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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 108

ページ: 108

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十八 【本文】 松平家康   時(とき)山内一豊(やまうちかづとよ)の主唱(しゆせう)で沿道(えんどう)の各城(かくじよう)を家康(いへやす)に致(いた)し且(か)つ質(しち)を出(いだ)して二心(ふたごゝろ)なきを明(あきらか)にすることとなつたので此(この)吉(よし) 《割書:東軍質を吉|田に集む》   田城(たじよう)には松平家乗(まつだひらいへのり)が来(きたつ)て之(これ)を守(まも)り且(か)つ沿道(えんどう)諸将(しよせう)の質(しち)も亦(ま)た此(この)城(しろ)に集(あつ)め置(お)くここととなつたのである 《割書:三成兵を挙|ぐ》  サテ此(こ)の時(とき)に方(あた)つて上国方(ぜうこくがた)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であるか之(これ)を申述(もうしの)べて見(み)ると初(はじ)め家康(いへやす)がイヨ〳〵会津(あひづ)征伐(せいばつ)の        為(ため)に出発(しゆつぱつ)することとなつた時(とき)三成(みつなり)は之(これ)を聞(き)いて我計(わがけい)成(な)れりとして喜(よろこ)むだのであるが早速(さつそく)之(これ)を会津(あひづ)の景勝(かげかつ)       に報知(ほうち)し又(ま)た頻(しき)りに同志(どうし)を糾合(きゆうごう)して事を挙(あ)げんと図(はか)つたのである然(しか)るに大谷吉継(おほたによしつぐ)の如(ごと)きは三成(みつなり)とは廿 大谷吉継   年来(ねんらい)の親友(しんゆう)であつたが切(せつ)に其(その)計(けい)を非(ひ)なりとした一人で家康(いへやす)に従(したがつ)て東征(とうせい)の軍(ぐん)に加(くが)はらむとしたのであ       る然(しか)るに三成(みつなり)の決心(けつしん)が堅(かた)いので遂(つひ)に之(これ)に党(とう)するに至(いた)つたのであるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で其(その)素志(そし)ではないけれ       ども拠(よんどころ)なく之(これ)に党(とう)せねばならぬことになつたものは西国(さいこく)の大名(だいみよう)中(ちう)には少(すくな)からざる事であつたが三成(みつなり)等は 《割書:三成関門を|愛知川に設》   更(さら)に近江(あふみ)の愛知川(ゑちがは)に関門(くわんもん)を設(もう)けて東征(とうせい)諸将(しよせう)を扼止(やくし)したので後(おく)れて出発(しゆつぱつ)したものは此処(こゝ)に嚙(く)ひ留(と)められ 《割書:く     | 》  て余義(よぎ)なく大坂(おほさか)に皈(かへ)つたものも又(ま)た少(すくな)からなかつたのである而(しか)して三成(みつなり)等(ら)は一 方(ぱう)に広島(ひろしま)に皈(かへ)つて居(を)る 毛利輝元   毛利輝元(もうりてるもと)の処(ところ)へ使(し)をやつて遂(つひ)に此(この)人(ひと)を大坂(おほさか)に引(ひ)き出(だ)して盟主(めいしゆ)の位置(ゐち)に据(す)へ家康(いへやす)の罪条(ざいでう)を数(かぞ)へて檄(げき)を諸(しよ)        侯(こう)に伝(つた)ふるに至(いた)つたのであるが当時(とうじ)大坂(おほさか)に集(あつま)つた処(ところ)の兵数(へいすう)は実(じつ)に九万三千に上(あが)つたと云ふことである其(その)        勢(いきほひ)で先(ま)づ西城(せいじよう)の留守役(るすやく)佐野綱正(さのつなまさ)に逼(せま)つて之(これ)を開(あ)け渡(わた)さしめ又(ま)た諸侯(しよこう)の妻子(さいし)を城中(じようちう)に収(おさ)めて質(しち)とせむ 《割書:細川忠興の|妻自刃す》  としたので東征(とうせい)諸将(しよせう)の妻子(さいし)は勿論(もちろん)心(こゝろ)を家康(いへやす)方(がた)に属(ぞく)するものゝ家族(かぞく)には一 大騒擾(だいさうぜう)が起(おこ)つて彼(か)の細川忠興(ほそかはたゝおき) 《割書:田辺伏見両|城の攻撃》  の妻(つま)明智氏(あけちし)の如(ごと)きは自尽(じじん)するに至(いた)つたのであるが七月十八日イヨ〳〵兵(へい)を出(いだ)してた丹波(たんば)田辺城(たなべじよう)と並(ならび)に彼(か)       の伏見城(ふしみじよう)とを囲(かこ)むに至(いた)つたのである        此(この)田辺(たなべ)の城(しろ)と云ふのは当時(とうじ)細川忠興(ほそかはたゝおき)の父(ちゝ)幽斉(ゆうさい)か留守(るす)をして居(を)つたので忠興(たゞおき)は云(い)ふ迄(まで)もなく東征軍(とうせいぐん)に従(したが)       つて不在(ふざい)であつたが事(こと)急劇(ききふげき)に起(おこ)つたので其(その)部下(ぶか)を悉(こと〳〵)く城中(じようちう)に集(あつ)めて僅(わづか)に五百人 許(ばかり)の外(ほか)なかつたので 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十五号附録   (明治四十五年一月九日発行) 【本文】       ある然(しか)るに此(この)幽斉(ゆうさい)と云ふ人は歌道(かどう)の達人(たつじん)であるので遂(つひ)に勅命(ちよくれい)によつて此(この)城攻(しろぜめ)を解(と)くに至(いた)つたと云ふヤ       カマシイ話(はなし)があるのであるが此処(こゝ)には関係(くわんけい)が少(すくな)いから詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのであるサテ伏見(ふしみ)の城(しろ)も前(まへ)に 《割書:鳥居元忠等|の勇戦》   申述(もうしの)べた通(とほ)り兵数(へいすう)僅(わづか)に千八百余人で四万余の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)けて戦(たゝか)つたのであるが此(この)時(とき)元忠(もとたゞ)初(はじ)め諸将士(しよせうし)の 《割書:島津惟新伏|見城を守ら》   勇壮(ゆうさう)にして義心(ぎしん)に満(み)ち〳〵て居(を)つた有様(ありさま)は実(じつ)に三河武士(みかはぶし)の善(よ)き標本(ひようほん)であると思(おも)ふのである初(はじ)め島津惟(しまづゐ) 《割書:むと請ふ | 》   新(しん)も家康(いへやす)からの依托(いだく)があつたので此(この)時(とき)伏見城(ふしみじよう)に入(い)つて共(とも)に守備(しゆび)に任(にん)ぜむとしたのであるが元忠(もとたゞ)は之(これ)を        詭計(きけい)なりと疑(うたが)つて聴(きか)なかつたので更(さら)に其(その)臣(しん)の新納旅庵(にひのりよあん)と云ふ人が元忠(もとたゞ)に懇意(こんい)なので之(これ)を遣(つか)はして其(その)事(こと)       を計(はか)らしめむとしたが元忠(もとたゞ)は又(ま)た之(これ)を間諜(かんちやう)なりとして銃撃(じうげき)したのであるソコで惟新(ゐしん)も止(やむ)を得(え)ず西軍に 《割書:小早川秀秋|亦た城守を》   属(ぞく)するに至(いた)つたと云ふ事であるが小早川秀秋(こはやかはひであき)も亦(ま)た心(こゝろ)を家康(いへやす)に属(ぞく)して居(を)つた一人で此(この)時(とき)矢張(やはり)使(し)を遣(や)つ 《割書:請ふ   | 》  て共(とも)に城守(じようしゆ)したいと申述(もうしの)べたのみならず躬(みづか)らも城外(じょうぐわい)に至(いた)り元忠(もとたゞ)に面(めん)して旧誼(きうぎ)を縷述(るじゆつ)し其(その)事(こと)を請(こ)つた       のであるが元忠(もとたゞ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)しない夫程(それほど)に思(おも)ふならば直接(ちよくせつ)に関東(くわんとう)の許可(きよか)を得(え)られたいものであると断(ことは)つ       たのであるまだ其(その)前(まへ)に増田長盛(ますだながもり)が使(し)を以(もつ)て穏(をだやか)に城(しろ)を明渡(あけわた)すように元忠(もとたゞ)を諭(さと)した事(こと)があるが元忠(もとたゞ)は怒(いか)       つて余(よ)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)るものである他人(たにん)の言(げん)を聴(き)いて去(さ)るべきでないから重(かさ)ねてソンナ事を       云つて来(き)たならば斬(き)つて仕舞(しま)うぞと云つたとの事であるが如何(いか)にも其(その)決死(けつし)の様(さま)と律義(りつぎ)な処(ところ)が現(あら)はれて        居(を)ると思(おも)ふのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で全(まつた)く外部(ぐわいぶ)の応援(おうゑん)を謝絶(しやぜつ)し克(よ)く少人数(せうにんず)を以(もつ)て大軍(たいぐん)に当(あた)つたが八月朔日 《割書:元忠家忠等|の戦死》  に至(いた)つて遂(つひ)に落城(らくじよう)し元忠(もとたゞ)家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)諸将(しよせう)を初(はじ)め殆(ほとん)ど其(その)全部(ぜんぶ)が奮戦力闘(ふんせんりきとう)して悉(こと〳〵)く戦死(せんし)したのは誠(まこと)に勇(いさ)       ましき最後(さいご)であつたと思(おも)ふのである 《割書:東軍の先鋒|清洲に集合》  それより大坂(おほさか)方(ほう)即(すなは)ち西軍にありては兵(へい)を伊勢地方(いせちほう)に出(いだ)して諸城(しよじよう)を攻略(こうりやく)し又(ま)た美濃(みの)に出陣(しゆつぢん)して家康(いへやす)方(がた)即(すなは) 《割書:す    | 》  ち東軍の動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが東軍の先鋒(せんぽう)たる諸将(しよせう)は八月十四日に至(いた)つて尾張(をはり)の清洲(きよす)に集合(しうごう) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十八 【本文】 この時、山内一豊の主唱で沿道の各城を家康に献上し、かつ人質を出して二心なきを明らかにすることとなったので、この吉田城には松平家乗が来てこれを守り、かつ沿道諸将の人質もまたこの城に集め置くこととなったのである。 さてこの時に当たって上国方の形勢はいかがであるか、これを申し述べてみると、初め家康がいよいよ会津征伐のために出発することとなった時、三成はこれを聞いて我が計略が成ったとして喜んだのであるが、早速これを会津の景勝に報知し、また頻りに同志を糾合して事を挙げようと図ったのである。しかるに大谷吉継のごときは三成とは二十年来の親友であったが、切にその計を非なりとした一人で、家康に従って東征の軍に加わろうとしたのである。しかるに三成の決心が堅いので、遂にこれに党するに至ったのであるが、このような訳でその本意ではないけれども、やむを得ずこれに党せねばならぬことになったものは西国の大名中には少なからざることであった。 三成等は更に近江の愛知川に関門を設けて東征諸将を食い止めたので、後れて出発したものはここに食い留められて、やむなく大坂に帰ったものもまた少なからなかったのである。そして三成等は一方に広島に帰っている毛利輝元のところへ使いをやって、遂にこの人を大坂に引き出して盟主の位置に据え、家康の罪条を数えて檄を諸侯に伝えるに至ったのであるが、当時大坂に集まったところの兵数は実に九万三千に上ったということである。 その勢いで先ず西城の留守役佐野綱正に迫ってこれを明け渡させ、また諸侯の妻子を城中に収めて人質とせんとしたので、東征諸将の妻子はもちろん、心を家康方に属するものの家族には一大騒擾が起こって、彼の細川忠興の妻明智氏のごときは自尽するに至ったのであるが、七月十八日いよいよ兵を出して丹波田辺城と並びに彼の伏見城とを囲むに至ったのである。 この田辺の城というのは、当時細川忠興の父幽斉が留守をしていたので、忠興は言うまでもなく東征軍に従って不在であったが、事が急劇に起こったのでその部下を悉く城中に集めて僅かに五百人ばかりの外なかったのである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十五号附録 (明治四十五年一月九日発行) 【本文】 しかるにこの幽斉という人は歌道の達人であるので、遂に勅命によってこの城攻めを解くに至ったという喧しい話があるのであるが、ここには関係が少ないから詳しくは申し述べないのである。 さて伏見の城も前に申し述べた通り、兵数僅かに千八百余人で四万余の大軍を引き受けて戦ったのであるが、この時元忠を初め諸将士の勇壮にして義心に満ちていた有様は、実に三河武士の良き標本であると思うのである。 初め島津惟新も家康からの依頼があったので、この時伏見城に入って共に守備に任ぜんとしたのであるが、元忠はこれを詭計なりと疑って聞かなかったので、更にその臣の新納旅庵という人が元忠に懇意なのでこれを遣わしてその事を計らせんとしたが、元忠はまたこれを間諜なりとして銃撃したのである。そこで惟新もやむを得ず西軍に属するに至ったということである。 小早川秀秋もまた心を家康に属していた一人で、この時やはり使いを遣って共に城守したいと申し述べたのみならず、自らも城外に至り元忠に面して旧義を縷述しその事を請うたのであるが、元忠は中々承知しない。それほどに思うならば直接に関東の許可を得られたいものであると断ったのである。 まだその前に増田長盛が使いをもって穏やかに城を明け渡すように元忠を諭した事があるが、元忠は怒って「余は徳川氏のためにこの城を守るものである。他人の言を聞いて去るべきでないから、重ねてそんな事を言って来たならば斬って仕舞うぞ」と言ったとの事であるが、いかにもその決死の様と律義な処が現れていると思うのである。 このような訳で全く外部の応援を謝絶し、よく少人数をもって大軍に当たったが、八月朔日に至って遂に落城し、元忠・家忠・家長等諸将を初めほとんどその全部が奮戦力闘して悉く戦死したのは、誠に勇ましき最後であったと思うのである。 それより大坂方すなわち西軍にあっては、兵を伊勢地方に出して諸城を攻略し、また美濃に出陣して家康方すなわち東軍の動静を窺っていたのであるが、東軍の先鋒たる諸将は八月十四日に至って尾張の清洲に集合 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百八十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 188 [Main Text] At this time, at the initiative of Yamauchi Kazutoyo, it was decided that each castle along the route would be surrendered to Ieyasu, and hostages would be sent to demonstrate their loyalty. Therefore, Matsudaira Ienori came to guard this Yoshida Castle, and the hostages of the various generals along the route were also to be gathered and kept in this castle. Now, regarding the situation in the capital region at this time, let me explain: Initially, when Ieyasu finally decided to depart for the conquest of Aizu, Mitsunari heard this and rejoiced, thinking his strategy had succeeded. He immediately reported this to Kagekatsu in Aizu and busily sought to rally his allies to raise their banner. However, someone like Ōtani Yoshitsugu, who had been Mitsunari's close friend for twenty years, was one who strongly opposed this plan and intended to follow Ieyasu and join the eastern expedition. But since Mitsunari's resolve was firm, he eventually joined his cause. For such reasons, many among the western daimyo found themselves having to join Mitsunari's faction against their true intentions, out of necessity. Mitsunari and others further established checkpoints at the Echi River in Ōmi to block the eastern expedition generals. Those who departed late were stopped here, and many had no choice but to return to Osaka. Meanwhile, Mitsunari and others sent envoys to Mōri Terumoto, who had returned to Hiroshima, eventually drawing him out to Osaka to place him in the position of leader of their alliance. They enumerated Ieyasu's crimes and sent proclamations to the various lords. The number of troops that gathered in Osaka at that time actually reached 93,000. With this force, they first pressured Sano Tsunamasa, the caretaker of the western castle, to surrender it, and also sought to take the wives and children of the various lords into the castle as hostages. This caused great upheaval among the families of the eastern expedition generals and those whose hearts belonged to Ieyasu's side - even Hosokawa Tadaoki's wife, Lady Akechi, took her own life. On the 18th day of the 7th month, they finally deployed troops to besiege both Tanabe Castle in Tamba and the aforementioned Fushimi Castle. This Tanabe Castle was at that time being held by Hosokawa Tadaoki's father, Yūsai, as Tadaoki was naturally absent, having joined the eastern expedition. Since the crisis arose suddenly, he gathered all his retainers in the castle, but had only about 500 men. [Left Page] [Header] San'yō Newspaper No. 3955 Supplement (Published January 9, 1912) [Main Text] However, this Yūsai was a master of poetry, so eventually the siege of this castle was lifted by imperial command - though this is a troublesome story, I won't go into detail here as it has little relevance to our topic. As for Fushimi Castle, as I mentioned before, with only about 1,800 men they fought against a great army of over 40,000. The brave and righteous spirit displayed by Mototada and the other officers and men at this time was truly a fine example of Mikawa warriors. Initially, Shimazu Yoshihisa also received a request from Ieyasu to enter Fushimi Castle and join in its defense, but Mototada suspected this was a trick and would not listen. Then Yoshihisa sent his retainer Niiro Ryōan, who was on friendly terms with Mototada, to negotiate this matter, but Mototada again suspected him of being a spy and had him shot. Thus Yoshihisa had no choice but to join the western army. Kobayakawa Hideaki was also one whose heart belonged to Ieyasu. At this time he not only sent an envoy requesting to join in defending the castle, but also came personally to the castle walls, met with Mototada face to face, spoke at length of their old friendship, and made this request. However, Mototada would not agree at all, saying that if he truly felt this way, he should obtain permission directly from Kantō. Even before this, Masuda Nagamori had sent an envoy to gently persuade Mototada to surrender the castle peacefully, but Mototada angrily replied: "I guard this castle for the Tokugawa clan. I should not leave upon hearing others' words, so if you come with such talk again, I will cut you down!" This truly shows his determination to die and his loyal character. For these reasons, completely refusing all outside assistance and fighting a large army with few men, the castle finally fell on the 1st day of the 8th month. Mototada, Ietada, Ienaga and the other generals, along with almost all their men, fought valiantly and died in battle - truly a courageous end. From then on, the Osaka side, that is, the western army, deployed troops to the Ise region to attack various castles, and also advanced into Mino to observe the movements of Ieyasu's forces, the eastern army. The generals who formed the vanguard of the eastern army assembled at Kiyosu in Owari on the 14th day of the 8th month [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 189