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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 112

ページ: 112

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【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十附録 【本文】       あつたので之(これ)等(ら)から見(み)れば西軍の敗(やぶ)れたのは誠(まこと)に余義(よぎ)なき次第(しだい)であると思(おも)ふのであるサテ此(かく)の如(ごと)く西 《割書:佐和山城攻|略》  軍は遂(つひ)に大敗(たいはい)したが家康(いへやす)はスカサず小早川秀秋(こはやかはひであき)等(ら)をして佐和山(さわやま)の城(しろ)を攻取(せめとら)せしめ又(ま)た一 方(はう)には正則(まさのり)、        長政(ながまさ)等(ら)をして書(しよ)を大坂(おほさか)の毛利輝元(もうりてるもと)に贈(おく)らしめて其(その)意(い)を通(つう)せむとし自(みづか)らも廿日に大津(おほつ)まで進(すゝ)むで秀頼(ひでより)母(ぼ) 《割書:秀忠草津に|着す》   子(し)に申通(もうしつう)ずる処(ところ)があつたが此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は草津(くさつ)に到着(たうちやく)したので東軍の兵威(へいゐ)は益々(ます〳〵)強盛(きようせい)となつた訳(わけ)である而(しか) 《割書:家康秀忠大|坂に入る》  も朝廷(てうてい)からは勅使(ちよくし)が下(くだ)ると云ふ次第(しだい)で家康(いへやす)の声望(せいぼう)は愈々(いよ〳〵)揚(あが)るここととなつたのであるが幸(さいはひ)に輝元(てるもと)が大坂(おほさか)       の西城(せいじよう)を明渡(あけわた)すこととなつたので廿七日 家康(いへやす)は之(これ)に入(い)つて秀忠(ひでたゞ)を二の丸(まる)に置(お)くこととなつたのである結局(けつきよく)        之(これ)で東軍は戦(たゝか)はずして克(よ)く大坂(おほさか)を占領(せんれう)した訳(わけ)となつたのであるが此(この)落着(らくちやく)を見(み)るに就(つい)て池田輝政(いけだてるまさ)は正則(まさのり)        長政(ながまさ)、 幸長(ゆきなが)、 高虎(たかとら)等(ら)と共(とも)に種々(しゆ〳〵)斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたのである        以上(いじよう)述(の)べたような次第(しだい)で大坂(おほさか)は東軍の勢力範囲(せいりよくはんゐ)となつたが此(こゝ)に至(いた)つては自然(しぜん)の勢(いきほひ)として天下(てんか)の実権(じつけん) 《割書:家康自ら賞|罰を行ふ》  は全(まつた)く家康(いへやす)に帰(き)せざるを得(え)ざる訳(わけ)で云はゞ当然(たうぜん)の結果(けつくわ)であるソコで家康(いへやす)は大(おほい)に諸将士(しよせうし)に対(たい)して賞罰(せうばつ)を        行(おこな)ひ三成(みつなり)、 行長(ゆきなが)、 恵瓊(えけい)等(ら)主謀者(しゆばうしや)の縛(ばく)に就(つ)いたものは之(これ)を誅(ちう)し其他(そのた)流刑(りうけい)褫封(ちほう)等(とう)に処(しよ)せられたものも少(すくな)く       なかつたのであるが一 方(はう)には又(ま)た九月廿七日の日から既(すで)に論功行賞(ろんこうぎうせう)の調査(ちようさ)にかゝつて十月十五日 其(その)大(だい) 《割書:輝政姫路五|十二万石に》   部分(ぶゞん)を発表(はつぴよう)したのである一々 之(これ)を申述(もうしの)ぶるのは繁雑(はんざつ)に亘(わた)るから此処(こゝ)には略(りやく)するが其(その)結果(けつくわ)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ) 《割書:移封せらる| 》  たる池田輝政(いけだてるまさ)は一 躍(やく)して五十二万石に封(ほう)せられ播磨(はりま)の姫路(ひめぢ)に移(うつ)ることとなつたのである即(すなは)ち前章(ぜんせう)にも申(もうし)        述(の)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は之(これ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つて姫路城(ひめぢじよう)の建築(けんちく)だの市街(しがい)の改正(かいせい)等(とう)を行(おこな)つたのであるか其(その)遺跡(ゐせき)は今(いま)       も尚(な)ほ其地(そのち)に見(み)るべきものがあるのである従(したがつ)て今(いま)数年間(すうねんかん)輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に居(を)つたならば前(まへ)に述(の)べた通(とほ)       り悟真寺(ごしんじ)の移転(いてん)を初(はじ)め市区(しく)の改正(かいせい)は余程(よほど)断行(だんこう)したものであつた事であると思(おも)ふが当市(たうし)の為(ため)には誠(まこと)に惜(おし)       い事をした次第(しだい)である尚(なほ)輝政(てるまさ)一 代(だい)の事に就而(ついて)は之(これ)から申述(もうしの)ぶべきことが多(おほ)いのであるが遺憾(ゐかん)ながら本市(ほんし) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十七号附録   (明治四十年一月廿三日発行) 【本文】        史(し)に関係(くわんけい)が少(すくな)いから之(これ)にて後(のち)の話(はなし)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのである而(しか)して其(その)後(のち)輝政(てるまさ)は慶長(けいてう)十八年正月廿五日 《割書:輝政の卒年|並に墳墓》   姫路(ひめぢ)に於(おい)て病(やん)で卒(そつ)し行年(ぎようねん)は五十歳 国清院泰叟玄高(こくせいゐんたいさうげんこう)と諡(おくな)して龍峯寺(りうほうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つたが後(のち)儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備(び)        前国(ぜんのくに)和気郡(わきごほり)敦土山(あつちやま)に改葬(かいそう)した事は之(これ)亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである今(いま)岡山(をかやま)にも鳥取(とつとり)にも国清寺(こくせいじ)と云ふ寺(てら) 国清寺   があるが之(これ)は後(のち)に至(いたつ)て輝政(てるまさ)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるは云ふまでもないが鳥取(とつとり)のは此(この)龍峯寺(りうほうじ)を姫(ひめ)        路(ぢ)から移転(いてん)したものであると伝(つた)へられてある             ⦿松平家清吉田に封せらる        前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)は関(せき)ヶ原(はら)に勝(か)つてそれより事実上(じじつぜう)に於(おい)て天下(てんか)の政権(せいけん)を一 身(しん)に握(にぎ)るに至(いた)       つたのであるが之(これ)は自然(しぜん)の情勢(ぜうせい)として当(まさ)に然(しか)るべきの事であつたのであるソコで家康(いへやす)が先(ま)づ第一の急(きう) 《割書:家康の諸侯|配置法》   務(む)としたのは天下(てんか)諸侯(しよこう)の配置(はいち)であつたが慶長(けいちよう)五年の十一月と同六年の二月とに於(おい)て自(みづか)ら関(せき)ヶ原(はら)役(えき)に関(くわん)       する賞罰(せうばつ)を行(おこな)ひ其(その)後(のち)も其(その)世臣(よしん)に増侯(ぞうこう)し又(また)は其(その)治城(ぢじよう)を更迭(こうてつ)した事が殆(ほとん)ど虚月(きよげつ)なき有様(ありさま)で翌(よく)七年に及(およ)んだ       のである而(しか)して此(この)家康(いへやす)の諸侯(しよこう)配置法(はいちはう)と云ふものは秀吉(ひでよし)の時代(じだい)に比(ひ)して更(さら)に一 層(そう)進歩(しんぽ)したとも云つてよ       いので頗(すこぶ)る巧妙(こうみよう)なものであつたのであるが先(ま)づ此(この)東海道(とうかいどう)と云ふものは己(おの)れの根拠地(こんきよち)たる江戸(えど)と京都(きようと)及(およ)       び大坂(おほさか)間(かん)を通(つう)ずる大切(たいせつ)の道筋(みちすぢ)であると云ふ処から之(これ)には悉(こと〳〵)く譜代(ふだい)の大名(だいみよう)を配置(はいち)して双方(さうほう)間(かん)の連絡(れんらく)を        保(たも)たしめ特(とく)に此(この)三 河地方(かはちはう)は己(おの)れの故国(ここく)であると云ふ処から一 層(そう)注意(ちうい)して其(その)世臣(せしん)を封(ほう)じたものと思(おも)はれ       る而(しか)も豊臣秀頼(とよとみひでより)の為(ため)には只(た)だ摂津(せつゝ)、 河内(かはち)、 和泉(いづみ)の内(うち)で凡(およ)そ六十五万七千四百石 許(ばかり)の知行(ちぎよう)を充(あ)てゝ其他(そのた)        諸国(しよこく)に旧来(きうらい)あつた処の御蔵入(おくらいり)と称(せう)する収入(しうにふ)は悉(こと〳〵)く江戸(えど)又(また)は諸侯(しよこう)の収入(しうにふ)となして豊臣氏(とよとみし)からは取(と)り去(さ)       つた訳(わけ)になつたのであるかくて家康(いへやす)は慶長(けいちよう)六年の三月 大坂(おほさか)を去(さつ)て伏見(ふしみ)に居(を)つたがそれよりは江戸(えど)大坂(おほさか) 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                    百九十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (関ヶ原役) 百九十附録 【本文】 あったので、これらから見れば西軍の敗れたのは誠に余儀なき次第であると思うのである。 さてこのように西軍は遂に大敗したが、家康は素早く小早川秀秋等をして佐和山の城を攻め取らせ、また一方には正則、長政等をして書を大坂の毛利輝元に贈らせてその意を通じようとし、自らも二十日に大津まで進んで秀頼母子に申し通ずるところがあった。この時秀忠は草津に到着したので、東軍の兵威は益々強盛となった訳である。 そして朝廷からは勅使が下るという次第で、家康の声望はいよいよ揚がることとなったのであるが、幸いに輝元が大坂の西城を明け渡すこととなったので、二十七日家康はこれに入って秀忠を二の丸に置くこととなったのである。 結局これで東軍は戦わずして良く大坂を占領した訳となったのであるが、この落着を見るについて池田輝政は正則、長政、幸長、高虎等と共に種々斡旋の労を取ったのである。 以上述べたような次第で大坂は東軍の勢力範囲となったが、ここに至っては自然の勢いとして天下の実権は全く家康に帰せざるを得ない訳で、言わば当然の結果である。 そこで家康は大いに諸将士に対して賞罰を行い、三成、行長、恵瓊等主謀者の縛に就いたものはこれを誅し、その他流刑、褫封等に処せられたものも少なくなかったのであるが、一方にはまた九月二十七日の日から既に論功行賞の調査にかかって、十月十五日その大部分を発表したのである。 一々これを申し述べるのは繁雑に亘るからここには略するが、その結果この吉田の城主たる池田輝政は一躍して五十二万石に封せられ、播磨の姫路に移ることとなったのである。即ち前章にも申し述べた如く、輝政はこれより姫路に移って姫路城の建築だの市街の改正等を行ったのであるが、その遺跡は今もなおその地に見るべきものがあるのである。 従って今数年間輝政がこの吉田にいたならば、前に述べた通り悟真寺の移転を初め市区の改正は余程断行したものであった事であると思うが、当市の為には誠に惜しい事をした次第である。 なお輝政一代の事について はこれから申し述べるべきことが多いのであるが、遺憾ながら本市 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十七号附録 (明治四十年一月二十三日発行) 【本文】 史に関係が少ないからこれにて後の話に移りたいと思うのである。 そしてその後輝政は慶長十八年正月二十五日姫路において病で卒し、行年は五十歳、国清院泰叟玄高と諡して龍峯寺という寺に葬ったが、後儒礼を以って備前国和気郡敦土山に改葬した事は、これまた前に申し述べた如くである。 今岡山にも鳥取にも国清寺という寺があるが、これは後に至って輝政菩提のために建立したものであることは言うまでもないが、鳥取のはこの龍峯寺を姫路から移転したものであると伝えられてある。 ⦿松平家清吉田に封せらる 前章に詳しく申し述べた如く、家康は関ヶ原に勝ってそれより事実上において天下の政権を一身に握るに至ったのであるが、これは自然の情勢として当に然るべきの事であったのである。 そこで家康が先ず第一の急務としたのは天下諸侯の配置であったが、慶長五年の十一月と同六年の二月とにおいて自ら関ヶ原役に関する賞罰を行い、その後もその世臣に増封し、またはその治城を更迭した事が殆ど虚月なき有様で翌七年に及んだのである。 そしてこの家康の諸侯配置法というものは、秀吉の時代に比して更に一層進歩したとも言ってよいので、頗る巧妙なものであったのであるが、先ずこの東海道というものは己れの根拠地たる江戸と京都及び大坂間を通ずる大切の道筋であるという処から、これには悉く譜代の大名を配置して双方間の連絡を保たしめ、特にこの三河地方は己れの故国であるという処から一層注意してその世臣を封じたものと思われる。 そして豊臣秀頼のためには只だ摂津、河内、和泉の内で凡そ六十五万七千四百石許りの知行を充ててその他諸国に旧来あった処の御蔵入と称する収入は悉く江戸または諸侯の収入となして、豊臣氏からは取り去った訳になったのである。 かくて家康は慶長六年の三月大坂を去って伏見にいたが、それよりは江戸大坂 【欄外】 豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十七

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (The Battle of Sekigahara) - 196 Appendix [Main Text] existed, so from these perspectives, the defeat of the western army was truly an inevitable matter. Now, although the western army was thus completely defeated, Ieyasu quickly had Kobayakawa Hideaki and others capture Sawayama Castle, and on the other hand, had Masanori, Nagamasa and others send letters to Mori Terumoto in Osaka to communicate his intentions. He himself also advanced to Otsu on the 20th to communicate with Hideyori's mother and child. At this time, Hidetada arrived at Kusatsu, so the military prestige of the eastern army became increasingly powerful. Moreover, imperial messengers were sent from the court, and Ieyasu's reputation rose even higher. Fortunately, Terumoto decided to surrender the western castle of Osaka, so on the 27th, Ieyasu entered it and placed Hidetada in the second bailey. Ultimately, the eastern army thus successfully occupied Osaka without fighting. In bringing about this settlement, Ikeda Terumasa, along with Masanori, Nagamasa, Yukinaga, Takatoraand others, undertook various mediating efforts. As described above, Osaka came under the eastern army's sphere of influence, and at this point, as a natural consequence, all real power in the realm inevitably fell to Ieyasu - this was, so to speak, an inevitable result. Therefore, Ieyasu greatly implemented rewards and punishments for the various generals and retainers. Those main conspirators like Mitsunari, Yukinaga, and Ekei who were captured were executed, and many others were subjected to exile, confiscation of domains, and other punishments. On the other hand, investigations for merit-based rewards began on September 27th, and the major portion was announced on October 15th. To describe each case individually would be too complex, so I will omit them here, but as a result, Ikeda Terumasa, lord of this Yoshida castle, was elevated at one stroke to 520,000 koku and transferred to Himeji in Harima Province. As mentioned in the previous chapter, Terumasa moved to Himeji and undertook construction of Himeji Castle and urban improvements, traces of which can still be seen in that area today. Therefore, if Terumasa had remained in this Yoshida for several more years, I believe that urban reforms, beginning with the relocation of Goshinjitemple as mentioned earlier, would have been carried out quite thoroughly. This was truly a regrettable loss for our city. Although there is much more that should be said about Terumasa's lifetime, unfortunately it has little relation to our city's [Left Page] [Header] Sanyo Newspaper No. 3967 Supplement (Published January 23, 1907) [Main Text] history, so I would like to move on to later events. Subsequently, Terumasa died of illness in Himeji on January 25th of Keicho 18 (1613) at the age of 50. He was given the posthumous name Kokuseiin Taisou Genko and buried at a temple called Ryuhojitemple, but was later reburied according to Confucian rites at Atsuchiyama in Wake District, Bizen Province, as mentioned earlier. Today there are temples called Kokuseijiin both Okayama and Tottori, which were obviously built later for Terumasa's spiritual benefit. The one in Tottori is said to be this Ryuhojitemple relocated from Himeji. ⦿Matsudaira Ieyasu is Enfeoffed at Yoshida As described in detail in the previous chapter, Ieyasu won at Sekigahara and thereafter came to hold all political power of the realm in his person in practical terms, which was a natural development given the circumstances. Therefore, Ieyasu's first urgent task was the positioning of the various lords throughout the realm. In November of Keicho 5 and February of Keicho 6, he personally implemented rewards and punishments related to the Sekigahara campaign, and thereafter continued increasing the domains of his hereditary retainers or transferring their castle holdings almost continuously through the following 7th year. This method of positioning lords by Ieyasu was even more advanced compared to Hideyoshi's era and was quite skillful. First, since the Tokaido was the vital route connecting his stronghold of Edo with Kyoto and Osaka, he positioned exclusively hereditary daimyo along it to maintain communication between both ends. Particularly for the Mikawa region, being his ancestral domain, he took special care in enfeoffing his hereditary retainers there. For Toyotomi Hideyori, he allocated only about 657,400 koku from within Settsu, Kawachi, and Izumi provinces, while all the income from what had traditionally been called "shogunal lands" in other provinces was transferred entirely to Edo or to the various lords, thus removing it from the Toyotomi clan. Thus Ieyasu left Osaka in March of Keicho 6 and resided in Fushimi, from where he [managed affairs between] Edo and Osaka. [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Matsudaira Ieyasu Enfeoffed at Yoshida) - 197