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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 109

ページ: 109

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十 【本文】       したのであるトコロが家康(いへやす)から何等(なんら)の命令(めいれい)がないので十九日まで此処(こゝ)に滞在(たいざい)して居(を)つたのであるが其(その)        日(ひ)家康(いへやす)の慰問使(ゐもんし)として村越直吉(むらこしなをよし)が来(きたつ)て家康(いへやす)の意(い)を伝(つた)ふる処があつたので廿日 諸将(しよせう)は相会(あひくわい)して進軍(しんぐん)を議(ぎ)       したのであるが当時(とうじ)岐阜城(ぎふじよう)は織田秀信(をたひでのぶ)が居(を)つたので其(その)家臣(かしん)の中(なか)には熱心(ねつしん)に家康(いへやす)を助(たす)けねばならぬと主(しゆ)        張(ちよう)したものがあつたにも拘(かゝは)らず三成(みつなり)の為(ため)に説(と)き付(つ)けられて遂(つひ)に西軍の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)ることに決(けつ)したので 《割書:岐阜城の攻|略》  あるから東軍にあつては先(ま)づ差当(さしあた)り此(この)岐阜城(ぎふじよう)を攻略(こうりやく)する必要(ひつよう)があるのである然(しか)るに岐阜城(ぎふじよう)の前衛(ぜんゑい)とも       云ふべき処に御承知(ごせうち)の如(ごと)く犬山(いぬやま)、 竹(たけ)ケ鼻(はな)等(とう)の城(しろ)があるので先(ま)づ犬山城(いぬやまじよう)を攻(せ)むるように見(み)せかけて置(お)い       て其(その)実(じつ)岐阜城(ぎふじよう)に突進(とつしん)するのが利益(りえき)であると云ふので其(その)事(こと)に決定(けつてん)したのであるトコロで岐阜(ぎふ)に行(ゆ)くには        木曽川(きそがは)を渡(わた)るので上流(ぜうりう)は河田(かわだ)下流(かりう)は尾越(をごし)を経(ふ)るのであるが上流(ぜうりう)の方(はう)は捷路(ちかみち)であつて両(れう)先鋒(せんぽう)の中(うち)正則(まさのり)が        之(これ)を進(すゝ)みたいと云つたのであつた然(しか)るに輝政(てるまさ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)せぬ余(よ)も亦(ま)た先鋒(せんぽう)の任(にん)であるから迂路(うろ)に依(よ)る       事は出来(でき)ぬと云ふのであつたが其(その)頃(ころ)は井伊直正(ゐいなをまさ)も既(すで)に着(ちやく)して居(を)つたので直正(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)へ入(い)つて        調停(てうてい)し遂(つひ)に輝政(てるまさ)が捷路(ちかみち)を取(と)り正則(まさのり)が迂路(うろ)を取(と)ることになつたのである併(しか)し捷路(ちかみち)を取(と)るものは迂路(うろ)よりす 輝政の戦功 るものゝ合図(あひづ)があるまでは戦(たゝかひ)は交(まじ)へぬと云ふことを定(さだ)めたのであるソコで輝政(てるまさ)の方(はう)は浅野幸長(あさのゆきなが)、 山内(やまうち)        一豊(かづとよ)、 堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 有馬豊氏(ありまとようぢ)、 一柳直盛(いちやなぎなをもり)、 戸川達安(とがはさとやす)等(ら)兵(へい)凡(およ)そ一万八千人で廿二日の払暁(ふつけう)木曽川(きそがは)の上流(ぜうりう)河(かわ)        田(だ)附近(ふきん)に至(いた)つたのであるが此処(こゝ)で敵軍(てきぐん)と衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は令(れい)してまだ下流(かりう)の味方(みかた)から合図(あひづ)       はないが敵(てき)から戦端(せんたん)を開(ひら)く以上(いじよう)は躊躇(ちうちよ)すべきでないと云ふので遂(つひ)に応戦(おうせん)せしめたのであるソコで伊木(いき)        忠政(たゞまさ)は先(ま)づ河(かは)を渡(わた)つて戦(たゝか)つたが輝政(てるまさ)初(はじ)め諸将(しよせう)も之(これ)に次(つ)ぎ初(はじ)めは殺傷(さつせう)相当(あひあた)つたのであるが午前(ごぜん)六時から       八時 頃(ころ)迄(まで)約(やく)二時間の戦(たゝかひ)で東軍は遂(つひ)に西軍を破(やぶ)り其(その)岐阜城(ぎふじよう)に向(むか)つて退却(たいきやく)するのを追撃(つひげき)したが後(のち)兵(へい)を収(をさ)       めて新加納(しんかのう)、 芋島(いもじま)、 平島(ひらじま)附近(ふきん)に宿営(しゆくえい)し輝政(てるまさ)は其(その)夜(よ)捷報(せうほう)を江戸(えど)に発(はつ)したのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        然(しか)るに正則(まさのり)等(ら)下流(かりう)に向(むか)つた一 隊(たい)は竹(たけ)ケ鼻城(はなじょう)の兵(へい)に妨(さまた)げられたので之(これ)と戦(たゝかつ)て廿二日の午後(ごご)遂(つひ)に其(その)城(しろ)を        陥(おとしい)れたのであるが其夜(そのよ)輝政(てるまさ)から捷報(せうほう)があつて且(か)つ既(すで)に岐阜城(ぎふじよう)に迫(せま)れる旨(むね)を申送(もうしおく)つたのであるから正(まさ)        則(のり)は其(その)約(やく)に背(そむ)いたのを怒(いか)つたが細川忠興(ほそかはたゞおき)の説(せつ)で即夜(そくや)急行(きうこう)して岐阜(ぎふ)に向(むか)ふこととなつて直(たゝ)ちに出発(しゆつぱつ)したの       であるソコで其翌(そのよく)廿三日は早朝(さうてう)から岐阜城(ぎふじよう)を攻撃(こうげき)したのであるが正則(まさのり)は前日(ぜんじつ)の事があるから使(し)を輝政(てるまさ)       の処に寄越(よこ)して其(その)約(やく)に背(そむ)いた事を詰(なじ)つて決闘(けつとう)を申込(もうしこ)むだのである然(しか)るに輝政(てるまさ)は之(これ)に答(こた)へて余(よ)が敢(あへ)て約(やく)       に背(そむ)いたと云ふ訳(わけ)ではない敵兵(てきへい)が我(われ)より先(さ)きに右岸(うがん)にあつて銃(じう)を発(はつ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むだのであるから止(やむ)を        得(え)ず進(すゝ)むだまでであるそれ故(ゆゑ)今日(こんにち)は貴隊(きたい)に於(おい)て追手口(おゝてぐち)を攻(せ)められたい我隊(わがたい)は搦手(からめて)へ廻(まは)るであろうと云       つたので先(ま)づ事(こと)は無事(ぶじ)に落着(らくちやく)して其(その)事(こと)に定(さだ)まつたのであるがソコで輝政(てるまさ)は約(やく)の如(ごと)くに進(すゝ)むだ処が正則(まさのり)       の兵(へい)が市街(しがい)に放火(はうくわ)して通行(つうこう)することが出来(でき)ないヤツトの事で迂回(うくわい)して本丸(ほんまる)に逼(せま)つたのであるが前章(ぜんせう)にも        申述(もうしの)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は嘗(かつ)て此(この)城(しろ)に居(を)つた事があるので地理(ちり)に明(あきら)かな処から大(おゝい)なる便宜(べんぎ)を得(え)た事であつた 《割書:織田秀信の|請降》  のであるトコロで輝政(てるまさ)も亦(ま)た火(ひ)を本丸(ほんまる)に放(はな)ち門内(もんない)に投(とう)じて先登(せんとう)と称(せう)したのであるが秀信(ひでのぶ)は遂(つひ)に降(こう)       を請(こ)ふて上加納(かみかのう)の円徳寺(ゑんとくじ)に入(い)り薙髪(ちはつ)するに至(いた)つたのである其(その)落城後(らくじようご)又(ま)た輝政(てるまさ)と正則(まさのり)との間(あひだ)に先登(せんとう)の争(あらそ)       ひがあつた併(しか)し之(これ)も亦(ま)た直政(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)を調停(てうてい)して双方(そうほう)同時(どうじ)に城(しろ)の前後(ぜんご)から之(これ)を陥(おとしい)れた事に落(らく) 《割書:東軍の諸将|赤坂に集る》   着(ちやく)せしめたのであるかくて東軍は破竹(はちく)の勢(いきほひ)で合渡(あひわたり)に捷(か)ち呂久川(ろくがは)に逼(せま)り廿四日には諸将(しよせう)悉(こと〳〵)く赤坂(あかさか)に        集(あつま)つたのである此(この)時(とき)三成(みつなり)は大垣城(おほがきじよう)にあつて頻(しき)りに西軍(せいぐん)諸将(しよせう)を招致(せうち)して居(を)つたのであるが東軍(とうぐん)に於(おい)ても        亦(ま)た家康(いへやす)が到着(とうちやく)しないので双方(そうほう)先(ま)づ対峙(たいじ)の有様(ありさま)で日数(にちすう)を経過(けいくわ)したのである 《割書:家康自ら西|上す》  かくてイヨ〳〵九月朔日に至(いた)つて家康(いへやす)は江戸(えど)を出発(しゆつぱつ)することとなつて麾下(きか)の士(し)凡(およ)そ三万二千百余人を率(ひき)       ゐて東海道(とうかいどう)を西上(さいぜう)したのであるが之(これ)より先(さ)き結城秀康(ゆうきひでやす)を宇都宮城(うつのみやじよう)に留(とゞ)めて上杉氏(うへすぎし)に当(あた)らしめ別(べつ)に秀忠(ひでたゞ) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十 【本文】 したのである。ところが家康から何等の命令がないので十九日までここに滞在していたのであるが、その日家康の慰問使として村越直吉が来て家康の意を伝えるところがあったので、二十日諸将は相会して進軍を議したのである。 当時岐阜城は織田秀信がいたので、その家臣の中には熱心に家康を助けねばならぬと主張したものがあったにも関わらず、三成のために説き付けられて遂に西軍のためにこの城を守ることに決したのである。 だから東軍にあっては先ず差し当たりこの岐阜城を攻略する必要があるのである。しかるに岐阜城の前衛とも言うべき処に、ご承知の如く犬山、竹ヶ鼻等の城があるので、先ず犬山城を攻めるように見せかけて置いて、その実岐阜城に突進するのが利益であるということで、その事に決定したのである。 ところで岐阜に行くには木曽川を渡るので、上流は河田、下流は尾越を経るのであるが、上流の方は近道であって、両先鋒の中正則がこれを進みたいと言ったのであった。しかるに輝政は中々承知せず、「余もまた先鋒の任であるから迂路によることは出来ぬ」と言うのであったが、その頃は井伊直政も既に着していたので、直政と忠勝とがその間へ入って調停し、遂に輝政が近道を取り、正則が迂路を取ることになったのである。 しかし近道を取るものは迂路によるものの合図があるまでは戦いは交えぬということを定めたのである。そこで輝政の方は浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、有馬豊氏、一柳直盛、戸川達安等兵凡そ一万八千人で、二十二日の払暁木曽川の上流河田附近に至ったのであるが、ここで敵軍と衝突したのである。 この時輝政は令して「まだ下流の味方から合図はないが、敵から戦端を開く以上は躊躇すべきでない」ということで、遂に応戦させたのである。そこで伊木忠政は先ず河を渡って戦ったが、輝政を初め諸将もこれに次ぎ、初めは殺傷相当ったのであるが、午前六時から八時頃まで約二時間の戦いで東軍は遂に西軍を破り、その岐阜城に向かって退却するのを追撃したが、後兵を収めて新加納、芋島、平島附近に宿営し、輝政はその夜捷報を江戸に発したのである。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 しかるに正則等下流に向かった一隊は竹ヶ鼻城の兵に妨げられたので、これと戦って二十二日の午後遂にその城を陥れたのであるが、その夜輝政から捷報があって且つ既に岐阜城に迫れる旨を申し送ったのであるから、正則はその約に背いたのを怒ったが、細川忠興の説で即夜急行して岐阜に向かうこととなって直ちに出発したのである。 そこでその翌二十三日は早朝から岐阜城を攻撃したのであるが、正則は前日の事があるから使いを輝政の処に寄越してその約に背いた事を詰って決闘を申し込むだのである。しかるに輝政はこれに答えて「余が敢えて約に背いたという訳ではない。敵兵が我より先きに右岸にあって銃を発して戦いを挑むだのであるから止むを得ず進むだまでである。それ故今日は貴隊において追手口を攻められたい。我隊は搦手へ廻るであろう」と言ったので、先ず事は無事に落着してその事に定まったのである。 そこで輝政は約の如くに進むだ処が、正則の兵が市街に放火して通行することが出来ない。やっとの事で迂回して本丸に迫ったのであるが、前章にも申し述べた如く輝政は嘗てこの城にいた事があるので地理に明らかな処から大なる便宜を得た事であったのである。 ところで輝政もまた火を本丸に放ち門内に投じて先登と称したのであるが、秀信は遂に降を請うて上加納の円徳寺に入り薙髪するに至ったのである。その落城後また輝政と正則との間に先登の争いがあった。しかしこれもまた直政と忠勝とがその間を調停して、双方同時に城の前後からこれを陥れた事に落着させたのである。 かくて東軍は破竹の勢いで合渡に勝ち呂久川に迫り、二十四日には諸将悉く赤坂に集まったのである。この時三成は大垣城にあって頻りに西軍諸将を招致していたのであるが、東軍においてもまた家康が到着しないので、双方先ず対峙の有様で日数を経過したのである。 かくていよいよ九月朔日に至って家康は江戸を出発することとなって、麾下の士凡そ三万二千百余人を率いて東海道を西上したのであるが、これより先き結城秀康を宇都宮城に留めて上杉氏に当たらせ、別に秀忠 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十一

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 190 [Main Text] However, since there were no orders from Ieyasu, they remained there until the 19th day. On that day, Murakoshi Naoyoshi came as Ieyasu's envoy of condolence and conveyed Ieyasu's intentions, so on the 20th day the generals met to discuss their advance. At that time, Oda Hidenobu was at Gifu Castle, and although some of his retainers earnestly advocated that they should assist Ieyasu, they were persuaded by Mitsunari and ultimately decided to defend the castle for the western army. Therefore, the eastern army first needed to capture this Gifu Castle. However, as you know, there were castles such as Inuyama and Takegahana that served as the forward positions of Gifu Castle. It was decided that it would be advantageous to make it appear they were attacking Inuyama Castle first, while actually charging directly at Gifu Castle. Now, to reach Gifu they had to cross the Kiso River - upstream via Kawada and downstream via Ogoshi. The upstream route was shorter, and among the two vanguards, Masanori wanted to take this route. However, Terumasa would not agree, saying "I too am assigned to the vanguard, so I cannot take the longer route." At that time Ii Naomasa had already arrived, so Naomasa and Tadakatsu mediated between them, and it was finally decided that Terumasa would take the shorter route and Masanori the longer one. However, it was stipulated that those taking the shorter route would not engage in battle until they received a signal from those taking the longer route. So Terumasa's force, consisting of Asano Yukinaga, Yamauchi Kazutoyo, Horio Tadauji, Arima Toyouji, Ichiyanagi Naomori, Togawa Satonobu and others - about 18,000 men in total - reached the vicinity of Kawada in the upper Kiso River at dawn on the 22nd day, where they encountered enemy forces. At this time Terumasa ordered: "Though there is no signal yet from our allies downstream, since the enemy has opened hostilities, we should not hesitate," and thus engaged in battle. Iki Tadamasa first crossed the river to fight, followed by Terumasa and the other generals. Initially casualties were even, but after about two hours of fighting from 6 to 8 AM, the eastern army finally broke the western army and pursued them as they retreated toward Gifu Castle. Later they withdrew their troops and camped near Shin-Kano, Imojima, and Hirashima, and that night Terumasa sent news of victory to Edo. [Header] Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yo Newspaper [Main Text] However, Masanori's unit heading downstream was hindered by troops from Takegahana Castle, so they fought them and finally captured the castle on the afternoon of the 22nd. That night they received news of victory from Terumasa stating that he had already pressed close to Gifu Castle. Masanori was angry about this breach of agreement, but at Hosokawa Tadaoki's persuasion, they decided to march rapidly toward Gifu that very night and immediately departed. So the following day, the 23rd, they attacked Gifu Castle from early morning. Since there had been the incident of the previous day, Masanori sent an envoy to Terumasa, reproaching him for breaking their agreement and challenging him to a duel. But Terumasa replied: "I did not deliberately break our agreement. Enemy soldiers were on the right bank ahead of us, firing guns and provoking battle, so I had no choice but to advance. Therefore, today please let your forces attack the main gate, while our forces will circle to the rear approach." With this, the matter was peacefully settled and decided accordingly. So Terumasa advanced as agreed, but Masanori's troops set fire to the city streets, making passage impossible. With great difficulty they detoured and pressed close to the main keep. As I mentioned in the previous chapter, since Terumasa had once resided in this castle, his familiarity with the geography gave him great advantage. Then Terumasa also set fire to the main keep and charged through the gate, claiming to be first to scale the walls. But Hidenobu finally requested surrender, entered Entoku-ji temple in Kami-Kano, and shaved his head to become a monk. After the castle fell, there was again a dispute between Terumasa and Masanori over who had been first to scale the walls. But this too was mediated by Naomasa and Tadakatsu, who settled it by saying both sides had simultaneously captured the castle from front and rear. Thus the eastern army, with irresistible force, won at Aiwatari, pressed toward the Roku River, and on the 24th day all the generals assembled at Akasaka. At this time Mitsunari was at Ogaki Castle, busily summoning the western army generals, but since Ieyasu had not yet arrived for the eastern army either, both sides remained in a standoff for several days. Finally, on the 1st day of the 9th month, Ieyasu departed from Edo with about 32,100 men under his command, advancing westward along the Tokaido. Before this, he had left Yuki Hideyasu at Utsunomiya Castle to deal with the Uesugi clan, and separately sent Hidetada [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 191