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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 104

ページ: 104

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【欄外】    豊橋市史談  (関ケ原役)                   百八十 【本文】        文書(ぶんしよ)なども掲載(けいさい)になつてあるから詳(くは)しい事(こと)は先(ま)づ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)られたいものであると思ふが尚(なほ)一つ御(お)        話(はなし)して置(お)きたいのは輝政(てるまさ)が頗(すこぶ)る矮小(わいせう)なる人であつたと云ふ事である或俗書(あるぞくしよ)には其丈(そのたけ)四尺に満(み)たずとし       てあるが之(これ)は余(あま)りに信(しん)ぜられぬように思(おも)ふモツトモ其頃(そのころ)の寸尺(すんしやく)と云ふものは今日(こんにち)のものとは違(ちが)つて居(を)       るであろうから何(なん)とも云へぬが思(おも)ひ出草(いでぐさ)の中(なか)にも         輝政卿同輩(てるまさきやうどうはい)の大名宴会(だいみようえんくわい)の座(ざ)にしてその矮人(わいじん)たるを笑(わら)ふものありけれはさらは予矮舞(よぜいびくまい)といふ新曲(しんきよく)をな        すへしとつと立(たち)あかりたまひ自(みづか)らせいひく舞(まひ)を見(み)さいなと打返(うちかへ)し囃(はや)したまひ播磨(はりま)、備前(びぜん)、淡路(あはぢ)と三         箇国(かこく)のぬしなれはせいほしとも思(おも)はすとうたひなから舞(まひ)たまひしかは座中興(ざちうけう)に入(いり)たりといひ伝(つたひ)たり       と云(い)ふ事(こと)があるから其(その)躯幹(くかん)は人並外(ひとなみはづ)れて低(ひく)かつたものであつた事は事実(じゞつ)であると信(しん)ずるのである之(これ)か       ら関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して御話(おはなし)したいと思ふ             ◎関ケ原役        之(これ)から関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して少(すこ)しく申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのであるがそれには先(ま)づ遡(さかのほつ)て秀吉(ひでよし)晩年(ばんねん)の事柄(ことがら)を概(がい)        説(せつ)する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ 秀吉の晩年  前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)く秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十二年に大阪城(おほさかじよう)が出来上(できあが)つて之(これ)に住(す)むだのであるが此年(このとし)から又(ま)た京(けう)        都(と)聚楽(しうらく)の邸(てい)を造営(ぞうえい)し其(その)十五年に至(いた)つて落成(らくせい)したのである而(しか)も其(その)十八年には小田原(をだはら)の北条氏(ほうでうし)を亡(ほろ)ぼし続(つゞ)       いて東北(とうほく)を平定(へいてい)し全(まつた)く天下(てんか)を掌握(せうあく)したのであるが天正(てんせう)は十九年まで続(つゞ)いて其(その)廿年に至(いた)つて文禄(ぶんろく)と改元(かいげん)       されたのである即(すなは)ち朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は此年(このとし)に起(おこ)されたので小西(こにし)行長(ゆきなが)加藤清正(かとうきよまさ)等(ら)を初(はじ)め中国(ちうごく)四 国(こく)九 州(しう)の諸(しよ)        候(こう)は皆之(みなこれ)に従軍(じんぐん)し秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら肥前(ひぜん)の名護屋(なごや)に出張(しゆつてう)して之(これ)を指揮(しき)したのである之(これ)より先(さ)き秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百四十六号附録    (明治四十四年十二月二十六日発行) 【本文】 《割書:秀吉関白職|を秀次に譲》  九年に其異母妹(そのゐぼまい)の子(こ)秀次(ひでつぐ)を養(やしなつ)て子(こ)となし之(これ)に関白職(くわんぱくしよく)を譲(ゆづ)つて自(みづか)らは太閤(たいかう)と称(せう)したのであるが元来(がんらい) 《割書:る    | 》         秀吉(ひでよし)には正妻(せいさい)に子(こ)がなかつたのである然(しか)るに織田信長(をたのぶなが)の妹(いもと)で浅井長政(あさゐながまさ)に嫁(か)した人(ひと)があつて之(これ)が三人の        女子(ぢよし)を生(うそ)むだが浅井氏(あさゐし)滅亡後(めつぼうご)柴田(しばた)勝家(かついへ)に再嫁(さいか)した時(とき)此(この)三人の女子(ぢよし)をも連(つ)れて行(い)つたのである其後(そののち)御承(ごせう)        知(ち)の通(とほ)り勝家(かついへ)も亦(ま)た滅亡(めつほう)したので織田氏(をたし)は自刃(じじん)したが三 女子(ぢよし)は秀吉(ひでよし)の養(やしな)ふ処となり後(のち)に秀吉(ひでよし)は其長女(そのてうぢよ) 淀君    を容(い)れて己(おの)れの妾(めかけ)となしたのである之(これ)が即(すなは)ち有名(ゆうめい)なる淀君(よどぎみ)であるが天正十七年五月 此(この)淀君(よどぎみ)の腹(はら)に初(はじ)め       て鶴松(つるまつ)と云ふ子(こ)が生(うま)れたのである然(しか)るに其翌年(そのよくねん)の八月に夭(よう)したので秀吉(ひでよし)は一 方(かた)ならず哀(かなし)むで前(まへ)に申述(もうしの)       べた如(ごと)く其年(そのとし)の十一月 秀次(ひでつぐ)を養子(やうし)とし十二月 直(たゞ)ちに内大臣(ないだいじん)に任(にん)じ関白(くわんぱく)となさるゝに至(いた)つたのであるト       コロで其翌文禄元年(そのよくぶんろくがんねん)外征(ぐわいせい)の師(し)が起(おこ)つて秀吉(ひでよし)は名護屋(なごや)へ出張(しゆつてう)することとなつたのであるが此時(このとき)亦(ま)た小田原(をだはら)        征伐(せいばつ)の吉例(きちれい)に倣(なら)ひ淀君(よどぎみ)を伴(ともな)つたのであるトコロが其内(そのうち)に妊娠(にんしん)したので大坂(おほさか)に還(かへ)し文禄(ぶろく)二年八月三日 男(だん) 秀頼生る  子(し)を出生(しゆつせい)したのが秀頼(ひでより)であるソコで秀吉(ひでよし)の愛(あい)は偏(ひとへ)に此(この)秀頼(ひでより)に集(あつ)まる事となつたので此児(このこ)を見(み)る為(ため)に態(わざ)       態(わざ)名護屋(なごや)から大坂(おほさか)に皈(かへ)つたと云ふ位(くらひ)であるモツトモ秀吉(ひでよし)は時(とき)に五十七歳で追々(おひ〳〵)老年(らうねん)に近(ちか)づく処から情(ぜう)        愛(あい)も濃厚(のうこう)となつた事であろうが兎(と)に角(かく)此児(このこ)の為(ため)にはあらゆる方法(はうほう)を以(もつ)て福利(ふくり)を増(ま)さむ事を計(はか)つた様子(やうす) 石田三成  が見(み)ゆるのであるソコで此(この)弱点(じやくてん)に付(つ)け入(い)つたのが石田三成(いしだみつなり)である三成(みつなり)と云ふ人は頗(すこぶ)る才気(さいき)に余(あまり)あつた       ので淀君(よどぎみ)の甘心(かんしん)を得従(えしたがつ)て秀吉(ひでよし)にも気(き)に入(い)られたのであるが世(よ)の伝(つた)ふる如(ごと)き小人(せうにん)でもなかつたであろう       と思(おも)ふ併(しか)し淀君(よどぎみ)の参謀(さんぼう)となつて秀頼(ひでより)を世(よ)に立(た)つる為(た)めに秀次(ひでつぐ)を除(のぞ)く事を計(はか)つたものであるのは事実(じじつ)の        上(うへ)から観測(くわんそく)し得(え)らるゝ事と思(おも)ふのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此事(このこと)に就(つい)ては秀次(ひでつぐ)の方(ほう)にも大(たい)なる欠点(けつてん)がある       ので其後(そののち)と云ふものは一 層(そう)自暴自棄(じばうじき)の様子(やうす)があつて無辜(むこ)を殺(ころ)し残忍(ざんにん)の所為(しよゐ)が多(おほ)く世(よ)に殺生(せつせう)関白(くわんぱく)と噂(うはさ)せ       られた程(ほど)であるから何(なん)と云はれても致方(いたしかた)はないのであるが其処(そこ)には又(ま)た讒間(ざんかん)が巧(たく)みに入(い)つたので秀吉(ひでよし) 【欄外】    豊橋市史談  (関ケ原役)                   百八十一  

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十 【本文】 文書なども掲載になってあるから詳しい事はまずこれ等について見られたいものであると思うが、なお一つお話ししておきたいのは輝政が頗る矮小なる人であったということである。ある俗書にはその丈四尺に満たずとしてあるが、これは余りに信じられぬように思う。もっともその頃の寸尺というものは今日のものとは違っているであろうから何とも言えぬが、思い出草の中にも 輝政卿同輩の大名宴会の座にして、その矮人たるを笑う者ありければ「さらば予、矮舞という新曲をなすべし」とつと立ち上がり給い、自ら背低舞を見させなと打ち返し囃し給い「播磨、備前、淡路と三ヶ国の主なれば背低しとも思わず」と歌いながら舞い給いしかば座中興に入りたりと言い伝えたり ということがあるから、その躯幹は人並み外れて低かったものであった事は事実であると信ずるのである。これから関ヶ原役に関してお話ししたいと思う。 ◎関ヶ原役 これから関ヶ原役に関して少しく申し述べたいと思うのであるが、それにはまず遡って秀吉晩年の事柄を概説する必要があると思う。 【秀吉の晩年】前章既に申し述べた如く、秀吉は天正十二年に大坂城が出来上がってこれに住んだのであるが、この年からまた京都聚楽の邸を造営し、その十五年に至って落成したのである。しかもその十八年には小田原の北条氏を滅ぼし、続いて東北を平定し、全く天下を掌握したのであるが、天正は十九年まで続いてその二十年に至って文禄と改元されたのである。即ち朝鮮征伐の軍はこの年に起こされたので、小西行長、加藤清正等を初め中国、四国、九州の諸候は皆これに従軍し、秀吉は自ら肥前の名護屋に出張してこれを指揮したのである。これより先き、秀吉は天正十 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百四十六号附録 (明治四十四年十二月二十六日発行) 【本文】 九年にその異母妹の子秀次を養って子となし、これに関白職を譲って自らは太閤と称したのであるが、元来秀吉には正妻に子がなかったのである。然るに織田信長の妹で浅井長政に嫁した人があって、これが三人の女子を生んだが、浅井氏滅亡後柴田勝家に再嫁した時、この三人の女子をも連れて行ったのである。その後御承知の通り勝家もまた滅亡したので織田氏は自刃したが、三女子は秀吉の養う処となり、後に秀吉はその長女を容れて己れの妾となしたのである。これが即ち有名なる淀君であるが、天正十七年五月、この淀君の腹に初めて鶴松という子が生まれたのである。然るにその翌年の八月に夭したので、秀吉は一方ならず悲しみ、前に申し述べた如くその年の十一月、秀次を養子とし、十二月直ちに内大臣に任じ関白となさるるに至ったのである。 ところでその翌文禄元年、外征の師が起こって秀吉は名護屋へ出張することとなったのであるが、この時また小田原征伐の吉例に倣い淀君を伴ったのである。ところがその内に妊娠したので大坂に帰し、文禄二年八月三日、男子を出生したのが秀頼である。そこで秀吉の愛は偏にこの秀頼に集まることとなったので、この児を見るためにわざわざ名護屋から大坂に帰ったという位である。もっとも秀吉は時に五十七歳で追々老年に近づく処から、情愛も濃厚となった事であろうが、とにかくこの児のためにはあらゆる方法を以て福利を増さん事を計った様子が見ゆるのである。そこでこの弱点に付け入ったのが石田三成である。三成という人は頗る才気に余りあったので、淀君の甘心を得、従って秀吉にも気に入られたのであるが、世の伝える如き小人でもなかったであろうと思う。併し淀君の参謀となって秀頼を世に立つるために秀次を除く事を計ったものであるのは、事実の上から観測し得らるる事と思うのであるが、御承知の如くこの事については秀次の方にも大なる欠点があるので、その後というものは一層自暴自棄の様子があって無辜を殺し残忍の所為が多く、世に殺生関白と噂せられた程であるから、何と言われても致し方はないのであるが、そこにはまた讒間が巧みに入ったので秀吉 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 180 [Main Text] Since such documents are also published there, I think one should first consult these sources for detailed information. However, there is one more thing I would like to mention: that Terumasa was quite a small person in stature. Some popular books state that his height was less than four shaku, but this seems hardly believable. Of course, the measurements of that time were different from today's, so it's hard to say for certain. But in the "Omoidegusa" it says: "At a banquet gathering of daimyo peers of Lord Terumasa, when someone laughed at his short stature, he quickly stood up saying, 'Then I shall perform a new piece called the Dwarf Dance,' and began performing his own 'short person's dance,' singing as he danced, 'Though I am lord of three provinces - Harima, Bizen, and Awaji - I do not mind being short.' The entire gathering was greatly entertained, as the story goes." Given this account, I believe it is factual that his physical stature was unusually short. Now I would like to discuss the Battle of Sekigahara. ◎ The Battle of Sekigahara I would now like to discuss the Battle of Sekigahara, but first it is necessary to go back and provide an overview of Hideyoshi's later years. [Hideyoshi's Later Years] As already mentioned in the previous chapter, Hideyoshi completed Osaka Castle in Tenshō 12 (1584) and took residence there. From that same year, he also began construction of his mansion at Jurakudai in Kyoto, which was completed in Tenshō 15 (1587). Moreover, in Tenshō 18 (1590), he destroyed the Hōjō clan of Odawara, subsequently pacified the northeast, and completely seized control of the realm. Tenshō continued until the 19th year, and in the 20th year the era was changed to Bunroku. The campaign to conquer Korea was launched in this year, with Konishi Yukinaga, Katō Kiyomasa, and others from Chūgoku, Shikoku, and Kyūshū all participating in the expedition, while Hideyoshi personally went to Nagoya in Hizen Province to direct operations. Prior to this, in Tenshō 10- [Left Page] [Header] San'yō Newspaper No. 3946 Supplement (Published December 26, Meiji 44 [1911]) [Main Text] 9 (1581), he adopted Hidenaga, the son of his half-sister, making him his heir and transferring the position of Kampaku (Chancellor) to him while taking the title of Taikō for himself. Originally, Hideyoshi had no children by his legitimate wife. However, there was a woman who was Oda Nobunaga's sister and had married Asai Nagamasa, who bore three daughters. When she remarried Shibata Katsuie after the fall of the Asai clan, she brought these three daughters with her. Later, as you know, Katsuie also perished, and the Oda woman committed suicide, but the three daughters came under Hideyoshi's care. Subsequently, Hideyoshi took the eldest daughter as his concubine. This was the famous Lady Yodo. In the 5th month of Tenshō 17 (1589), Lady Yodo first gave birth to a son called Tsurumatsu. However, when the child died young in the 8th month of the following year, Hideyoshi grieved immensely. As previously mentioned, in the 11th month of that year he adopted Hidetsugu as his son, and in the 12th month immediately appointed him Naidaijin (Minister of the Interior) and Kampaku. Then in the following year, Bunroku 1 (1592), when the overseas expedition began and Hideyoshi was to go to Nagoya, he brought Lady Yodo with him following the precedent of the Odawara campaign. However, when she became pregnant, he sent her back to Osaka, and on the 3rd day of the 8th month of Bunroku 2 (1593), she gave birth to a son who was Hideyori. Hideyoshi's affection then focused entirely on this Hideyori, so much so that he deliberately returned from Nagoya to Osaka just to see this child. Of course, Hideyoshi was then fifty-seven years old and approaching old age, so his parental love may have become more intense, but in any case, he appeared to be calculating every possible method to increase this child's welfare and fortune. It was Ishida Mitsunari who exploited this weakness. Mitsunari was a person of considerable talent who won Lady Yodo's favor and consequently became liked by Hideyoshi as well. I don't think he was the petty person that popular accounts make him out to be. However, it is observable from the facts that he became Lady Yodo's advisor and plotted to eliminate Hidetsugu in order to establish Hideyori in the world. As you know, regarding this matter, Hidetsugu also had great flaws, and thereafter showed increasingly self-destructive behavior, killing innocent people and committing many cruel acts, to the point that he was popularly called the "Murderous Kampaku." So whatever was said about him was perhaps unavoidable, but skillful slander was also at work, so Hideyoshi... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 181