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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 107

ページ: 107

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十六 【本文】       すべき事を勧(すゝ)めしめたのである然(しか)るに景勝(かげかつ)兼続(かねつぐ)の答(こたへ)は孰(いづ)れも恭順(きようじゆん)陳謝(ちんしや)ところか寧(むし)ろ故(ことさ)らに暴慢(ぼうまん)嘲侮(てうぶ)       の辞(じ)を以(もつ)てしたので益々(ます〳〵)家康(いへやす)を激怒(げきど)せしめた次第(しだい)であるモツトモ家康(いへやす)は最初(さいしよ)から此(この)事(こと)あるは能(よ)く知(し)つ       て居(を)つたもので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(つか)はして其(その)復命(ふくめい)がない内(うち)から既(すで)に出兵(しゆつぺい)の準備(じゆんび)をしつゝあつたのである即(すなは)       ち右(みぎ)の返事(へんじ)を得(う)るや直(たゞ)ちに会津(あひづ)出征(しゆつせい)の事を発表(はつぴよう)するに至(いた)つたのであるが之(これ)には諸奉行(しよぶぎよう)三 中老(ちうらう)等(ら)から諌(いさめ) 《割書:家康自ら会|津を征す》  もあつたが家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を容(い)れなかつたのである而(しか)して其(その)年(とし)六月十六日 麾下(きか)の士(し)佐野綱正(さのつなまさ)をして兵(へい)僅(わづか)       に五百 余人(よにん)を以(もつ)て西城(せいじよう)の留守(るす)をせしめて遂(つひ)にみず自(みづか)ら 麾下(きか)の将士(せうし)三千余人を率(ひき)ゐて大坂(おほさか)を発(はつ)し東下(とうか)の途(と)に        就(つ)いたのである此(この)時(とき)御承知(ごせうち)の酒井家次(さかゐいへつぐ)戸田一西(とだかづあき)並(ならび)に其(その)子(こ)氏鉄(うぢてつ)等(ら)も之(これ)に従(したが)つたのであるが此(この)日(ひ)薄暮(はくぼ)に伏(ふし) 《割書:鳥居元忠松|平家忠等伏》   見城(みじよう)に着(ちやく)して家康(いへやす)は其(その)留守居役(るすゐやく)を定(さだ)めたのであるが鳥居元忠(とりゐもとたゞ)を以(もつ)て之(こ)れが司令(しれい)となし内藤家長(ないとういへなが)其(その)子(こ)元(もと) 《割書:見城に留守|す》   長(なが)、 松平家忠(まつだひらいへたゞ)、 松平近正(まつだひらちかまさ)等(ら)を副(そ)へて其(その)任(にん)に当(あた)らしめたのである右(みぎ)の内(うち)で 松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云(い)ふのは之(これ)迄(まで)屡々(しば〳〵)        話頭(わとう)に上(あが)つた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)で例(れい)の深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)であつた人で当時(とうじ)は武蔵(むさし)忍(おし)の城主(じようしゆ)であつた事は之(これ)        亦(また)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くであるが此(この)鳥居元忠(とりゐもとたゞ)も矢張(やはり)諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)幼少(ようせう)の時き(とき)から近仕(きんし)して居(を)つ       た人で家康(いへやす)が駿河(するが)に質(しち)となつて居(を)つた頃(ころ)から共(とも)に辛苦艱難(しんくかんなん)を甞(な)めたのである今年(こんねん)六十二 歳(さい)であるが此(この)        時(とき)は既(すで)に家康(いへやす)東上(とうぜう)の後(のち)必(かなら)ず上国(ぜうこく)に事変(じへん)が起(おこ)るべきを察(さつ)して居(を)つたのでイヨ〳〵其(その)場合(ばあひ)は只(たゞ)戦死(せんし)の外(ほか)は       ないのであるから寧(むし)ろ家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)は東征(とうせい)に従(したが)へられるようにと云ふ事を勧(すゝ)めたのであつたが家康(いへやす)はそ       れでは余(あま)りに人少(ひとすこし)になるからと云ふので之(これ)を留(とゝ)めたのである且(か)つ万(まん)一 事変(じへん)があつて弾丸(だんぐわん)が欠乏(けつぼう)したら       ば天主閣(てんしゆかく)に金銀塊(きんぎんくわい)が蔵(ざう)してあるからそれを鋳(いつ)て補充(ほじう)せよと云ひ付(つ)けたとのことであるがソンナ弾丸(だんぐわん)なら       ば私(わたくし)はいくらでも打(う)つて貰(もら)ひたいように思(おも)ふのでありますソコで元忠(もとたゞ)と家康(いへやす)とは到底(とうてい)再会(さいくわい)は期(き)せられ       ぬと云ふので共(とも)に昔時(せきじ)を語(かた)りて涙(なみだ)を流(なが)したと云ふことであるが元忠(もとたゞ)は此(こゝ)に於(おい)て右(みぎ)の諸将(しよせう)と共(とも)に僅(わづか)に千八 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       百余人を以(もつ)て此(この)城(しろ)の留守(るす)をなすことになつたのである 京極高次  かくて家康(いへやす)は十八日 伏見(ふしみ)を発(はつ)し大津城(おほつじよう)に過(よぎ)つて城主(じようしゆ)京極高次(きようごくたかつぐ)に会(あ)ひこれより次第(しだい)に伊勢(いせ)に入(い)つて廿 《割書:輝政家康を|吉田に饗す》  日 四日市(よつかいち)に至(いた)り同夜(どうや)船(ふね)に乗(の)つて廿一日 佐久島(さくしま)に達(たつ)し廿二日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである之(これ)より先(さ)き池田輝(いけだてる)        政(まさ)は既(すで)に国(くに)に帰(かへ)つて出師(しゆつし)準備(じゆんび)をして居(を)つたので此(この)時(とき)城中(じようちう)に於(おい)て家康(いへやす)等(ら)を饗(けう)したのであるが此(この)日(ひ)家康(いへやす)は        饗応(けうおう)終(をは)つて後(のち)白須賀(しらすが)まで出陣(しゆつぢん)し夫(それ)より漸々(ぜん〳〵)と東海道(とうかいどう)を進(すゝ)むで沿道(えんどう)の諸城主(しよじようしゆ)即(すなは)ち浜松(はまゝつ)の堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 掛(かけ)        川(がは)の山内一豊(やまうちかづとよ)、 府中(ふちう)の中村一氏(なかむらかづうぢ)、 沼津(ぬまづ)の中村一栄(なかむらかづひで)、 小田原(おだはら)の大久保忠隣(おほくぼたゞちか)などゝ連絡(れんらく)を取(と)つて藤沢(ふぢさは)から 輝政の従軍  鎌倉(かまくら)に過(よぎ)つて放鷹(はうよう)し七月二日に至(いた)つて江戸城(えどじよう)に着(ちやく)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田輝政(いけだてるまさ)は此(この)時(とき)其(その)弟(おとゝ)長(なが)        吉(よし)と共(とも)に之(これ)に従軍(じうぐん)したのである而(しか)して家康(いへやす)は其(その)廿一日を以(もつ)て更(さら)に江戸(えど)を発(はつ)して廿四日 下野(しもつけ)の小山(こやま)に至(いた)       つたのであるが前軍(ぜんぐん)は秀忠(ひでたゞ)が之(これ)を指揮(しき)して宇都宮(うつのみや)にあつたのである此(この)時(とき)伊達政宗(だてまさむね)は家康(いへやす)に応(おう)じて兵(へい)を        出(いだ)し廿四日 既(すで)に白石城(しらいしじよう)を攻陥(こうかん)したと云(い)ふような次第(しだい)であるが此(この)夜(よ)家康(いへやす)は小山(こやま)にあつて伏見城(ふしみじよう)が三成(みつなり)等(ら) 《割書:家康小山に|於て伏見の》  の為(ため)に攻撃(こうげき)を受(う)くる警報(けいほう)に接(せつ)したのであるモツトモ家康(いへやす)は江戸(えど)出発前(しゆつぱつぜん)既(すで)に上国(ぜうこく)に事(こと)の起(おこ)つたのは知(し)つ 《割書:警報に接す| 》  て居(を)つたのであるが時機(じき)がまだ至(いた)らなかつたので遂(つひ)に此処(こゝ)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)続々(ぞく〳〵)上国(ぜうこく)       からの警報(けいほう)が到着(とうちやく)し廿四日には前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小山(こやま)の陣(ぢん)へ右(みぎ)の報告(ほうこく)が来(き)たので遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して秀忠(ひでたゞ)         並(ならび)に諸客将(しよきやくせう)を集(あつ)めて協議(けふぎ)をしたのであるが結局(けつきよく)福島正則(ふくしままさのり)等(ら)を初(はじ)め客将(きやくせう)等(ら)の意見(いけん)が家康(いへやす)にして秀頼(ひでより)に対(たい) 《割書:諸客将等西|上に決す》  すること秀吉(ひでよし)の遺命(ゐめい)の如(ごと)くであるならば三成(みつなり)には何処(どこ)までも反対(はんたい)して家康(いへやす)を助(たす)くべしと云(い)ふことになつて        茲(こゝ)に軍(ぐん)を西(にし)に班(かへ)すことを定(さだ)めたのである而(しか)して福島正則(ふくしままさのり)と池田輝政(いけだてるまさ)とは之(これ)が先鋒(せんぽう)となつて廿六日から更(さら)       に続々(ぞく〳〵)西上(せいぜう)することとなつたのである又(ま)た徳川(とくがは)の世臣(せしん)としては井伊直正(いゐなをまさ)が此(この)先鋒(せんぽう)に従(したが)ふ筈(はづ)であつたが急(きふ)       に病(やまひ)が起(おこ)つて差支(さしつかへ)たので本多忠勝(ほんだたゞかつ)が之(これ)に代(かは)つて八月八日 先(ま)づ尾州(びしう)の清洲(きよす)に向(むか)つて出発(しゆつぱつ)したのである其(その) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十六 【本文】 することを勧めさせたのである。しかるに景勝・兼続の答えはいずれも恭順陳謝どころか、むしろ故意に暴慢嘲侮の辞をもってしたので、益々家康を激怒させた次第である。もっとも家康は最初からこの事があることをよく知っていたもので、使者を会津に遣わしてその復命がない内から既に出兵の準備をしつつあったのである。すなわち右の返事を得るや直ちに会津出征の事を発表するに至ったのであるが、これには諸奉行・三中老等から諌めもあったが、家康は遂にこれを容れなかったのである。 そしてその年六月十六日、麾下の士佐野綱正をして兵僅かに五百余人をもって西城の留守をさせて、遂に自ら麾下の将士三千余人を率いて大坂を発し、東下の途に就いたのである。この時、御承知の酒井家次・戸田一西並びにその子氏鉄等もこれに従ったのであるが、この日薄暮に伏見城に着いて、家康はその留守居役を定めたのであるが、鳥居元忠をもってこれが司令となし、内藤家長・その子元長、松平家忠、松平近正等を副えてその任に当たらせたのである。 右の内で松平家忠というのは、これまで屡々話題に上った彼の家忠日記の記者で、例の深溝の城主であった人で、当時は武蔵忍の城主であった事は、これまた前章に申し述べた如くであるが、この鳥居元忠も矢張り諸君が御承知の如く、家康幼少の時から近仕していた人で、家康が駿河に質となっていた頃から共に辛苦艱難を嘗めたのである。今年六十二歳であるが、この時は既に家康東上の後、必ず上国に事変が起こるべきを察していたので、いよいよその場合は只戦死の外はないのであるから、むしろ家忠・家長等は東征に従われるようにということを勧めたのであったが、家康はそれでは余りに人少なしになるからということでこれを留めたのである。かつ万一事変があって弾丸が欠乏したらば、天主閣に金銀塊が蔵してあるからそれを鋳て補充せよと言い付けたとのことであるが、そんな弾丸ならば私はいくらでも打ってもらいたいように思うのであります。 そこで元忠と家康とは到底再会は期せられぬということで、共に昔時を語りて涙を流したということであるが、元忠はここにおいて右の諸将と共に僅かに千八 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾けて豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 百余人をもってこの城の留守をなすことになったのである。 かくて家康は十八日伏見を発し、大津城に過ぎて城主京極高次に会い、これより次第に伊勢に入って二十日四日市に至り、同夜船に乗って二十一日佐久島に達し、二十二日この吉田に着したのである。これより先き、池田輝政は既に国に帰って出師準備をしていたので、この時城中において家康等を饗したのであるが、この日家康は饗応終って後、白須賀まで出陣し、それより漸々と東海道を進んで、沿道の諸城主すなわち浜松の堀尾忠氏、掛川の山内一豊、府中の中村一氏、沼津の中村一栄、小田原の大久保忠隣などと連絡を取って、藤沢から鎌倉に過ぎて放鷹し、七月二日に至って江戸城に着いたのである。 御承知の如く池田輝政はこの時その弟長吉と共にこれに従軍したのである。そして家康はその二十一日をもって更に江戸を発して二十四日下野の小山に至ったのであるが、前軍は秀忠がこれを指揮して宇都宮にあったのである。この時伊達政宗は家康に応じて兵を出し、二十四日既に白石城を攻陥したというような次第であるが、この夜家康は小山にあって、伏見城が三成等のために攻撃を受くる警報に接したのである。 もっとも家康は江戸出発前、既に上国に事の起こったのは知っていたのであるが、時機がまだ至らなかったので遂にここまで出陣したのである。しかるにその後続々上国からの警報が到着し、二十四日には前に申し述べた如く小山の陣へ右の報告が来たので、遂に意を決して秀忠並びに諸客将を集めて協議をしたのであるが、結局福島正則等を初め客将等の意見が、家康にして秀頼に対すること秀吉の遺命の如くであるならば、三成には何処までも反対して家康を助くべしということになって、ここに軍を西に返すことを定めたのである。 そして福島正則と池田輝政とはこれが先鋒となって、二十六日から更に続々西上することとなったのである。また徳川の世臣としては井伊直政がこの先鋒に従う筈であったが、急に病が起こって差支えたので、本多忠勝がこれに代わって八月八日、先ず尾州の清洲に向って出発したのである。その 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 186 [Main Text] to advise him to do so. However, the responses of both Kagekatsu and Kanetsugu were far from being humble apologies; rather, they deliberately used arrogant and mocking language, which further enraged Ieyasu. Of course, Ieyasu had known from the beginning that this would happen, and even before his envoys to Aizu had returned with their reports, he was already preparing for military action. Upon receiving the aforementioned reply, he immediately announced his expedition to Aizu, though various magistrates and the three senior councilors advised against it, Ieyasu ultimately would not listen to them. On the 16th day of the 6th month of that year, he had his retainer Sano Tsunamasa guard the western castle with only about 500 men, and finally departed Osaka himself with over 3,000 officers and men under his command, setting out on the eastward journey. At this time, as you know, Sakai Ietsugu, Toda Kazuaki and his son Ujitetsu also accompanied him. On this day at dusk, they arrived at Fushimi Castle, where Ieyasu appointed the castle's caretakers, making Torii Mototada the commander and assigning Naitō Ienaga and his son Motonaga, Matsudaira Ietada, and Matsudaira Chikamasa as his assistants for this duty. Among these, Matsudaira Ietada was the author of the famous Ietada Diary that has frequently come up in our discussions, the former lord of Fukōzu Castle, who at that time was the lord of Oshi Castle in Musashi, as I mentioned in the previous chapter. This Torii Mototada was also, as you all know, someone who had served close to Ieyasu since his youth and had shared hardships and difficulties with him since the time when Ieyasu was a hostage in Suruga. He was sixty-two years old this year, but at this time he already foresaw that after Ieyasu's eastward journey, upheaval would surely occur in the capital region, and in that case there would be nothing but death in battle, so he recommended that Ietada, Ienaga and others should accompany the eastern expedition. However, Ieyasu refused this, saying it would leave too few people behind. He also instructed that if trouble arose and ammunition ran short, there were gold and silver ingots stored in the main keep that should be melted down to make more bullets - though I must say I would very much like to be shot with such bullets myself! Thus Mototada and Ieyasu, knowing they would never meet again, spoke together of old times and shed tears. Mototada was left here with the aforementioned generals and only about 1,800 [Margin note] Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper [Main Text] men to guard this castle. Thus Ieyasu departed Fushimi on the 18th, passed by Ōtsu Castle to meet with its lord Kyōgoku Takatugu, then gradually entered Ise, reached Yokkaichi on the 20th, boarded a ship that night, reached Sakushima on the 21st, and arrived at this Yoshida on the 22nd. Earlier, Ikeda Terumasa had already returned to his domain and was preparing for military action, so at this time he entertained Ieyasu and others in the castle. On this day, after the entertainment ended, Ieyasu advanced to Shirasuka, then gradually proceeded along the Tōkaidō, making contact with the various castle lords along the way - namely Horio Tadauji of Hamamatsu, Yamauchi Kazutoyo of Kakegawa, Nakamura Kazuuji of Fuchū, Nakamura Kazuhide of Numazu, and Ōkubo Tadachika of Odawara - then passed through Fujisawa to Kamakura for falconry, finally arriving at Edo Castle on the 2nd day of the 7th month. As you know, Ikeda Terumasa accompanied this expedition together with his younger brother Nagayoshi at this time. Then Ieyasu departed Edo again on the 21st and reached Oyama in Shimotsuke on the 24th, where the vanguard was stationed under Hidetada's command at Utsunomiya. At this time, Date Masamune responded to Ieyasu by deploying troops and had already captured Shiraishi Castle on the 24th. On this night, while Ieyasu was at Oyama, he received an urgent report that Fushimi Castle was under attack by Mitsunari and others. Of course, Ieyasu had already known before departing Edo that trouble had arisen in the capital region, but since the timing was not yet right, he had proceeded this far with his expedition. However, urgent reports from the capital region continued to arrive, and on the 24th, as I mentioned before, the aforementioned report reached the camp at Oyama. He finally made his decision and gathered Hidetada and the various allied generals for consultation. In the end, the opinion of Fukushima Masanori and other allied generals was that if Ieyasu truly intended to serve Hideyori according to Hideyoshi's dying wishes, then they should oppose Mitsunari to the end and assist Ieyasu, and thus they decided to turn their army westward. Fukushima Masanori and Ikeda Terumasa became the vanguard and began marching west in succession from the 26th. Among the Tokugawa hereditary retainers, Ii Naomasa was supposed to accompany this vanguard, but he suddenly fell ill and could not participate, so Honda Tadakatsu took his place and departed first toward Kiyosu in Owari on the 8th day of the 8th month. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 187