尋有(おたづねあり)太郎兵衛(たろべゑ)あれは山椒(さんしよ)にむせ候を傍(かたはら)ゟ介抱(かいほう)いたし候也 遠(とほ)く
見候(みそうら)へは誠(まこと)に喧嘩(けんくわ)の様(やう)に見(み)え候と申(もう)す国清公(こくせいこう)聞(きこ)し召(めし)それははや快(よき)か汝(なんぢ)見(み)て帰(かへ)れと仰(あふせ)ければ太郎兵衛(たろべゑ)
参(まゐ)りはやよく候と申(もうす)晩(ばん)に件(くだん)の両人(れうにん)御前(ごぜん)に伺公(しこう)しければけふの山椒(さんしよ)は出来事(できごと)ぞやと仰(あふせ)あり同公(どうこう)常(つね)に芹(せり)
を嗜(たしな)み給(たま)ひ備前国(びぜんのくに)御野郡(みのごほり)に生(せう)ずるを上品(ぜうひん)とせられ此(この)芹(せり)をとる事を禁(きん)じ給(たま)ふ或士(あるし)是(これ)を盗(ぬす)む百 姓共(せうども)其(その)旨(むね)
を萩田庄助(はぎたせうすけ)に訴(うつた)ふ庄助(せうすけ)又(また)其(その)由(よし)を申(もうし)ければ扨々(さて〳〵)にくき事かな夫(それ)は只(たゞ)取(とり)たるか但(たゞ)しは盗(ぬす)みたるかと仰(あふせ)け
る庄助(せうすけ)盗候(ぬすみそうろ)と申(もう)す重(かさね)て仰(あふせ)に我等(われら)より留置(とめおき)たるをおして取(とり)たらば一入(ひとしほ)にくき事ぞ盗(ぬすみ)たるは必定(ひつでう)我等(われら)
にひとしき芹(せり)すきにてや有(あり)けん其(その)侭(まゝ)にして置(おく)へしとぞ仰(あふせ)ける
《割書:克く過を改|む》 此(かく)の如(ごと)く輝政(てるまさ)は民(たみ)を恤(めぐ)み士(し)を愛(あい)し最(もつと)も寛大(かんだい)の行(おこなひ)か多(おほ)かつたが又(ま)た克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ例(たとへ)としては
備陽武義雑談(びやうぶぎざつだん)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある
八田豊後郷(はつたぶんごごう)の刀(かたな)を所持(しよじ)す無銘(むめい)二尺三寸のよしなり播磨姫路(はりまひめぢ)にて国清公(こくせいこう)右(みぎ)の刀(かたな)を指上(さしあげ)よと度々(たび〳〵)仰(あふせ)らる
れども奉(たてまつ)らすある夜(よ)御酒(ごしゆ)の後(のち)豊後(ぶんご)をめし度々(たび〳〵)所望(しよもう)する刀(かたな)を出(いだ)せと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)云(いふ)度々(たび〳〵)御断(おんことはり)申上候(もうしあげそうろ)通(とほり)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十六
【本文】
の楽しみである」と答えたということであるが、有斐録の中にも輝政が平素身分には極めて質素な暮らしをしていた事を記した後に
「これにて当時御質素なる事思い知るべし。ただ武備御人数にのみ御心を用い給い、世に名ある浪士をば高知にて召し出され御忠節を励まされ、或時厠に入らせられけしからぬ御声聞こえける故、御側の人々驚き走って伺い奉る。御機嫌はいかにと御笑い遊ばされ候て、我常に軍旅の事のみ工夫を凝らす。今も図に当たりたると思うとあるに付き、我ならず斯くこれ有りつらめ、怪しむことなかれ、沙汰なしなしと御意遊ばされと老人の語り伝うるあり」
ということが載せてある。そういう訳であるから関ヶ原の役後などは特に浪人共が輝政の処へ行って住み込むだもので、前章に申し述べて置いた牧野伝蔵成里の如きもやはりこの人に依ったのであるが、輝政は頗るこれを優遇し、飽くまでもその世話をして遂に家康に面会させ旗本にまで引き立てるようにしたのである。それ等の親切というものは到底普通では出来ぬ事であると思うが、こう云う風であるから輝政はまた人に向かっては頗る寛大で、自身には良く過ちを改めたという人である。それにも種々なる資料がある事であるが、先ず租税の幾分を免除した事跡が諸処に残っているのはその一である。常山記談にある左の記事なども甚だ面白い事であると思うから抄録する。
「輝政公武将の重宝とすべきは領分の百姓と譜代の士と鶏と三品なり。それを如何というに、百姓は田畑を作りて我上下の諸卒を養う。これ一つの重宝なり。譜代の士、たとえ気に応ぜずして扶持を放すといえども、敵国にて彼者を実に扶持放したると思わずして、間にも入るるかと思うて疑うゆえに敵国に逗留することあたわずして終には我国へ帰って我兵となるゆえ、これ二つの宝なり。また目に見ゆる相図、耳に聞こゆる相図は敵の耳目にかかることゆえにたやすく敵国にてなしがたし。鶏鳴は誰もその相図ぞと知らざる
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百四十号附録 (明治四十四年十二月十九日発行)
【本文】
ゆえに即ち敵国の鶏鳴にて一番鶏にて人衆を起こし、二番鶏にて食し、三番鶏にて打ち立つなどと相図を究めて敵もその相図を知らざるの徳あり。これ三つの重宝なり。これを三の重宝と立てしと宣うなり」
また大日本史料の内に池田家履歴略記を引いて左の記事があるが、その内の一つはこの吉田においてあった事らしいからなお更良資料だと思うのである。
「三河にての事成りしが、或時御祝の申楽を設けられしに、今日は何ほど大音にてもほめん事苦しからず。若し諍論などする者あらば理非の弁なく罪すべしと令あり。自からもその技をし給う折ふし、拝見の中に口論起こり既に掴み合いける故、八田八蔵、梶浦太郎兵衛など走り行きて取り静め、双方を預け置いて御前に帰りしかば、先にさわがしきは何事ぞと御尋ねあり。太郎兵衛、あれは山椒にむせ候を傍より介抱いたし候なり。遠く見候えば誠に喧嘩の様に見え候と申す。国清公聞し召し、それははや快きか、汝見て帰れと仰せければ、太郎兵衛参りはや良く候と申す。晩に件の両人御前に伺候しければ、今日の山椒は出来事ぞやと仰せあり。同公常に芹を嗜み給い、備前国御野郡に生ずるを上品とせられ、この芹を取る事を禁じ給う。或士これを盗む百姓共その旨を萩田庄助に訴う。庄助またその由を申しければ、さてさてにくき事かな、それは只取りたるか但しは盗みたるかと仰せける。庄助盗み候と申す。重ねて仰せに、我等より留め置きたるを押して取りたらば一入にくき事ぞ。盗みたるは必定我等にひとしき芹好きにてやありけん。その侭にして置くべしとぞ仰せける」
このように輝政は民を恤み士を愛し、最も寛大の行いが多かったが、また良く過ちを改めたという例としては備陽武義雑談の中に左の記事がある。
「八田豊後、郷の刀を所持す。無銘二尺三寸のよしなり。播磨姫路にて国清公右の刀を指し上げよと度々仰せらるれども奉らず。ある夜御酒の後、豊後を召し度々所望する刀を出せと仰せらる。豊後云う、度々御断り申し上げ候通り
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十七
英語訳
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 176
[Main Text]
pleasure." In the Yūhiroku as well, after recording that Terumasa lived an extremely frugal personal life, it states:
"From this one can understand how frugal he was at the time. He devoted his attention only to military preparations and personnel. He recruited famous masterless samurai with generous stipends and encouraged their loyalty. Once when he entered the privy, an unseemly sound was heard, so his attendants rushed in alarm to inquire about his condition. He laughed and said, 'I am always devising military strategies. I thought I had hit upon a good plan,' and told them not to be surprised, saying there was nothing to discuss." This is recorded as told by elderly retainers.
For this reason, especially after the Battle of Sekigahara, masterless samurai flocked to Terumasa's residence. Makino Denzō Narisato, whom I mentioned in the previous chapter, was one who relied on Terumasa. Terumasa treated him very favorably, took care of him thoroughly, and eventually arranged for him to meet Ieyasu and be promoted to hatamoto status. Such kindness was truly extraordinary and beyond what ordinary people could do. Because of this character, Terumasa was very lenient toward others while being strict in correcting his own mistakes. There are various sources documenting this, including records from many places showing that he reduced taxes to some extent. The following account from the Jōzankidan is quite interesting, so I will excerpt it:
"Lord Terumasa said the three treasures a military commander should value are: the farmers of his domain, hereditary retainers, and roosters. As to why: farmers cultivate fields and support all the troops, high and low - this is the first treasure. Even if hereditary retainers fall out of favor and are dismissed, enemy countries will suspect they might be spies rather than truly dismissed, so they cannot settle in enemy territory and eventually return to become our soldiers again - this is the second treasure. Visible and audible signals can be detected by enemy eyes and ears, making them difficult to use in enemy territory. But no one recognizes rooster calls as signals,
[Left Page]
[Header] San'yō Newspaper No. 3940 Supplement (Published December 19, Meiji 44)
[Main Text]
so we can use enemy roosters for signals - first crow to rouse the troops, second crow to eat, third crow to march out - establishing signals that enemies cannot recognize. This is the third treasure. These he called the three treasures."
Also, the Dai Nihon Shiryō quotes from the Ikeda Family Historical Summary with the following account, one of which apparently occurred here in Yoshida, making it particularly valuable source material:
"This happened in Mikawa. Once when a celebratory noh performance was arranged, he announced: 'Today you may praise as loudly as you wish without offense. But if anyone quarrels, they will be punished regardless of who is right or wrong.' He himself was performing when a quarrel broke out among the audience and they began grappling. Hatta Hachizō, Kajiura Tarōbei and others rushed to calm them, detained both parties, and returned to report. When asked what the commotion was about, Tarōbei said, 'Someone was choking on pepper and we were helping him. From a distance it truly looked like a fight.' Lord Kokusei said, 'Is he alright now? Go check and return.' Tarōbei reported that all was well. That evening when the two men came to pay their respects, he said, 'Today's pepper was quite an incident.' This same lord was fond of water celery, considering that grown in Mino District of Bizen Province to be the finest, and forbade harvesting it. When a certain samurai was caught stealing it, the farmers reported this to Hagita Shōsuke, who in turn reported it. The lord asked, 'That's detestable - did he just take it or actually steal it?' Shōsuke replied it was theft. The lord said again, 'If he took what I had forbidden, it is all the more detestable. But since he stole it, he must be as fond of celery as I am. Leave the matter as it is.'"
Thus Terumasa was compassionate to the people and loving toward his retainers, showing great magnanimity in his conduct, and was also good at correcting his mistakes. As an example of the latter, the Biyō Bugi Zatsudan contains this account:
"Hatta Bungo possessed a sword from his home province, unsigned, two shaku three sun long. At Himeji in Harima, Lord Kokusei repeatedly ordered him to present this sword, but he refused. One night after drinking, he summoned Bungo and ordered him to produce the sword he had requested many times. Bungo said, 'As I have repeatedly declined with apologies,
[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 177