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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 110

ページ: 110

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十二 【本文】       をして譜代(ふだい)の将士(せうし)凡(およ)そ三万八千余人を率(ひき)ゐて東山道(とうさんどう)から西上(せいぜう)せしむる事としたので秀忠(ひでたゞ)は八月廿四日 《割書:秀忠東山道|を西上す》   既(すで)に宇都宮(うつのみや)から直(たゝ)ちに信濃(しなの)に向(むか)つたのである即(すなは)ち之(これ)には大久保忠隣(おほくぼたゞちか)、 本多正信(ほんだまさのぶ)、 酒井家次(さかゐいへつぐ)、 奥平家昌(おくだひらいへまさ)        菅沼忠政(すがぬまたゞまさ)、 牧野康成(まきのやすなり)(《割書:右馬|允》)戸田一西(とだかづあき)を初(はじ)め三河以来(みかはいらい)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を擢(ぬきん)でた人々は多(おほ)く之(これ)にしたが従(したが)つた       のであるが之(これ)が先鋒(せんぽう)としては榊原康政(さかきばらやすまさ)が其(その)任(にん)に当(あた)つたのである然(しか)るに家康(いへやす)の方(はう)は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り九 《割書:家康の吉田|通過》  月朔日に江戸(えど)を発(はつ)して東海道(とうかいどう)を上(のぼ)り此(この)吉田(よしだ)をば八日に通過(つうくわ)して十一日 清洲(きよす)に入(い)り十四日 赤坂(あかさか)に到着(たうちやく)し       て初(はじ)めて金扇馬標(きんせんうまじるし)を岡山(おかやま)の営(えい)に立(たつ)たのであるが秀忠(ひでたゞ)は遂(つひ)に此(この)期(き)に後(おく)れてまだ到着(たうちやく)するに至(いた)らなかつた 上田城   のであるそれはドウ云ふ訳(わけ)であるかと云ふに御承知(ごせうち)の如(ごと)く信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)並(ならび)に其(その)二男(じなん)幸村(ゆきむら)は       西軍に応(おう)ずることとなつたので其(その)居城(きよじよう)上田(うへた)に拠(よつ)て此(この)秀忠(ひでたゞ)の一 行(こう)を拒(こば)むだのであるモツトモ秀忠(ひでたゞ)に於(おい)ても        家康(いへやす)の江戸(えど)出発(しゆつぱつ)を知(し)つたならばドウ都合(つごう)しても前進(ぜんしん)したのであつた事と思(おも)ふが此(この)家康(いへやす)の通報(つうほう)を齎(もた)らし       た使者(ししや)が秋瞭(しうれう)の為(ため)に遅延(ちえん)してヨウ〳〵九日に致(いた)つて秀忠(ひでたゞ)の許(もと)に達(たつ)した次第(しだい)であつたからそれまでは秀(ひで)        忠(たゞ)に於(おい)ても家康(いへやす)の方(はう)の消息(せうそく)が分(わか)らなかつた為(ため)にベンと〳〵上田(うへだ)の城攻(しろぜ)めに時日(じじつ)を遷(うつ)したような訳(わけ)であ       つたのである此処(こゝ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのは此(この)真田氏(さなだし)の事であるがそれがズツト以前(いぜん)に武田(たけだ) 真田信幸   氏(し)に属(ぞく)して居(を)つた時分(じぶん)の関係(くわんけい)などは既(すで)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)くで諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふから        此処(こゝ)には略(りやく)するが此(この)昌幸(まさゆき)には信幸(のぶゆき)、 幸村(ゆきむら)の二 子(し)があつて当時(とうじ)信幸(のぶゆき)は上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)に居(を)つたのであるト       コロが此(この)信幸(のぶゆき)は之(これ)迄(まで)に頗(すこぶ)る徳川氏(とくがはし)の世話(せわ)になつて居(を)るのみならず其(その)妻(つま)は本多忠勝(ほんだたゞかつ)の娘(むすめ)で家康(いへやす)の養女(やうぢよ)と       して嫁(か)したものであるそれ故(ゆゑ)に最初(さいしよ)三成(みつなり)から兵(へい)を挙(あ)ぐるの報知(ほうち)を得(え)た時(とき)に昌幸(まさゆき)は其(その)二 子(し)に向(むか)つて向背(こうはい)       を擇(えら)ばしめたのであるが信幸(のぶゆき)は東せむと請(こ)ひ幸村(ゆきむら)は西せむと願(ねが)つたので昌幸(まさゆき)は双方(さうはう)共(とも)に其(その)願意(ぐわんい)を容(ゆる)し       て己(おの)れは幸村(ゆきむら)を伴(ともな)つて西軍に属(ぞく)した次第(しだい)で云はゞ親子(おやこ)兄弟(けうだい)が敵(てき)と味方(みかた)とに別(わか)れた訳(わけ)であるが此(この)時(とき)信幸(のぶゆき) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十一号附録   (明治四十年一月十六日発行) 【本文】       は秀忠(ひでたゞ)に属(ぞく)して攻城軍(こうじようぐん)の中(なか)にあつたのであるソコで話(はなし)は前(まへ)に戻(もど)つて家康(いへやす)の方(はう)であるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた 《割書:東軍諸将の|謀議》   如(ごと)く九月十四日に家康(いへやす)は赤坂(あかさか)に着(ちやく)して岡山(をかやま)の上(うへ)に陣(ぢん)を取(と)つたが更(さら)に諸将(しよせう)を会(くわい)して謀議(ぼうぎ)を凝(こ)らしたので       ある此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)と井伊直正(ゐいなをまさ)とは急(きう)に大垣城(おほがきじよう)を攻取(こうしゆ)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつたが福島正則(ふくしままさのり)と本多忠勝(ほんだたゞかつ)       とは先(ま)づ大坂(おほさか)に上(のぼ)つて毛利輝元(もうりてるもと)と決戦(けつせん)して諸将(しよせう)の質(しち)を復(ふく)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつた然(しか)るに家康(いへやす)は一 隊(たい)       を以(もつ)て大垣(おほがき)に当(あた)らしめ其余(そのよ)の大部隊(だいぶたい)をして進(すゝ)むで佐和山(さわやま)を屠(ほうむ)り大坂(おほさか)に向(むか)ふべきことを命(めい)したので直(たゞ)ちに 株瀬川の戦  其(その)用意(ようい)に取(とり)かゝつたのであるが此(この)夕(ゆう)大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)との間(あひだ)にある株瀬川(かぶせがは)と云ふ河(かは)の辺(ほとり)で両軍(れうぐん)の小衝突(せう〳〵とつ)があ       つたのである之(これ)には西軍(せいぐん)の方(はう)が何分(なにぶん)の勝利(せうり)とも云ふべき結果(けつくわ)を得(え)たのであつたが其(その)夜(よ)西軍(せいぐん)では東軍(とうぐん)の        謀(はかりごと)を偵知(ていち)したので之(これ)は打棄(うちすて)て置(お)けぬと云ふので遂(つひ)に之(これ)を関(せき)ケ原(はら)で扼(やく)することに決(けつ)したのである蓋(けだ)しそ     れは全(まつた)く家康(いへやす)の計略(けいりやく)の嵌(はま)つた訳(わけ)で東軍(とうぐん)に於(おい)ては元(もと)よりそれを望(のぞ)むで居(を)つたのであるから家康(いへやす)はワザワ 《割書:西軍諸将敵|を関ケ原に》  ザ其(その) 謀(はかりごと)を西軍(せいぐん)に知(し)れるように云ひ触(ふ)れしめたとの事であるかくて西軍は福原長堯(ふくはらながたか)以上七千五百 余人(よにん) 《割書:扼せむとす| 》  を大垣城(おほがきじよう)に留(とゞ)めて石田三成(いしだみつなり)、 島津惟新(しまづゐしん)、 小西行長(こにしゆきなが)、 宇喜多秀家(うきたひでいへ)と云ふような順序(じゆんじよ)で夜(よ)に乗(ぜう)じて敵(てき)の耳(じ)        目(もく)を避(さ)け関(せき)ヶ原(はら)に向(むか)つて行進(こうしん)したのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)とは其(その)間(あひだ)僅(わづか)に五十 余町(よてう)を距(へだ)て       ゝ一は中山道(なかせんどう)に当(あた)り一は伊勢(いせ)に通(つう)ずる街道(かいどう)に当(あた)つて居(を)るのであるが此(この)両路(れうみち)は西方(せいはう)垂井(たるい)に至(いた)つて相合(あひがつ)し       て居(を)るのであるそれから又(ま)た僅(わづか)に西して関(せき)ヶ原(はら)に至(いた)ると路(みち)は北国街道(ほくこくかいどう)と中山道(なかせんどう)とに分(わか)るゝのであるか       ら此(この)間(あひだ)と云ふものは最(もつと)も要衝(ようせう)の地(ち)と相成(あひな)つて居(を)るのである且(か)つ垂井(たるい)の南方(なんぱう)にある南宮山(なんぐうさん)には既(すで)に毛利(もうり)        秀元(ひでもと)、 長宗我部盛親(ちようそがべもりちか)、 安国寺恵瓊(あんこくじゑけい)、 長束正家(ながつかまさいへ)、吉川広家(よしかはひろいへ)などが屯(たむろ)して居(を)り又(ま)た関(せき)ヶ原(はら)の西南(せいなん)に当(あた)る松(まつ)        尾山(をやま)には小早川秀秋(こはやかはひであき)が屯(たむろ)して居(を)るので三成(みつなり)等(ら)は十五日の午前一時から五時 頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に此(この)関(せき)ヶ原(はら)に到着(たうちやく)       して中山道(なかせんどう)と北国街道(ほくこくかいどう)との衝路(せうろ)に当(あた)つて陣(ぢん)したのであるが三成(みつなり)の隊(たい)と最左翼(さいさよく)に島津(しまづ)、 小西(こにし)、 宇喜多(うきた)と 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十二 【本文】 をして譜代の将士およそ三万八千余人を率いて東山道から西上させることとしたので、秀忠は八月二十四日既に宇都宮から直ちに信濃に向かったのである。すなわちこれには大久保忠隣、本多正信、酒井家次、奥平家昌、菅沼忠政、牧野康成(右馬允)、戸田一西を初めとして、三河以来徳川氏のために忠勤を抜きん出た人々は多くこれに従ったのであるが、これが先鋒としては榊原康政がその任に当たったのである。 しかるに家康の方は前に申し述べた通り九月朔日に江戸を発して東海道を上り、この吉田を八日に通過して十一日清洲に入り、十四日赤坂に到着して初めて金扇馬標を岡山の営に立てたのであるが、秀忠は遂にこの期に遅れてまだ到着するに至らなかったのである。 それはどういう訳であるかというに、ご承知の如く信州上田の城主真田昌幸並びにその二男幸村は西軍に応ずることとなったので、その居城上田に拠ってこの秀忠の一行を拒むだのである。もっとも秀忠においても家康の江戸出発を知ったならばどう都合しても前進したのであった事と思うが、この家康の通報をもたらした使者が秋雨のために遅延してようやく九日に至って秀忠の許に達した次第であったから、それまでは秀忠においても家康の方の消息が分からなかった為にうんうん上田の城攻めに時日を費やしたような訳であったのである。 ここに少し御話しして置きたいと思うのは、この真田氏の事であるが、それがずっと以前に武田氏に属していた時分の関係などは既に屡々申し述べた如くで諸君もよくご承知の事であると思うから、ここには略するが、この昌幸には信幸、幸村の二子があって当時信幸は上州沼田の城にいたのである。 ところがこの信幸は今まで頗る徳川氏の世話になっているのみならず、その妻は本多忠勝の娘で家康の養女として嫁したものである。それ故に最初三成から兵を挙げるの報知を得た時に、昌幸はその二子に向かって向背を選ばせたのであるが、信幸は東軍につくと請い、幸村は西軍につくと願ったので、昌幸は双方共にその願意を許して己は幸村を伴って西軍に属した次第で、言わば親子兄弟が敵と味方とに分かれた訳であるが、この時信幸 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十一号附録(明治四十年一月十六日発行) 【本文】 は秀忠に属して攻城軍の中にあったのである。そこで話は前に戻って家康の方であるが、前にも申し述べた如く九月十四日に家康は赤坂に着して岡山の上に陣を取ったが、更に諸将を会して謀議を凝らしたのである。 この時池田輝政と井伊直政とは急に大垣城を攻め取るべしという論者であったが、福島正則と本多忠勝とは先ず大坂に上って毛利輝元と決戦して諸将の質を復すべしという論者であった。しかるに家康は一隊をもって大垣に当たらせ、その余の大部隊をして進んで佐和山を屠り大坂に向かうべきことを命したので、直ちにその用意に取りかかったのであるが、この夕大垣と赤坂との間にある株瀬川という河の辺で両軍の小衝突があったのである。 これには西軍の方が何分かの勝利とも言うべき結果を得たのであったが、その夜西軍では東軍の謀を偵知したので、これは捨てて置けぬということで遂にこれを関ヶ原で阻止することに決したのである。蓋しそれは全く家康の計略の嵌った訳で、東軍においては元よりそれを望んでいたのであるから、家康はわざわざその謀を西軍に知れるように言い触れさせたとのことである。 かくて西軍は福原長堯以上七千五百余人を大垣城に留めて、石田三成、島津惟新、小西行長、宇喜多秀家というような順序で夜に乗じて敵の耳目を避け、関ヶ原に向かって行進したのであるが、ご承知の通り大垣と赤坂とはその間僅かに五十余町を隔てて、一は中山道に当たり一は伊勢に通ずる街道に当たっているのであるが、この両路は西方垂井に至って相合しているのである。 それからまた僅かに西して関ヶ原に至ると路は北国街道と中山道とに分かれるのであるから、この間というものは最も要衝の地と相成っているのである。且つ垂井の南方にある南宮山には既に毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、吉川広家などが屯していて、また関ヶ原の西南に当たる松尾山には小早川秀秋が屯しているので、三成等は十五日の午前一時から五時頃までの間にこの関ヶ原に到着して中山道と北国街道との衝路に当たって陣したのであるが、三成の隊と最左翼に島津、小西、宇喜多と 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十三

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 192 [Main Text] He ordered Hidetada to lead about 38,000 hereditary retainers westward via the Tosando route. So on the 24th day of the 8th month, Hidetada had already departed directly from Utsunomiya toward Shinano. With him were Okubo Tadachika, Honda Masanobu, Sakai Ietsugu, Okudaira Iemasa, Suganuma Tadamasa, Makino Yasunobu (Umanosuke), Toda Kazuaki, and many others who had served the Tokugawa clan with distinguished loyalty since the Mikawa days. Sakakibara Yasumasa served as the vanguard commander. However, as previously mentioned, Ieyasu departed Edo on the 1st day of the 9th month, traveled up the Tokaido, passed through this Yoshida on the 8th day, entered Kiyosu on the 11th, arrived at Akasaka on the 14th, and first planted his golden fan standard at the Okayama camp. But Hidetada was delayed and had not yet arrived. The reason for this was that, as you know, Sanada Masayuki, lord of Ueda Castle in Shinano, and his second son Yukimura had decided to support the western army, and they held their castle at Ueda to block Hidetada's advance. Certainly, if Hidetada had known of Ieyasu's departure from Edo, he would have advanced by any means necessary, but the messenger bringing news of Ieyasu's departure was delayed by autumn rains and only reached Hidetada on the 9th day. Until then, Hidetada had no news of Ieyasu's situation and spent considerable time besieging Ueda Castle. I would like to briefly discuss the Sanada clan here. Their earlier relationship when they served the Takeda clan has been mentioned many times before, as you well know, so I will omit it here. Masayuki had two sons, Nobuyuki and Yukimura, and at that time Nobuyuki was at Numata Castle in Joshu. Now, this Nobuyuki had received considerable favor from the Tokugawa clan, and moreover his wife was Honda Tadakatsu's daughter who had married him as Ieyasu's adopted daughter. Therefore, when Masayuki first received word from Mitsunari about raising an army, he let his two sons choose their allegiance. Nobuyuki requested to join the eastern army while Yukimura wished to join the western army. Masayuki allowed both their wishes, and he himself joined the western army with Yukimura. Thus father and sons, brothers became enemies and allies, but at this time Nobuyuki [Left Page] [Header] San'yo Newspaper No. 3,961 Supplement (Published January 16, 1907) [Main Text] belonged to Hidetada and was among the besieging army. Now returning to the story of Ieyasu, as mentioned before, on September 14th Ieyasu arrived at Akasaka and established his camp on Okayama, then gathered his generals for strategic discussions. At this time, Ikeda Terumasa and Ii Naomasa argued for immediately attacking and capturing Ogaki Castle, while Fukushima Masanori and Honda Tadakatsu argued for first advancing to Osaka to fight a decisive battle with Mori Terumoto and recover the hostages. However, Ieyasu ordered one unit to deal with Ogaki while the main force would advance to destroy Sawayama and head toward Osaka. They immediately began preparations, but that evening there was a small clash between the two armies near the Kabuse River between Ogaki and Akasaka. In this encounter, the western army achieved what could be called a partial victory. That night, the western army learned of the eastern army's plans and decided they could not ignore this, so they resolved to block them at Sekigahara. This fell completely into Ieyasu's strategic trap, as the eastern army had hoped for this from the beginning. It is said that Ieyasu deliberately let word of his plans leak to the western army. Thus the western army left Fukuhara Nagataka and 7,500 men at Ogaki Castle, and in the order of Ishida Mitsunari, Shimazu Yoshihiro, Konishi Yukinaga, and Ukita Hideie, they marched toward Sekigahara under cover of night to avoid enemy detection. As you know, Ogaki and Akasaka are separated by only about fifty cho, one located on the Nakasendo and the other on the road leading to Ise, but these two routes converge westward at Tarui. From there, going slightly west to Sekigahara, the road divides into the Hokuriku Highway and the Nakasendo, making this area a crucial strategic point. Moreover, at Nangū-san south of Tarui, Mori Hidemoto, Chosokabe Morichika, Ankokuji Ekei, Nagatsuka Masaie, and Kikkawa Hiroie were already encamped, and at Matsuo-yama southwest of Sekigahara, Kobayakawa Hideaki was stationed. Mitsunari and his forces arrived at Sekigahara between 1 and 5 AM on the 15th and took position at the junction of the Nakasendo and Hokuriku Highway, with Mitsunari's unit and on the far left wing Shimazu, Konishi, and Ukita... [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 193