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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 111

ページ: 111

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十四 【本文】       云ふように相並(あひなら)むだのである而(しか)して其(その)右(みぎ)には大谷吉継(おほたによしつぐ)等(ら)が来(きた)つて陣(ぢん)し又(また)其(その)右翼(うよく)に連(つらな)り斜(なゝめ)に松尾山(まつをやま)の麓(ふもと)       に方(あた)つて脇坂安治(わきさかやすはる)、 朽木元網(くちきもとつな)等(ら)が陣(ぢん)したのである然(しか)るに東軍の方(はう)でも逸早(いちはや)く此(この)模様(もよう)を偵知(ていち)したので家(いへ)        康(やす)は時機(じき)の到来(とうらい)を喜(よろこ)むで蹶起(けつき)して出発(しゆつぱつ)を命(めい)じたのであるが此(この)時(とき)福島正則(ふくしままさのり)と黒田長政(くろだながまさ)とは其(その)先鋒(せんぽう)となつ 東軍の進撃 たのである即(すなは)ち福島(ふくしま)の隊(たい)は真先(まつさき)に関(せき)ヶ原(はら)に進(すゝ)むでだのであるが此(この)朝(あさ)は細雨(さいう)尚(なほ)止(や)まず霧(きり)が深(ふか)かつたので黎(れい)        明駅中(めいえきちう)に於(おい)て敵(てき)の最後部隊(さいこうぶたい)と相遇(あひあ)つても咫尺(しせき)をも弁(べん)せぬと云ふような訳(わけ)であつたが両隊(れうたい)相(あひ)混乱(こんらん)して双(そう)        方(はう)共(とも)に驚(おどろ)いたといふことであるソコで東軍は黒田長政(くろだながまさ)を最右翼(さいうよく)として細川忠興(ほそかはたゞおき)、 加藤嘉明(かとうよしあき)、 田中吉政(たなかよしまさ)、        筒井定次(つゝゐさだつぐ)、 松平忠吉(まつだひらたゞよし)、 井伊直正(いゐなをまさ)と云ふような順序(じゆんじよ)で駅(えき)の北方(ほくはう)に陣(ぢん)して敵陣(てきぢん)と相対(あひたい)し金森長近(かねもりながちか)、 生駒一(いこまかづ)        正(まさ)等(ら)は其(その)後(あと)に陣(ぢん)したが藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高知(きようごくたかとも)等(ら)は駅(えき)の南方(なんはう)にあつて松尾山(まつをやま)の敵(てき)と対(たい)し独(ひと)り福島正則(ふくしままさのり)は進(すゝ) 桃配山   むで松尾山麓(まつをさんろく)から宇喜多(うきた)の陣(ぢん)へ迫(せま)つて陣取(ぢんど)つたのである其(その)内(うち)に家康(いへやす)も麾下(きか)を率(ひき)ゐて関(せき)ヶ原(はら)の東方(とうはう)桃配(もゝくばり)        山(やま)に陣(ぢん)を取(と)つたと云ふ次第(しだい)であるが此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は浅野幸長(あさゆきなが)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に初(はじ)め大垣城(おほがきじよう)に当(あた)る筈(はづ) 《割書:輝政南宮山|の敵に備ふ》  であつたが転(てん)じて家康(いへやす)の後方(こうはう)に連絡(れんらく)して垂井駅(たるいえき)の西南(せいなん)に陣(ぢん)し専(もつぱ)ら南宮山(なんぐうさん)の敵(てき)に備(そな)へたのであるモツト       モ此(この)時(とき)も輝政(てるまさ)は切(しき)りに其(その)先鋒(せんぽう)たらむことを請(こ)つたのであるか家康(いへやす)は諭(さと)して此(この)衝(せう)に置(お)いたとの事であるサ       テ戦端(せんたん)ハイヨ〳〵午前七時 過(すぎ)に至(いた)つて先方(せんはう)に初(はじ)まつたのであるが最初(さいしよ)は井伊直政(ゐいなをまさ)が松平忠吉(まつだひらたゞよし)を輔(たす)けて       宇喜多(うきた)の陣(ぢん)に当(あた)り福島正則(ふくしままさのり)も亦(ま)た同様(どうよう)宇喜多(うきた)隊(たい)を攻撃(こうげき)したのであるが続(つゞ)いて藤堂(とうどう)、 京極(きようごく)の隊(たい)は大谷(おほたに)の        陣(ぢん)を攻(せ)め細川(ほそかは)、加藤(かとう)等(ら)の後方(こうはう)に陣(ぢん)して居(を)つた織田有楽(をたゆうらく)、 古田重勝(ふるたしげかつ)、 佐久間安政(さくまやすまさ)等(ら)の諸将(しよせう)は小西(こにし)の隊(たい)に        向(むか)ひ黒田(くろだ)は勿論(もちろん)田中(たなか)、 細川(ほそかは)、 加藤(かとう)、 金森(かねもり)、 生駒(いこま)等(ら)の諸隊(しよたい)は孰(いづ)れも石田隊(いしだたい)に向(むか)つたのであるかくて戦闘(せんたう) 両軍の決戦 は漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたが西軍(せいぐん)も中々(なか〳〵)能(よ)く戦(たゝか)つて容易(ようい)に勝敗(せうはい)は決(けつ)せられぬソコで家康(いへやす)は午前九時 過(すぎ)に至(いた)つ       て本隊(ほんたい)を進(すゝ)めて駅(えき)の東口(ひがしぐち)に至(いた)つたが其(その)時(とき)本多忠勝(ほんだたゞかつ)は後部(こうぶ)にあつたので自(みづか)ら請(こ)つて前進(ぜんしん)し遂(つひ)に小西(こにし)、宇(う) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        喜多(きた)両隊(れうたい)と戦(たゝか)つて之(これ)を挫(くじ)き更(さら)に島津(しまづ)の前隊(ぜんたい)に向(むか)つたのである然(しか)るに尚(な)ほ勝敗(せうはい)は容易(ようい)に決(けつ)せぬので西軍       の方(はう)でも烽火(ほうか)を挙(あ)げて松尾(まつを)、 南宮(なんぐう)両山(れうさん)の諸隊(しよたい)に下撃(かげき)を促(うなが)したが応(おう)じないトコロで早(は)や正午(せうご)にも近(ちか)づく 《割書:小早川秀秋|の応援》  ようになつたので東軍(とうぐん)の方(はう)からも切(しき)りに秀秋(ひであき)の応援(おうゑん)を促(うなが)したのである元来(がんらい)小早川秀秋(こはやかはひであき)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の如(ごと)く最初(さいしよ)から欵(かん)を家康(いへやす)に通(つう)じて居(を)つたのであるモツトモ伏見城(ふしみじよう)の攻撃(こうげき)には余義(よぎ)なく西軍に加(くは)はつた       が其(その)時(とき)とても種々(しゆ〳〵)に苦心(くしん)をした事実(じじつ)があるのである殊(こと)に今度(このたび)は屡々(しば〳〵)東軍と連絡(れんらく)を通(つう)じて東軍からは内(ない)        内(ない)奥平貞治(おくだひらさだはる)を松尾山(まつをやま)の陣(ぢん)へ遣(や)つてあつた位(くらゐ)であるから此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に西軍に対(たい)し公然(こうぜん)叛旗(はんき)を翻(ひるがへ)す事       となつて忽(たちま)ち山(やま)を馳(は)せ下(くだ)り直(たゞ)ちに大谷(おほたに)の陣(ぢん)に向(むか)つて突撃(とつげき)するに至(いた)つたのである結局(けつきよく)之(これ)が西軍 敗北(はいぼく)の        動機(どうき)となつたので家康(いへやす)は即(すなは)ち麾下(きか)を放(はな)つて総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じたのであるが西軍は果(はた)して支離滅裂(しりめつれつ)となつて        其(その)諸将(しよせう)は或(あるひ)は死(し)に或(あるひ)は逃(にげ)るゝに至(いた)つたのである独(ひと)り島津惟新(しまづゐしん)は最後(さいご)まで踏(ふ)み止(とゞま)つたが遂(つひ)に支(さゝ)ふることが        出来(でき)ぬようになつたので東軍を突(つ)き切(き)つて牧田路(まきたぢ)から逃(のが)れたのであるが福島(ふくしま)、 小早川(こはやかは)、井伊(ゐい)、 本多(ほんだ)諸(しよ)        隊(たい)の追撃(つひげき)に遭(あ)つて其(その)子(こ)豊久(とよひさ)は戦死(せんし)したのであるソコで南宮山(なんぐうさん)の西軍も戦(たゝか)はずして退却(たいきやく)するに至(いた)つたの       であるが先(ま)づ関(せき)ヶ原(はら)戦争(せんそう)の大体(だいたい)は右(みぎ)申述(もうしの)べたような訳(わけ)で終(をは)つたのである而(しか)も此(この)時(とき)両軍(れうぐん)の兵力(へいりよく)から云へ       ば初(はじ)め西軍は総勢(そうぜい)七万九千余人 東軍(とうぐん)七万人 許(ばかり)であるから其(その)点(てん)は西軍が優勢(ゆうせい)な訳(わけ)であつたが如何(いかん)せむ 《割書:西軍の不統|一》  西軍には統(とう)一 者(しや)がない三成(みつなり)は云はゞ謀主(ぼうしゆ)ではあるが参謀(さんぼう)の位置(ゐち)で総指揮者(そうしきしや)としてはまだ貫目(くわんめ)が足(た)らむ       のであるトコロが東軍は之(これ)に反(はん)して家康(いへやす)がシツカリと之(これ)を統(とう)一して居(を)る其(その)本隊(ほんたい)を扣(ひか)へて敢(あへ)て動(うご)かず前(ぜん)        隊(たい)の戦期(せんき)が熟(じゆく)した処(ところ)で先(ま)づ秀秋(ひであき)の去就(きよじゆう)を試(こゝろ)みイヨ〳〵敵軍(てきぐん)にはモウ後続部隊(こうぞくぶたい)がないと云ふのを見(み)るや        否(いな)直(たゞ)ちに麾下(きか)の総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じた処などは私(わたくし)共(ども)少(すこ)しも戦術(せんじゆつ)を知(し)らぬ者(もの)にも何(なん)となく其(その)整(とゝの)つて居(を)る様子(ようす)       が分(わか)るのである特(とく)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く東軍には秀秋(ひであき)は勿論(もちろん)毛利秀元(もうりひでもと)の一 類(るい)たる吉川(よしかは)、 福原(ふくはら)の如(ごと)き内応者(ないおうしや)が 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十四 【本文】 というように相並んでいたのである。そしてその右には大谷吉継等が来て陣し、またその右翼に連なり斜めに松尾山の麓に方たって脇坂安治、朽木元綱等が陣したのである。 しかるに東軍の方でも逸早くこの模様を偵知したので、家康は時機の到来を喜んで蹶起して出発を命じたのであるが、この時福島正則と黒田長政とがその先鋒となったのである。すなわち福島の隊は真先に関ヶ原に進んでいったのであるが、この朝は細雨なお止まず霧が深かったので、黎明頃において敵の最後部隊と相遇っても咫尺をも弁せぬというような訳であったが、両隊相混乱して双方共に驚いたということである。 そこで東軍は黒田長政を最右翼として細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、松平忠吉、井伊直政というような順序で駅の北方に陣して敵陣と相対し、金森長近、生駒一正等はその後に陣したが、藤堂高虎、京極高知等は駅の南方にあって松尾山の敵と対し、独り福島正則は進んで松尾山麓から宇喜多の陣へ迫って陣取ったのである。 その内に家康も麾下を率いて関ヶ原の東方桃配山に陣を取ったという次第であるが、この時池田輝政は浅野幸長、本多忠勝等と共に初め大垣城に当たる筈であったが、転じて家康の後方に連絡して垂井駅の西南に陣し、専ら南宮山の敵に備えたのである。もっともこの時も輝政は切にその先鋒たらんことを請うたのであるが、家康は諭してこの要衝に置いたとのことである。 さて戦端はいよいよ午前七時過ぎに至って先方に始まったのであるが、最初は井伊直政が松平忠吉を輔けて宇喜多の陣に当たり、福島正則もまた同様宇喜多隊を攻撃したのであるが、続いて藤堂、京極の隊は大谷の陣を攻め、細川、加藤等の後方に陣していた織田有楽、古田重勝、佐久間安政等の諸将は小西の隊に向かい、黒田は勿論田中、細川、加藤、金森、生駒等の諸隊はいずれも石田隊に向かったのである。 かくて戦闘は漸く激烈となったが、西軍も中々よく戦って容易に勝敗は決せられぬ。そこで家康は午前九時過ぎに至って本隊を進めて駅の東口に至ったが、その時本多忠勝は後部にあったので自ら請うて前進し、遂に小西、宇 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際し[以下不明] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 喜多両隊と戦ってこれを挫き、更に島津の前隊に向かったのである。しかるになお勝敗は容易に決せぬので、西軍の方でも烽火を挙げて松尾、南宮両山の諸隊に下撃を促したが応じない。 ところで早や正午にも近づくようになったので、東軍の方からも切に秀秋の応援を促したのである。元来小早川秀秋は諸君もご承知の如く最初から款を家康に通じていたのである。もっとも伏見城の攻撃には余儀なく西軍に加わったが、その時とても種々に苦心した事実があるのである。 殊に今度は屡々東軍と連絡を通じて、東軍からは内々奥平貞治を松尾山の陣へ遣ってあった位であるから、ここに至って遂に西軍に対し公然叛旗を翻すこととなって、忽ち山を馳せ下り直ちに大谷の陣に向かって突撃するに至ったのである。 結局これが西軍敗北の動機となったので、家康は即ち麾下を放って総攻撃を命じたのであるが、西軍は果して支離滅裂となってその諸将は或いは死に或いは逃れるに至ったのである。 独り島津惟新は最後まで踏み留まったが、遂に支えることができなくなったので東軍を突き切って牧田路から逃れたのであるが、福島、小早川、井伊、本多諸隊の追撃に遭ってその子豊久は戦死したのである。 そこで南宮山の西軍も戦わずして退却するに至ったのであるが、先ず関ヶ原戦争の大体は右申し述べたような訳で終わったのである。 而もこの時両軍の兵力から言えば、初め西軍は総勢七万九千余人、東軍七万人許りであるから、その点は西軍が優勢な訳であったが、如何せん西軍には統一者がない。三成は言わば謀主ではあるが参謀の位置で、総指揮者としてはまだ貫目が足らぬのである。 ところが東軍はこれに反して家康がしっかりとこれを統一している。その本隊を控えて敢て動かず、前隊の戦機が熟した処で先ず秀秋の去就を試み、いよいよ敵軍にはもう後続部隊がないというのを見るや否、直ちに麾下の総攻撃を命じた処などは、私共少しも戦術を知らぬ者にも何となくその整っている様子が分かるのである。 特にご承知の如く東軍には秀秋は勿論、毛利秀元の一類たる吉川、福原の如き内応者が 【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十五

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 194 [Main Text] were arranged in this manner side by side. To their right, Otani Yoshitsugu and others came and took position, and further connecting to the right wing, positioned diagonally toward the foot of Mount Matsuo, Wakizaka Yasuharu, Kuchiki Motosuna and others established their positions. However, the eastern army also quickly detected this situation, so Ieyasu rejoiced at the arrival of the opportune moment and ordered departure. At this time, Fukushima Masanori and Kuroda Nagamasa served as the vanguard. Fukushima's unit advanced first toward Sekigahara, but this morning the light rain had not yet stopped and the fog was deep, so at dawn when they encountered the enemy's rear units, they could not distinguish even close distances. Both forces became confused and both sides were startled. Therefore, the eastern army positioned Kuroda Nagamasa on the far right, followed in order by Hosokawa Tadaoki, Kato Yoshiaki, Tanaka Yoshimasa, Tsutsui Sadatsugu, Matsudaira Tadayoshi, and Ii Naomasa, taking positions north of the station facing the enemy lines. Kanamori Nagachika, Ikoma Kazumasa and others positioned themselves behind them, while Todo Takatoraand Kyogoku Takatomo positioned themselves south of the station facing the enemies on Mount Matsuo. Only Fukushima Masanori advanced from the foot of Mount Matsuo toward Ukita's position and established his camp there. Meanwhile, Ieyasu also led his direct retainers to establish camp at Mount Momokubari east of Sekigahara. At this time, Ikeda Terumasa was originally supposed to deal with Ogaki Castle together with Asano Yoshinaga, Honda Tadakatsu and others, but instead he changed position to connect with Ieyasu's rear, establishing camp southwest of Tarui Station, specifically preparing against enemies on Mount Nangu. Even at this time, Terumasa earnestly requested to serve as vanguard, but Ieyasu persuaded him and placed him at this strategic point. Now the battle finally began past 7 AM in the morning. Initially, Ii Naomasa assisted Matsudaira Tadayoshi in engaging Ukita's position, and Fukushima Masanori similarly attacked Ukita's forces. Subsequently, Todo and Kyogoku's units attacked Otani's position, while generals including Oda Uraku, Furuta Shigekatsu, and Sakuma Yasumasa, who were positioned behind Hosokawa and Kato, moved against Konishi's unit. Kuroda, of course, along with Tanaka, Hosokawa, Kato, Kanamori, Ikoma and other units all moved against Ishida's forces. Thus the battle gradually became fierce, but the western army also fought quite well, making it difficult to determine victory easily. Therefore, past 9 AM, Ieyasu advanced his main force to the eastern entrance of the station. At that time, Honda Tadakatsu was in the rear, so he requested permission to advance and finally engaged with both Konishi and Uki- [Header] Mayor of Toyohashi, Mr. Oguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the draft is nearly complete... [text unclear] [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (Tuesday) and presented to readers of the Sanyo Newspaper [Main Text] -ta's forces, defeating them, then moved against Shimazu's front units. However, victory was still not easily decided, so the western army also raised beacon fires to urge the units on both Mount Matsuo and Mount Nangu to attack downward, but they did not respond. As it was already approaching noon, the eastern army also urgently urged Hideaki's support. Originally, as you all know, Kobayakawa Hideaki had been in secret communication with Ieyasu from the beginning. Although he was compelled to join the western army in attacking Fushimi Castle, even then there are facts showing his various struggles with the situation. Especially this time, he had frequently maintained contact with the eastern army, and the eastern army had even secretly sent Okudaira Sadaharu to his camp on Mount Matsuo. Therefore, at this point he finally openly raised the banner of rebellion against the western army, immediately charging down the mountain and launching a sudden attack directly against Otani's position. This ultimately became the catalyst for the western army's defeat, so Ieyasu immediately released his direct retainers and ordered a general attack. The western army indeed became scattered and fragmented, with its generals either dying or fleeing. Only Shimazu Yoshihiro held his ground until the end, but finally unable to maintain his position, he broke through the eastern army and escaped via the Makita route. However, under pursuit by the forces of Fukushima, Kobayakawa, Ii, and Honda, his son Toyohisa was killed in battle. Consequently, the western army on Mount Nangu also retreated without fighting, and thus the general course of the Battle of Sekigahara ended as described above. Moreover, regarding the military strength of both armies at this time, initially the western army had a total force of about 79,000 men while the eastern army had about 70,000, so in that respect the western army was superior. However, the western army lacked unified command. Mitsunari was, so to speak, the chief strategist but in the position of staff officer, lacking sufficient authority as supreme commander. In contrast, the eastern army had Ieyasu firmly unifying command. He held back his main force without moving rashly, and when the fighting opportunity matured for his advance units, he first tested Hideaki's allegiance, and as soon as he saw that the enemy army had no more reinforcing units, he immediately ordered his forces to launch a general attack. Even those of us who know nothing about military tactics can somehow sense the orderly nature of his approach. Particularly, as you know, the eastern army had not only Hideaki but also collaborators like Kikkawa and Fukuhara, who were related to Mori Hidemoto, [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 195