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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 106

ページ: 106

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十四 【本文】        増田長盛(ますだながもり)石田三成(いしだみつなり)長束正家(ながつかまさいへ)に命(めい)じ諸将(しよせう)をして同心協力(どうしんけうりよく)以(もつ)て秀頼(ひでより)に事(つか)ふることを誓(ちか)はしめたが之(これ)も誠(まこと)の表(ひよう)        面(めん)で諸将(しよせう)の内心(ないしん)に至(いた)つては到底(とうてい)相融和(あひゆうわ)するに至(いた)らなかつたのである従(したがつ)て其(その)間(あひだ)には色々(いろ〳〵)な事情(じぜう)も起(おこ)つた       が結局(けつきよく)秀吉(ひでよし)は家康(いへやす)をして天下(てんか)の政務(せいむ)を裁決(さいけつ)せしめ前田利家(まへだとしいへ)をして秀頼(ひでより)の傅(ぶ)とならしめ毛利輝元(もうりてるもと)上杉景(うへすぎかげ)        勝(かつ)宇喜多秀家(うきたひでいへ)等(ら)は其(その)間(あひだ)にあつて政治(せいぢ)を助(たす)くるようにと云ふので種々(しゆ〳〵)画策(くわくさく)命令(めいれい)する処があつたが秀吉(ひでよし)が        薨去(こうきよ)して外征(ぐわいせい)諸将(しよせう)が皈朝(きてう)した後(のち)は益々(ます〳〵)円滑(ゑんかつ)を保(たも)つ事が出来(でき)ない状態(ぜうたい)であつた慶長(けいてう)四年正月十日 秀頼(ひでより)は        大坂(おほさか)に移(うつ)る事になつて家康(いへやす)以下(いか)諸将(しよせう)は悉(こと〳〵)く之(これ)に従(したが)つたのであるが十一日の夜半(やはん)何者(なにもの)か家康(いへやす)の旅舘(りよくわん)を        窺(うかゞ)つたものがあつたと云ふので家康(いへやす)は翌日(よくじつ)早々(さう〳〵)伏見(ふしみ)に皈(かへ)つたのである爾来(じらい)伏見(ふしみ)にあつて政務(せいむ)を視(み)利家(としいへ)       は大坂(おほさか)にあつて秀頼(ひでより)の後見(こうけん)をして居(を)ると云ふ訳(わけ)になつたのであるが所謂(いはゆる)文治派(ぶんぢは)と武断派(ぶだんは)の軌轢(あつれき)は益々(ます〳〵)        止(や)まざるのみならず武断派(ぶだんは)のものは自然(しぜん)に家康(いへやす)に頼(よ)ることとなつて家康(いへやす)の勢威(せいゐ)が高(たか)まるに従(したが)ひ形勢(けいせい)は愈(いよ)        愈(〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つたのであるソコで三成(みつなり)等(ら)は家康(いへやす)を除(のぞ)かねば到底(とうてい)豊臣氏(とよとみし)の天下(てんか)は安穏(あんをん)でないと云ふので 《割書:家康私に婚|を約す》   毛利(もうり)宇喜多(うきた)上杉(うへすぎ)等(ら)と結(むす)むで之(これ)を計(はか)つたが其(その)頃(ころ)家康(いへやす)が公(おほやけ)の許(ゆるし)を得(え)ずに私(わたくし)に伊達(だて)、 福島(ふくしま)、 蜂須賀(はちすか)三 家(け)       へ婚約(こうやく)をしたと云ふので大坂(おほさか)から之(これ)を詰(なじ)つたので物情(ぶつぜう)は頗(すこぶ)る拘然(けうぜん)としたのである此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は矢張(やはり)        伏見(ふしみ)にあつて加藤清正(かとうきよまさ)、 浅野幸長(あさのゆきなが)、 福島正則(ふくしままさのり)、 黒田如水(くろだぢよすゐ)、 並(ならび)に其(その)子(こ)長政(ながまさ)、 蜂須賀家政(はちすかいへまさ)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)(《割書:長|岡》)、        森忠政(もりたゞまさ)加藤嘉明(かとうよしあき)、 藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高次(けうごくたかつぐ)、 金森長近(かねもりながちか)、 織田長益(をたながます)、 有馬則頼(ありまのりより)等(ら)の諸将(しよせう)と共(とも)に家康(いへやす)の邸(てい)を護(ご)        衛(ゑい)したのであるが遂(つひ)に大坂方(おほさかがた)と伏見方(ふしみがた)との対抗(たいこう)の如(ごと)き事情(じぜう)となつて一 方(ぽう)は利家(としいへ)を推(お)し一 方(ぽう)は家康(いへやす)を戴(いたゞ)       くと云ふような始末(しまつ)で遂(つひ)に細川忠興(ほそかはたゞおき)の如(ごと)き其(その)間(あひだ)に仲裁(ちうさい)を試(こゝろ)むるものあつて程(ほど)なく利家(としいへ)家康(いへやす)両人(れうにん)は和(わ) 前田利家  したが閏(うるふ)三月三日 利家(としいへ)は遂(つひ)に病(やまひ)の為(ため)に大坂(おほさか)に薨(こう)じたのであるソコで加藤(かとう)、 黒田(くろだ)、 細川(ほそかは)、 福島(ふくしま)、 浅野(あさの)等(ら) 三成屏居  の人々は三成(かづしげ)を除(のぞ)かむことを計(はか)つて之(これ)を家康(いへやす)に申出(もうしい)でたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は三成(みつなり)をして其(その)領地(れうち)佐和山(さわやま) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十一号附録   (明治四十五年一月三日発行) 【本文】       に蟄居(ちつきよ)せしめたので事は一 時(じ)落着(らくちやく)したのであるが此(この)六月 家康(いへやす)は大坂(おほさか)に至(いた)つて秀頼(ひでより)に謁(えつ)し諸将(しよせう)をして多(おほ)       く国(くに)に就(つ)くのを許(ゆる)したので秀家(ひでいへ)、輝元(てるもと)、 如水(によすゐ)、 清正(きよまさ)、 忠興(たゞおき)等(ら)は相前後(あひぜんご)して国(くに)に皈(かへ)り上杉景勝(うへすぎかげかつ)、 前田利(まへだとし) 《割書:家康大坂の|西城に入る》   長(なが)も亦(ま)た国(くに)に就(つ)いたのである而(しか)して其(その)九月 家康(いへやす)は又(ま)た大坂(おほさか)に至(いた)つたのであるがそれより遂(つひ)に其(その)西城(せいじよう)に        入(い)つて住(ぢう)する事となつたのである        爾来(じらい)家康(いへやす)の声望(せいぼう)が益々(ます〳〵)盛(さかん)になるに従(したがつ)て讒誣疑惑(ざんぶぎわく)と云(い)ふものは諸方面(しよはうめん)に起(おこ)つて来(き)たのであるが家康(いへやす)も 《割書:家康質を江|戸に収む》   亦(ま)た漸々(ぜん〳〵)と専断(せんだん)の処置(しよち)が多(おほ)く遂(つひ)に前田利長(まへだとしなが)の母(はゝ)を初(はじ)めとして独断(どくだん)で質(しち)を江戸(えど)に収(おさ)むるに至(いた)つたのであ       る而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く石田三成(いしだみつなり)は一 度(ど)其(その)胸算(きようさん)が齟齬(そご)して反(かへつ)て家康(いへやす)の為(ため)に佐和山(さわやま)へ屏居(へいきよ)せしめられ       たが決(けつ)して其(その)侭(まゝ)に小(ち)さくなつて居(を)るべきものではない又(ま)た家康(いへやす)に於(おい)ても初(はじ)めから其(その)事(こと)は予期(よき)して居(を)つ       たもので其(その)時(とき)三成(みつなり)を殺(ころ)さずして態(わざ)と佐和山(さわやま)に屏居(へいきよ)せしめて置(お)いたのは深謀(しんぼう)のある処で之(これ)は家康(いへやす)の謀臣(ぼうしん)        本多正信(ほんだまさのぶ)の叡策(えいさく)になつたものであると歴史家(れきしか)が評論(ひようろん)する所であるが果(はた)して三成(みつなり)は上杉景勝(うへすぎかげかつ)の老臣(らうしん)直江(なをえ) 《割書:上杉景勝城|塁を修す》   兼続(かねつく)と堅(かた)く約(やく)した処があつたので景勝(かげかつ)は其(その)国(くに)に就(つ)いた後(のち)着々(ちやく〳〵)城塁(じようるい)■修繕(しうぜん)をするやら浪士(らうし)を召抱(めしかゝ)ゆる       やら糧食(れうしよく)を集(あつ)むるやらで徳川氏(とくがはし)に対(たい)する敵意(てきい)は次第(しだい)に明(あきらか)になつて来(き)たのであるモツトモ景勝(かげかつ)の国(くに)と        云(い)ふのは御承知(ごせうち)の通(とほり)陸奥(むつ)の会津(あひづ)で今(いま)の岩代国(いはしろのくに)若松市(わかまつし)に城(しろ)を構(かま)へて居(を)つたのである此(この)会津(あひづ)と云ふ処は前(まへ)       にも申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじ)め蒲生氏郷(かばふうぢさと)が封(ほう)ぜられたのであるが慶長(けいてう)三年三月 氏郷(うぢさと)は宇都宮(うつのみや)に移(うつ)されて其(その)後(あと)へ        景勝(かげかつ)が其(その)故国(ここく)越後(ゑちご)から移封(いほう)になつたのであるトコロで景勝(かげかつ)の動静(どうせい)と云ふものは手(て)に取(と)るように江戸(えど)並(なら)       びに東北(とうほく)の将士(せうし)から家康(いへやす)の許(もと)へ報告(ほうこく)があるので慶長(けいてう)五年三月 家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を征(せい)せむとしたのであるが        宇喜多秀家(うきたひでいへ)毛利輝元(もうりてるもと)等(ら)の意見(いけん)もあつたので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(や)つて景勝(かげかつ)の入覲(にふきん)を促(うなが)し且(か)つ其(その)近状(きんぜう)に就(つい)て詰(なじ) 《割書:家康景勝の|入覲を促す》  る処があつたのみならず特(とく)に直江兼続(なをえかねつぐ)と別懇(べつこん)である僧(そう)承兌(しようだ)をも遣(や)つて速(すみやか)に景勝(かげかつ)の行為(こうゐ)に就(つ)き西上陳謝(せぜうちんしや) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十四 【本文】 増田長盛、石田三成、長束正家に命じて、諸将をして同心協力して秀頼に仕えることを誓わせたが、これも表面だけのことで、諸将の内心に至っては到底相互融和するに至らなかったのである。従ってその間には色々な事情も起こったが、結局秀吉は家康をして天下の政務を裁決させ、前田利家をして秀頼の後見とならせ、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家等はその間にあって政治を助けるようにということで種々画策し命令する所があったが、秀吉が薨去して外征諸将が帰朝した後は益々円滑を保つことができない状態であった。 慶長四年正月十日、秀頼は大坂に移ることになって家康以下諸将は悉くこれに従ったのであるが、十一日の夜半、何者か家康の旅館を窺ったものがあったということで、家康は翌日早々伏見に帰ったのである。爾来、伏見にあって政務を見、利家は大坂にあって秀頼の後見をしているという訳になったのであるが、所謂文治派と武断派の軋轢は益々止まざるのみならず、武断派のものは自然に家康に頼ることとなって、家康の勢威が高まるに従い、形勢は愈々険悪と相成ったのである。 そこで三成等は家康を除かねば到底豊臣氏の天下は安穏でないということで、毛利、宇喜多、上杉等と結んでこれを計ったが、その頃家康が公の許しを得ずに私に伊達、福島、蜂須賀三家へ婚約をしたということで大坂からこれを詰ったので、物情は頗る騒然としたのである。 この時、池田輝政は矢張り伏見にあって加藤清正、浅野幸長、福島正則、黒田如水、並びにその子長政、蜂須賀家政、細川忠興(長岡)、森忠政、加藤嘉明、藤堂高虎、京極高次、金森長近、織田長益、有馬則頼等の諸将と共に家康の邸を護衛したのであるが、遂に大坂方と伏見方との対抗のような事情となって、一方は利家を推し、一方は家康を戴くというような始末で、遂に細川忠興のような、その間に仲裁を試みるものがあって程なく利家・家康両人は和したが、閏三月三日、利家は遂に病のために大坂に薨じたのである。 【前田利家薨去】そこで加藤、黒田、細川、福島、浅野等の人々は三成を除こうことを計って、これを家康に申し出たのであるが、この時家康は三成をしてその領地佐和山 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十一号附録 (明治四十五年一月三日発行) 【本文】 に蟄居せしめたので事は一時落着したのであるが、この六月、家康は大坂に至って秀頼に謁し、諸将をして多く国に就くのを許したので、秀家、輝元、如水、清正、忠興等は相前後して国に帰り、上杉景勝、前田利長もまた国に就いたのである。そしてその九月、家康はまた大坂に至ったのであるが、それより遂にその西城に入って住することとなったのである。 爾来、家康の声望が益々盛んになるに従って、讒誣疑惑というものは諸方面に起こって来たのであるが、家康もまた漸々と専断の処置が多く、遂に前田利長の母を初めとして独断で質を江戸に収むるに至ったのである。 そして前に申し述べたように、石田三成は一度その胸算が齟齬して反って家康のために佐和山へ屏居せしめられたが、決してそのまま小さくなっているべきものではない。また家康においても初めからその事は予期していたもので、その時三成を殺さずして態と佐和山に屏居せしめて置いたのは深謀のある処で、これは家康の謀臣本多正信の叡策になったものであると歴史家が評論する所であるが、果たして三成は上杉景勝の老臣直江兼続と堅く約した処があったので、景勝はその国に就いた後、着々城塁の修繕をするやら浪士を召し抱えるやら糧食を集むるやらで、徳川氏に対する敵意は次第に明らかになって来たのである。 もっとも景勝の国というのは御承知の通り陸奥の会津で、今の岩代国若松市に城を構えていたのである。この会津という処は前にも申し述べたように、初め蒲生氏郷が封ぜられたのであるが、慶長三年三月、氏郷は宇都宮に移されてその後へ景勝がその故国越後から移封になったのである。 ところで景勝の動静というものは手に取るように江戸並びに東北の将士から家康の許へ報告があるので、慶長五年三月、家康は遂にこれを征せんとしたのであるが、宇喜多秀家、毛利輝元等の意見もあったので、使者を会津に遣って景勝の入覲を促し、かつその近状に就いて詰る処があったのみならず、特に直江兼続と別懇である僧承兌をも遣って速やかに景勝の行為に就き西上陳謝 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 184 [Main Text] He ordered Masuda Nagamori, Ishida Mitsunari, and Natsuka Masaie to make the generals swear to cooperate in harmony to serve Hideyori, but this was only on the surface, and the generals' true feelings never reached mutual reconciliation. Consequently, various incidents occurred during this period, but ultimately Hideyoshi had Ieyasu decide on governmental affairs throughout the realm, made Maeda Toshiie Hideyori's guardian, and arranged for Mōri Terumoto, Uesugi Kagekatsu, Ukita Hideie and others to assist in politics from their positions, issuing various strategic orders. However, after Hideyoshi's death and the return of the overseas expedition generals, it became increasingly impossible to maintain smooth relations. On the 10th day of the 1st month of Keichō 4 (1599), Hideyori moved to Osaka, and Ieyasu and all the other generals followed him there. However, on the night of the 11th, someone was seen prowling around Ieyasu's lodgings, so Ieyasu hastily returned to Fushimi the next morning. From then on, Ieyasu oversaw governmental affairs from Fushimi while Toshiie served as Hideyori's guardian in Osaka. The friction between the so-called civil administration faction and military faction not only continued unabated, but the military faction naturally came to rely on Ieyasu, and as his influence grew, the situation became increasingly precarious. Therefore, Mitsunari and others concluded that the Toyotomi could never have peace in their realm unless Ieyasu was eliminated, so they plotted with Mōri, Ukita, Uesugi and others. Around this time, Ieyasu had privately arranged marriages with the Date, Fukushima, and Hachisuka houses without official permission, and when Osaka confronted him about this, public sentiment became quite agitated. At this time, Ikeda Terumasa remained in Fushimi and, together with generals such as Katō Kiyomasa, Asano Yukinaga, Fukushima Masanori, Kuroda Josui and his son Nagamasa, Hachisuka Iemasa, Hosokawa Tadaoki (Nagaoka), Mori Tadamasa, Katō Yoshiaki, Tōdō Takatora, Kyōgoku Takatugu, Kanamori Nagachika, Oda Nagamasu, and Arima Noriyori, guarded Ieyasu's residence. Eventually the situation developed into a confrontation between the Osaka faction and Fushimi faction, with one side supporting Toshiie and the other supporting Ieyasu. Finally, someone like Hosokawa Tadaoki attempted mediation between them, and before long Toshiie and Ieyasu reconciled, but on the 3rd day of intercalary 3rd month, Toshiie finally died of illness in Osaka. [Death of Maeda Toshiie] Thereupon, people like Katō, Kuroda, Hosokawa, Fukushima, and Asano plotted to eliminate Mitsunari and presented this to Ieyasu. At this time, Ieyasu had Mitsunari confined to his domain of Sawayama [Left Page] [Header] San'yō Newspaper No. 3951 Supplement (Published January 3, Meiji 45) [Main Text] where he was placed under house arrest, so the matter was temporarily settled. However, in the 6th month of that year, Ieyasu went to Osaka and had an audience with Hideyori, permitting many generals to return to their domains. Thus Hideie, Terumoto, Josui, Kiyomasa, Tadaoki and others returned to their domains one after another, and Uesugi Kagekatsu and Maeda Toshinaga also went to their domains. In the 9th month of that year, Ieyasu again went to Osaka and from then took up residence in the western castle there. From then on, as Ieyasu's prestige grew ever greater, slander and suspicion arose on all sides, but Ieyasu also increasingly made arbitrary decisions, eventually taking hostages to Edo on his own authority, beginning with Maeda Toshinaga's mother. As mentioned before, Ishida Mitsunari's plans had once gone awry and he was instead confined by Ieyasu to Sawayama, but he was certainly not one to remain quietly subdued. Ieyasu had anticipated this from the beginning, and his decision not to kill Mitsunari at that time but deliberately confine him to Sawayama was a deeply calculated move - historians evaluate this as a brilliant strategy devised by Ieyasu's strategist Honda Masanobu. Indeed, Mitsunari had made firm agreements with Uesugi Kagekatsu's senior retainer Naoe Kanetsugu, so after Kagekatsu went to his domain, he steadily repaired castle fortifications, recruited masterless samurai, and gathered provisions, making his hostility toward the Tokugawa increasingly clear. Kagekatsu's domain was, as you know, Aizu in Mutsu, where he had built his castle in what is now Wakamatsu City in Iwashiro Province. This place called Aizu had initially been granted to Gamō Ujisato as mentioned before, but in the 3rd month of Keichō 3, Ujisato was transferred to Utsunomiya, and Kagekatsu was moved there from his former domain of Echigo. Kagekatsu's activities were reported in detail to Ieyasu by warriors from Edo and the northeast, so in the 3rd month of Keichō 5 (1600), Ieyasu finally decided to attack him. However, due to opinions from Ukita Hideie, Mōri Terumoto and others, he sent an envoy to Aizu to urge Kagekatsu to come to court and questioned him about his recent activities. Moreover, he specifically sent the monk Shōtai, who was on intimate terms with Naoe Kanetsugu, to urge that Kagekatsu quickly come west to apologize for his actions. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 185