Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 103

ページ: 103

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十八 【本文】         代々(だい〳〵)所持仕候(しよじつかまつりそうろ)刀(かたな)是(これ)を以(もつ)て御馬先(おんうまさき)を仕(つかまつ)るへしと心懸(こゝろがけ)居申(おりまうし)候へは指上(さしあげ)る事(こと)罷(まかり)ならすといふ其(その)時(とき)に国(こく)         清公(せいこう)怒(いか)りたまひてなげしにある薙刀(なぎなた)を取(とり)たまふ所(ところ)を豊後(ぶんご)扇(あふぎ)を以(もつ)て御顔(おんかお)をしたゝかに打奉(うちたてまつ)りて退出(たいしゆつ)        す元来(がんらい)御酒酔(おんさけよひ)の後(のち)の事(こと)なれは御側(おそば)の衆(しゆう)取鎮(とりしづ)め豊後(ぶんご)はわれ等(ら)に仰付(あふせつけ)られ候へと押留(おしとゞめ)奉(たてまつ)る其(その)後(のち)良(よく)あり        て御酔醒(おんよひざめ)の後(のち)深更(しんかう)に及(およ)ふといへとも豊後(ぶんご)を召(めさ)る豊後(ぶんご)御手討(おてうち)ならんと覚悟(かくご)して即(すなは)ち登城(とじよう)す直(たゞち)に御寝所(ごしんじよ)        へ召(めし)て仰(あふせ)には我(われ)酒(さけ)に酔(よひ)て其(その)方(ほう)を手討(てうち)にせんと仕(し)たりき我(われ)誤(あやま)れり其(その)方(ほう)少(すこし)も心(こゝろ)にかくるなと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)         不覚(おぼへず)落涙(らくるい)して退出(たいしゆつ)す国清公(こくせいこう)の御行跡(おんぎようせき)大(おほ)かた此(この)類(るい)多(おほ)しとかや 《割書:輝政士を愛|す》  モツトモ此(この)話(はなし)は八田豊後(はつたぶんご)と云ふ士(し)の剛直(がうちよく)な処も味(あぢは)ふべきであるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が善(よ)い家臣(かしん)を多(おほ)く持(も)つて        居(を)つたと云ふ事は敬服(けいふく)すべき処で池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)にある左(さ)の話(はなし)などは誠(まこと)に其(その)由(よつ)て来(きた)る処が伺(うかゞ)ひ知(し)らる       ゝように思(おも)ふのである         山脇源太夫(やまわきげんだいう)《割書:はしめ荒木摂津守村重につかへ荒|木滅亡の後池田家に来りつかふ》播州姫路(ばんしうひめぢ)にて煩(わずら)ひ薬師(やくし)手(て)を尽(つく)しけれとも其(その)験(しるし)なしされは京師(けうし)        にのほりて保護(ほご)を加(くは)ふへしと国清公(こくせいこう)の仰(あふせ)にて都(みやこ)に上(のぼ)り僑居(きようきよ)にて医療(ゐれう)せり此(この)時(とき)御見舞(おんみまひ)として山脇市太(やまわきいちだ)         夫(いう)に御直筆(おんぢきしつ)の御書(おんしよ)を持(もた)せて病(やまひ)を問(とひ)給(たま)ふ御書(おんしよ)の詞(ことば)には彼(かれ)か病(やまひ)の躰(てい)委(くわし)く御尋(おんたづね)ありしうへに近々(きん〳〵)旅宿(りよしゆく)へ御(おん)         出有(いである)へきとの御事(おんこと)也(なり)やかて姫路(ひめぢ)を御発駕(ごはつが)ありはる〳〵と山脇源太夫(やまわきげんだいう)か都(みやこ)の宿(やど)に入(い)らせ容躰(ようたい)いとねん        ころに訪(とひ)給(たま)ひ申置(もうしおき)たき事(こと)あらば申(もうす)べしと再(さい)三 仰有(あふせあり)けれは山脇(やまわき)答申(こたへもうし)けるは何申置事(なにもうしおくこと)も候(そうら)はず只(たゞ)某(それがし)         手前(てまへ)に年頃罷在候者(としごろまかりありそうらうもの)六 人(にん)毎度(まいど)いくさに私(わたくし)為(ため)に働(はたらき)たる者共(ものども)に候(そうろ)彼(かれ)をめし出(だ)され候はばやと申(もうし)        けれはいとやすき望也(のぞみなり)とて御落涙(ごらくるい)ありし扨(さて)御手水(おてふづ)に立給(たちたま)ふ西村小兵衛(にしむらこへゑ)御手水(おてふづ)まいらすれは汝(なんぢ)も六人        の内(うち)かと仰(あふせ)けれは西村(にしむら)平伏(へいふく)して罷在(まかりあ)るかくて源太夫(げんだいう)は日(ひ)にましよはりゆき終(つひ)に八月十九日 京師(けうし)に死(し)        す五十四歳也 此(この)源太夫(げんだいう)は雄功(ゆうこう)の士(し)にて三十三の首供養(くびくやう)せし程(ほど)の者也(ものなり)《割書:中|略》国清公(こくせいこう)山脇(やまわき)か遺言(ゐげん)にまかせ西(にし) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         村小兵衛(むらこへゑ)、 岡島新兵衛(をかじましんべゑ)、 古澤源之丞(ふるさはげんのじよう)、 福島(ふくしま)四 郎左衛門(ろざゑもん)、○○○○○六人を召出(めしいだ)されしと云(いふ) 《割書:伊木清兵衛|の諫言》  トコロが輝政(てるまさ)も初(はじ)めは成(な)るべく少(すくな)い扶持(ふち)で割合(わりあひ)によい士(し)を召拘(めしかゝ)へたいと思(おも)つたがそれは大(だい)なる誤(あやまり)で       あると云ふ事を覚(さと)つたものと見(み)ゆるので其(その)動機(どうき)とも云ふべき左(さ)の話(はなし)は矢張(やはり)備前老人物語(びぜんらうじんものがたり)の内(うち)にある事       であるが之(これ)亦(ま)た甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものであると思(おも)ふ         池田(いけだ)三 左衛門殿(ざゑもんどの)の家老(からう)伊木清兵衛(いきせいべゑ)病(やまひ)にふしてすてに末期(まつご)に臨(のぞみ)しに我(われ)今生(こんぜう)の望(のぞみ)ある也 今(いま)一 度(ど)君(きみ)の御目(おめ)        にかゝりたき也とありけれは三 左衛門殿(ざゑもんどの)きこしめし驚(おどろき)給(たま)ひいそきその家(いへ)にいたり枕(まくら)にちかつき給(たま)        ひいかに清兵衛(せいべゑ)心(こゝろ)はなにとあるそかほとの事ともしらさりしこそ疎(うとく)なりけれおもふ事あらはいひを        くへしその望(のぞみ)にしたかふへし本(もと)より跡目(あとめ)相違(さうゐ)あるましきとはいふにおよはすといとねんころに仰(あふせ)ら        れけり其(その)時(とき)清兵衛(せいべゑ)頭(かしら)をあけ両手(れうて)を合(あはせ)これ迄(まで)の入御(にふぎよ)ありかたし〳〵冥加(めいが)至極(しごく)せり遺跡(ゐせき)のことは愚息(ぐそく)か        覚悟次第(かくごしだい)に仰付(あふせつけ)らるへしとにもかくにも御(おん)はからひによる事(こと)なれはいさゝかも心(こゝろ)にかゝる事候(ことそうら)はす        たゝ一つ申(もうし)たき事候(ことそうら)へはこれを申(もう)さすしてむなしくなりなん事(こと)忘執(ぼうしつ)なるべけれは乍恐申(おそれながらもう)す也 公(こう)常(つね)        に物(もの)ことにほり出(だ)しをこのませ給(たま)ふ御病(おんくせ)あり中(なか)にも士(し)のほり出(だ)しを専(もつぱら)とし給(たま)ふことよからぬ御病(おんくせ)也 士(し)        はその分限(ぶんげん)よりは一 際(きは)よろしくあてかはせ給(たま)ひてこそ長(なが)く御家(おいへ)を不去(さらず)忠節(ちうせつ)を存(ぞん)ずへけれと申(もう)しけれ        は三 左衛門殿(ざゑもんどの)つく〳〵と聞給(きゝたま)ひ只今(たゞいま)の諫言道理至極(かんげんどうりしごく)せり其(その)志(こゝろざし)山(やま)よりも高(たか)く海(うみ)よりも深(ふか)し生前(せいぜん)にお        ゐて忘却(ぼうきやく)すへからすこゝろやすくおもふへしとて清兵衛(せいべゑ)か手(て)をとりなみだを流(なが)しなごり惜(おし)けにわか        れ給(たま)ひたりけり君臣(くんしん)の情(じよう)あわれなりしありさま也そののち家風(かふう)ます〳〵よくなりしとそ 矮 舞    其(その)他(た)輝政(てるまさ)の逸話(いつわ)に関(くわん)してはまだ〳〵沢山(たくさん)に伝(つた)へられて居(を)るのであるが大日本史料(だいにつぽんしれう)第(だい)十二 編(へん)の十一 輝政(てるまさ)        卒去(そつきよ)の処(ところ)に参考(さんこう)として諸種(しよしゆ)の書物(しよもつ)からも抄出(しようしゆつ)せられてある特(とく)に岡山市(をかやまし)国清寺(こくせいじ)所蔵(しよざう)の肖像(せうぞう)並(ならび)に其(その)自筆(じしつ)の 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十八 【本文】 代々所持つかまつり候刀、これを以て御馬先を仕るべしと心がけおり申し候えば、指し上げる事まかりならず」という。その時に国清公怒り給いて長押にある薙刀を取り給う所を、豊後扇を以て御顔をしたたかに打ち奉りて退出す。元来御酒酔いの後の事なれば、御側の衆取り鎮め「豊後は我等に仰せ付けられ候え」と押し留め奉る。その後良くありて御酔い醒めの後、深更に及ぶといえども豊後を召す。豊後御手討ちならんと覚悟して即ち登城す。直ちに御寝所へ召して仰せには「我酒に酔いてその方を手討ちにせんとしたりき。我誤れり。その方少しも心にかくるな」と仰せらる。豊後覚えず落涙して退出す。国清公の御行跡大かたこの類多しとかや。 もっともこの話は八田豊後という士の剛直な処も味わうべきであるが、とにかく輝政が善い家臣を多く持っていたという事は敬服すべき処で、池田家履歴略記にある左の話などは誠にその由って来る処が伺い知らるるように思うのである。 山脇源太夫(はじめ荒木摂津守村重に仕え、荒木滅亡の後池田家に来り仕う)播州姫路にて煩い、薬師手を尽くしけれどもその験なし。されば京師に上りて保護を加うべしと国清公の仰せにて都に上り、僑居にて医療せり。この時御見舞として山脇市太夫に御直筆の御書を持たせて病を問い給う。御書の詞には彼が病の体委しく御尋ねありし上に、近々旅宿へ御出であるべきとの御事なり。やがて姫路を御発駾ありはるばると山脇源太夫が都の宿に入らせ、容体いとねんごろに訪い給い「申し置きたき事あらば申すべし」と再三仰せありければ、山脇答え申しけるは「何申し置く事も候わず。ただ某手前に年頃罷りあり候う者六人、毎度いくさに私のために働きたる者共に候。彼をめし出され候わばや」と申しければ、「いと易き望なり」とて御落涙ありし。さて御手水に立ち給う。西村小兵衛御手水参らすれば「汝も六人の内か」と仰せければ、西村平伏して「罷りある」。かくて源太夫は日に増し弱りゆき、終に八月十九日京師に死す。五十四歳なり。この源太夫は雄功の士にて三十三の首供養せし程の者なり。(中略)国清公山脇が遺言にまかせ西 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 村小兵衛、岡島新兵衛、古澤源之丞、福島四郎左衛門、○○○○○六人を召し出されしという。 ところが輝政も初めは成るべく少ない扶持で割合によい士を召し抱えたいと思ったが、それは大なる誤りであるという事を覚ったものと見ゆるので、その動機とも云うべき左の話はやはり備前老人物語の内にある事であるが、これまた甚だ味わうべきものであると思う。 池田三左衛門殿の家老伊木清兵衛、病に伏してすでに末期に臨みしに「我今生の望みあるなり。今一度君の御目にかかりたきなり」とありければ、三左衛門殿聞こし召し驚き給い、急ぎその家に至り枕に近づき給い「いかに清兵衛、心はなにとあるぞ。かほどの事とも知らざりしこそ疎なりけれ。思う事あらば言い置くべし。その望みに従うべし。もとより跡目相違あるまじきとは言うに及ばず」といとねんごろに仰せられけり。その時清兵衛頭を上げ両手を合わせ「これまでの入御ありがたく、冥加至極せり。遺跡の事は愚息が覚悟次第に仰せ付けらるべし。とにもかくにも御計らいによる事なればいささかも心にかかる事候わず。ただ一つ申したき事候えば、これを申さずして空しくなりなん事、妄執なるべければ恐れながら申すなり。公常に物事にほり出しを好ませ給う御癖あり。中にも士のほり出しを専らとし給う事良からぬ御癖なり。士はその分限よりは一際よろしく当てがわせ給いてこそ長く御家を去らず忠節を存ずべけれ」と申しければ、三左衛門殿つくづくと聞き給い「ただ今の諫言道理至極せり。その志山よりも高く海よりも深し。生前において忘却すべからず。心安く思うべし」とて清兵衛が手を取り涙を流し名残惜しげに別れ給いたりけり。君臣の情あわれなりしありさまなり。その後家風ますますよくなりしとぞ。 その他輝政の逸話に関してはまだまだ沢山に伝えられているのであるが、大日本史料第十二編の十一輝政卒去の処に参考として諸種の書物からも抄出せられてある。特に岡山市国清寺所蔵の肖像並びにその自筆の 【欄外】 豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 178 [Main Text] This sword has been in our family for generations, and I am determined to use it in service at the head of your cavalry. Therefore I cannot present it.' At this, Lord Kokusei became angry and reached for a naginata that was on a shelf, whereupon Bungo struck the lord's face hard with his fan and withdrew. Since this happened after drinking, the attendants calmed the situation, saying 'Leave Bungo to us,' and restrained him. Later, after the lord sobered up, he summoned Bungo even though it was late at night. Bungo resolved that he would be executed and immediately went to the castle. He was summoned directly to the lord's bedchamber, where the lord said: 'I was drunk and tried to strike you down. I was wrong. Do not let this trouble your mind at all.' Bungo wept involuntarily and withdrew. Most of Lord Kokusei's conduct was of this nature. Of course, this story shows the admirable uprightness of the retainer Hatta Bungo, but in any case, the fact that Terumasa had many good retainers is truly admirable. The following story from the Ikeda Family Historical Summary truly reveals the source of this quality. Yamawaki Gendayū (who first served Araki Settsu-no-kami Murashige and came to serve the Ikeda family after Araki's downfall) fell ill at Himeji in Harima Province. Though physicians did their utmost, there was no improvement. Lord Kokusei ordered that he go to Kyoto for better care, so he went to the capital and received medical treatment while lodging there. At this time, as a gesture of concern, the lord sent Yamawaki Ichidayū with a letter in his own hand inquiring about the illness. The letter inquired in detail about his condition and stated that he would soon visit the lodgings. Soon after, he departed Himeji and traveled all the way to Yamawaki Gendayū's lodgings in the capital, inquiring most kindly about his condition and saying repeatedly, 'If there is anything you wish to say, speak it now.' Yamawaki replied: 'There is nothing I need to say. Only, I have six men who have served under me for many years and have fought for me in every battle. I would like them to be given positions.' The lord said, 'That is an easy request to fulfill,' and wept. Then he went to wash his hands. When Nishimura Kobei brought water for washing, the lord asked, 'Are you also one of the six?' Nishimura prostrated himself and replied that he was. Thus Gendayū grew weaker day by day and finally died in Kyoto on the 19th day of the 8th month at age 54. This Gendayū was a brave warrior who had performed memorial services for thirty-three heads he had taken. [omitted] Lord Kokusei, following Yamawaki's dying wish, summoned Nishi- [Header] Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper [Main Text] mura Kobei, Okajima Shinbei, Furusawa Gennosuke, Fukushima Shirōzaemon, and two others - six men in total - and gave them positions. However, Terumasa initially thought to employ relatively good retainers for as little stipend as possible, but he came to realize this was a great mistake. The following story, which might be called the catalyst for this realization, is also found in the Bizen Rōjin Monogatari and is quite instructive. Iki Seibei, chief retainer to Lord Ikeda Sanzaemon, took ill and was near death when he said, 'I have a wish for this life. I want to see my lord's face one more time.' When Lord Sanzaemon heard this, he was alarmed and hastily went to his house, approaching his pillow and saying most kindly: 'What is it, Seibei? What troubles your heart? How negligent of me not to have known of such a serious matter. If you have something to say, speak it. I will grant your wish. Needless to say, there will be no problem with your son's succession.' Then Seibei raised his head, pressed his palms together, and said: 'I am most grateful for your visit. It is a supreme blessing. Please handle my son's inheritance as you see fit according to his abilities. Since it depends entirely on your judgment, I have no concerns about it whatsoever. But there is one thing I must say - if I die without saying this, it would be a foolish obsession, so I humbly speak. You have a habit of seeking bargains in all things. Especially your practice of seeking bargain retainers is not a good habit. Only by treating retainers better than their station warrants will they serve your house long and remain loyal.' Lord Sanzaemon listened intently and said: 'Your remonstrance is absolutely reasonable. Your loyalty is higher than mountains and deeper than the sea. I will not forget this while I live. Be at peace.' He took Seibei's hand, shed tears, and parted from him with obvious reluctance. It was a touching scene of lord-retainer devotion. After this, the family's traditions improved greatly. There are many other anecdotes about Terumasa still preserved. In volume 12-11 of the Dai Nihon Shiryō, in the section on Terumasa's death, excerpts from various books are included as reference material. Particularly the portrait housed at Kokuseiji Temple in Okayama City and his autograph [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Character of Ikeda Terumasa) - 179