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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 105

ページ: 105

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                         百八十二 【本文】 秀次亡ぶ  は全(まつた)く之(これ)が為(ため)に誤(あやま)られて直(たゞ)ちに秀次(ひでつぐ)を以(もつ)て己(おの)れに対(たい)する謀逆人(ぼうぎやくにん)となして実(じつ)に残酷(ざんこく)なる処置(しよち)をなしたの       である之(これ)も諸君(しよくん)の御承知(ごせうち)の通(とほ)りで秀次(ひでつぐ)は文禄(ぶんろく)四年七月 高野山(かうやさん)に於(おい)て自殺(じさつ)し其(その)妻妾(さいせう)等(ら)は残(のこ)らず京都(けうと)洛中(らくちう)       を引廻(ひきまは)されて三 条河原(でうがはら)で斬(き)られたのであるが夫(それ)のみならず近臣(きんしん)のものも彼所(かしこ)此所(こゝ)で段々(だん〳〵)と誅(ちう)せられ殊(こと)       に秀次(ひでつぐ)と親密(しんみつ)の交際(こうさい)があつたものは遠流(ゑんりう)に処(しよ)せられ又(また)は厳譴(げんせき)を蒙(かうむ)つたのである而(しか)して秀吉(ひでよし)の命(めい)を受(う)け       て此(この)事(こと)を決行(けつこう)したのは三成(みつなり)等(ら)で当時(とうじ)京都(けうと)の辻々(つじ〳〵)には誰(たれ)がなしたとなく左(さ)の如(ごと)き貼札(はりふだ)があつたと云(い)ふ事(こと)       である         天下(てんか)は天下(てんか)の天下(てんか)なり関白家(くわんぱくけ)の罪(つみ)は関白家(くわんぱくけ)之(の)例(れい)を引(ひき)可被行之事(これをおこなはれべきこと)         尤理之正当(もつともりのせいとう)なるべきに平人(へいじん)の妻子(さいし)などのやうに今日(こんにち)狼藉(らうぜき)甚(はなはだ)以(もつて)自由(じゆう)なり行末(ゆくすへ)めてたかるべき政道(せいどう)に         非(あら)ず吁(あゝ)因果(ゐんぐわ)のほど御用心(ごようじん)候(そうら)へ〳〵         世中(よのなか)は不昧(ふまい)因果(ゐんぐわ)の小車(こぐるま)やよしあしともにめぐりはてぬる       かくの如(ごと)き訳(わけ)でよく〳〵考(かんがへ)て見(み)ると天下(てんか)の英雄(えいゆう)秀吉(ひでよし)の晩年(ばんねん)も実(じつ)に寒心(かんしん)すべき運命(うんめい)であると思(おも)ふが此(この)時(とき)       に方(あた)つて外征(ぐわいせい)の情況(ぜうけう)は如何(いかゞ)であるかと云ふに之(これ)亦(ま)た御承知(ごせうち)の如(ごと)くで出征(しゆつせい)早々(さう〳〵)我(わが)陸軍(りくぐん)は連戦連勝(れんせんれんせう)の勢(いきほひ)       で平壌(へいぜう)まで進入(しんにふ)し清正(きよまさ)の如(ごと)きは咸鏡道(かんきようどう)にまでも攻(せ)め入(い)つたのであるが其(その)中(うち)に明国(みんこく)から和議(わぎ)の申込(もうしこみ)があ 戦勝と外交 つて戦(たゝかひ)には勝(か)つたが外交(ぐわいこう)には負(ま)けた形(かたち)があつて出征(しゆつせい)の将士(せうし)は遂(つひ)にべん〳〵と月日(つきひ)を送(おく)つた様(やう)な訳(わけ)とな       つたのである文禄(ぶんろく)五年は即(すなは)ち慶長(けいてう)元年(がんねん)と年号(ねんごう)が改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)和議(わぎ)も漸(やうや)く成立(せいりつ)する事となつ       て諸将(しよせう)は一たび皈朝(きてう)したのであるが明国(みんこく)から贈(おく)つた封冊(ふうさつ)の事から秀吉(ひでよし)の怒(いかり)に触(ふ)れ其(その)年(とし)九月 再(ふたゝ)び外征(ぐわいせい)の        師(し)を起(おこ)す事となつたので之(これ)に関係(くわんけい)の人々も遂(つひ)には在陣(ざいぢん)の久(ひさ)しき戦(たゝかひ)に倦(う)むようなこと事にもなつたのであ       る此(かく)の如(ごと)き間(あひだ)に秀吉(ひでよし)自身(じしん)も亦(ま)た漸(やうや)く安慰(あんい)の念(ねん)が生(せう)して奮励(ふんれい)の勇気(ゆうき)が失(うしな)はれ段々(だん〳〵)と驕奢(きようしや)に流(なが)れて逸楽(いつらく)を 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       事とするに至(いた)つたのである先(ま)づ文禄(ぶんろく)三年二月から三月にかけての吉野観桜(よしのくわんわう)並(ならび)に高野詣(かうやまうで)の如(ごと)きは有名(ゆうめい)の 桃山城   ものであるが例(れい)の伏見桃山城(ふしみもゝやまのしろ)の造営(ざうえい)と云ふものも亦(ま)た此(この)頃(ころ)であつて之(これ)は文禄(ぶんろく)三年の正月から初(はじ)まつて       其四年三月に竣工(しゆんこう)したのであるが其(その)規模(きぼ)並(ならび)に結構(けつこう)と云ふものは実(じつ)に雄大(ゆうだい)のもので頗(すこぶ)る豪邁(ごうまい)の風(ふう)を帯(お)び       て居(を)つたが又(ま)た最(もつと)も数寄(すき)を凝(こ)らしたもので今日(こんにち)では詳(つまびらか)に其(その)位置(ゐち)なども分(わか)らぬようになつて居(を)       るが今(いま)の伏見町(ふしみまち)などは殆(ほとん)ど其(その)郭内(くわくない)に当(あた)るので京都(けうと)宇治(うぢ)の間(あひだ)にあつて淀川(よどがは)を扣(ひか)へ其(その)趣味(しゆみ)眺望(てうぼう)と云(い)ふもの       も思(おも)ひやらるゝのであるが今(いま)の西本願寺(にしほんぐわんじ)の唐門(からもん)、 飛雲閣(ひうんかく)、 浪(なみ)の間(ま)、 客殿(きやくでん)、 豊国神社(ほうこくじんしや)の唐門(からもん)、 其(その)他(た)江州(こうしう)        竹生島(ちくぶじま)の観音堂(くわんおんどう)、 都久夫須麻神社(つくふすまじんしや)の拝殿(はいでん)、 紫野(むらさきの)の大徳寺(たいとくじ)の唐門(からもん)などは其(その)一 部分(ぶぶん)を移転(いてん)したものである       と云ふ事であるから之(これ)でも当時(とうじ)の趣致(しゆち)が如何(いか)に一 種(しゆ)の特長(とくてう)を発揮(はつき)して居(を)るかゞ分(わか)ると思(おも)ふのである其(その) 醍醐の花見  後(のち)秀吉(ひでよし)は慶長(けいてう)三年三月 又(ま)た醍醐(だいご)の三 宝院(ほういん)に花見(はなみ)をやつたが之(これ)が中々(なか〳〵)盛(さかん)な事で云(い)はゞ最後(さいご)の催(もよほし)であつた 秀吉薨去  のである即(すなは)ち此(この)花見(はなみ)の後(のち)僅(わづか)に二ヶ月で端(はし)なく病気(びやうき)となつて其(その)年(とし)の八月十八日には遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つた 《割書:外征の師還|る》  のであるがソコで外征(ぐわいせい)の師(し)も遂(つひ)に召(め)し還(かへ)す事となつて順次(じゆんじ)撤兵(てつぺい)に取(とり)かゝり此(この)年内(ねんない)に孰(いづ)れも帰朝(きてう)して伏(ふし)        見(み)に至(いた)つたので此(この)問題(もんだい)丈(だけ)は先(ま)づ此処(こゝ)に其(その)局(きよく)を結(むす)ぶに至(いた)つたのである        然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)の末期(まつご)と云ふものは実(じつ)に悲惨(ひさん)な訳(わけ)のもので前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り慶長(けいてう)三年の五月から病(やまひ)が起(おこ)       つて伏見(ふしみ)の桃山城(もゝやまのじよう)で療養(れうやう)して居(を)つたが其(その)世嗣(よつぎ)たる秀頼(ひでより)はまだ六歳で其(その)行末(ゆくすゑ)は頗(すこぶ)る案(あん)じられる事であつ       たのである其上(そのうへ)前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)で石田三成(いしだみつなり)等(ら)の一 派(ぱ)は深(ふか)く淀君(よどぎみ)の勢力(せいりよく)に頼(よ)つたので文治派(ぶんぢは)とも 《割書:文治武断両|派の軌轢》  云ふべきものである而(しか)して加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)浅野長政(あさのながまさ)などと云ふような人々は所謂(いはゆる)武断派(ぶだんは)で之(これ)とは容(よう)        易(い)ならず相(あひ)反目(はんもく)する処があつたのである其(その)部下(ぶか)の事情(じぜう)が此(かく)の如(ごと)くであるのに又(ま)た秀吉(ひでよし)の最(もつと)も苦心(くしん)した       のは家康(いへやす)に対(たい)する関係(くわんけい)であつた事と思(おも)ふソコで病中(びようちう)六月十四日に当時(とうじ)の五 奉行(ぶぎよう)たる前田玄以(まへだげんい)浅野長政(あさのながまさ) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                      百八十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十二 【本文】 【秀次亡ぶ】は全くこのために誤解されて、直ちに秀次を自分に対する謀反人とみなし、実に残酷な処置をなしたのである。これも諸君の御承知の通りで、秀次は文禄四年七月、高野山において自殺し、その妻妾等は残らず京都洛中を引き回されて三条河原で斬られたのであるが、それのみならず近臣のものも彼方此方で段々と誅殺され、殊に秀次と親密な交際があったものは遠流に処せられ、又は厳重な譴責を被ったのである。そして秀吉の命を受けてこの事を決行したのは三成等で、当時京都の辻々には誰がなしたとなく左の如き貼札があったということである。 「天下は天下の天下なり。関白家の罪は関白家の例を引き、これを行われるべき事最も理の正当なるべきに、平人の妻子などのように今日狼藉甚だ以て自由なり。行末目出度かるべき政道に非ず。嗚呼、因果のほど御用心候へ候へ。世中は不昧因果の小車や、よしあしともに巡り果てぬる。」 かくの如き訳でよくよく考えて見ると、天下の英雄秀吉の晩年も実に寒心すべき運命であると思うが、この時に当たって外征の情況は如何であるかというに、これまた御承知の如くで、出征早々我が陸軍は連戦連勝の勢いで平壌まで進入し、清正の如きは咸鏡道にまでも攻め入ったのであるが、その内に明国から和議の申込があって、戦には勝ったが外交には負けた形があって、出征の将士は遂にべんべんと月日を送った様な訳となったのである。文禄五年は即ち慶長元年と年号が改まったのであるが、この年和議も漸く成立することとなって諸将は一たび帰朝したのであるが、明国から贈った封冊の事から秀吉の怒りに触れ、その年九月、再び外征の師を起こすこととなったので、これに関係の人々も遂には在陣の久しき戦に倦むような事にもなったのである。 かくの如き間に秀吉自身もまた漸く安逸の念が生じて奮励の勇気が失われ、段々と驕奢に流れて逸楽を 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 事とするに至ったのである。先ず文禄三年二月から三月にかけての吉野観桜並びに高野詣での如きは有名なものであるが、例の伏見桃山城の造営というものもまたこの頃であって、これは文禄三年の正月から始まってその四年三月に竣工したのであるが、その規模並びに結構というものは実に雄大なもので頗る豪邁の風を帯びていたが、また最も数寄を凝らしたもので、今日では詳細にその位置なども分からぬようになっているが、今の伏見町などは殆どその郭内に当るので、京都宇治の間にあって淀川を控え、その趣味眺望というものも思いやられるのであるが、今の西本願寺の唐門、飛雲閣、浪の間、客殿、豊国神社の唐門、その他江州竹生島の観音堂、都久夫須麻神社の拝殿、紫野の大徳寺の唐門などはその一部分を移転したものであるということであるから、これでも当時の趣致が如何に一種の特長を発揮しているかが分かると思うのである。 【醍醐の花見】その後秀吉は慶長三年三月、また醍醐の三宝院に花見をやったが、これが中々盛んな事で、言わば最後の催しであったのである。 【秀吉薨去】即ちこの花見の後僅かに二ヶ月で端なく病気となって、その年の八月十八日には遂に薨去と相成ったのであるが、そこで外征の師も遂に召し還すこととなって順次撤兵に取りかかり、この年内に何れも帰朝して伏見に至ったので、この問題だけは先ずここにその局を結ぶに至ったのである。 然るにこの秀吉の末期というものは実に悲惨な訳のもので、前にも申し述べた通り、慶長三年の五月から病が起こって伏見の桃山城で療養していたが、その世継ぎたる秀頼はまだ六歳でその行末は頗る案じられることであったのである。その上前に申し述べた如き事情で、石田三成等の一派は深く淀君の勢力に頼ったので文治派とも云うべきものである。そして加藤清正、福島正則、浅野長政などという様な人々は所謂武断派で、これとは容易ならず相反目する処があったのである。その部下の事情がかくの如くであるのに、また秀吉の最も苦心したのは家康に対する関係であった事と思う。そこで病中六月十四日に当時の五奉行たる前田玄以、浅野長政 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 182 [Main Text] [The Fall of Hidetsugu] Hideyoshi was completely misled by this and immediately regarded Hidetsugu as a rebel plotting against him, taking truly cruel measures. As you all know, Hidetsugu committed suicide at Mount Kōya in the 7th month of Bunroku 4 (1595), and all his wives and concubines were paraded through the streets of Kyoto and beheaded at Sanjō Riverbank. Not only that, but his retainers were gradually executed here and there, and those who had close relationships with Hidetsugu were exiled or severely reprimanded. It was Mitsunari and others who carried out these actions on Hideyoshi's orders, and at that time anonymous placards like the following appeared at street corners throughout Kyoto: "The realm belongs to all under Heaven. The crimes of the Kampaku house should be dealt with according to precedents for the Kampaku house - this would be most reasonable and just. Yet today they are treated as freely as the wives and children of commoners, with great violence. This is not governance that will lead to a fortunate future. Alas, beware of the workings of karma! The world is like a small cart of inexorable karma - both good and evil inevitably come full circle." When one considers such matters carefully, even the later years of the great hero Hideyoshi present a truly alarming fate. At this time, what was the situation with the overseas campaign? As you know, immediately after the expedition began, our land forces achieved victory after victory and advanced as far as Pyongyang, with commanders like Kiyomasa even attacking into Hamgyŏng Province. However, peace negotiations were initiated by Ming China, and while we won the battles, we seemed to lose in diplomacy, so that the expeditionary generals ended up idly passing their days. Bunroku 5 became Keichō 1 (1596) with the change of era name. In this year, peace negotiations were finally concluded and the generals returned to Japan once, but Hideyoshi was angered by the investiture documents sent by Ming China, so in the 9th month of that year he again launched an overseas expedition. Those involved in this eventually grew weary of the prolonged campaign and warfare. During this period, Hideyoshi himself gradually developed thoughts of ease and lost his spirit of vigorous effort, increasingly indulging in luxury and pleasure. [Header note] Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as his manuscript nears completion... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper. [Main Text] The famous cherry blossom viewing at Yoshino and pilgrimage to Mount Kōya from the 2nd to 3rd months of Bunroku 3 (1594) are well-known examples, and the construction of the famous Fushimi-Momoyama Castle also took place around this time. Construction began in the 1st month of Bunroku 3 and was completed in the 3rd month of Bunroku 4. Its scale and construction were truly magnificent, displaying a remarkably bold character while also being extremely refined in taste. Today the exact location and other details are no longer clearly known, but present-day Fushimi town corresponds almost entirely to what was within the castle grounds. Located between Kyoto and Uji and commanding the Yodo River, one can imagine its scenic beauty and views. The Karamon gate, Hiunkaku pavilion, Nami-no-ma room, and guest hall of present-day Nishi Hongan-ji temple, the Karamon gate of Toyokuni Shrine, the Kannon Hall of Chikubu Island in Ōmi Province, the worship hall of Tsukubusuma Shrine, and the Karamon gate of Daitoku-ji temple in Murasakino are said to be parts that were relocated from there, so even from these one can understand how the aesthetic of that time displayed such distinctive characteristics. [The Daigo Cherry Blossom Viewing] Later, in the 3rd month of Keichō 3 (1598), Hideyoshi held another cherry blossom viewing at Sanpō-in temple in Daigo, which was quite a magnificent affair and was essentially his final celebration. [Hideyoshi's Death] Just two months after this flower viewing, he suddenly fell ill, and on the 18th day of the 8th month of that year he finally passed away. The overseas expedition forces were then recalled and began withdrawing in stages, all returning to Japan and arriving at Fushimi by the end of that year, thus bringing this matter to a close. However, Hideyoshi's final period was truly tragic. As mentioned before, he fell ill from the 5th month of Keichō 3 and was convalescing at Momoyama Castle in Fushimi, but his heir Hideyori was only six years old, making his future quite worrisome. Moreover, due to the circumstances described earlier, the faction of Ishida Mitsunari and others relied heavily on Lady Yodo's influence and could be called the civil administration faction. Meanwhile, people like Katō Kiyomasa, Fukushima Masanori, and Asano Nagamasa represented the so-called military faction, and there was serious antagonism between these groups. With his retainers in such circumstances, I think Hideyoshi's greatest concern was his relationship with Ieyasu. Thus, while ill, on the 14th day of the 6th month, he summoned the Five Commissioners of the time: Maeda Gen'i, Asano Nagamasa... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 183