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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 113

ページ: 113

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【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                  百九十八 【本文】       の間(あひだ)を屡々(しば〳〵)往来(おうらい)して其(その)都度(つど)京都(きようと)にも立寄(たちよ)り頗(すこぶ)る朝廷(ちようてい)の優遇(ゆうぐん)を受(う)けたのである而(しか)して先(さ)きに申述(もうしの)べた如(ごと) 《割書:松平玄蕃頭|家清》  く池田輝政(いけだてるまさ)が此知(このち)から播州姫路(ばんしうひめぢ)へ栄転(えいてん)したのは慶長(けいてう)五年十一月の事であるが其跡(そのあと)へ封(ほう)ぜられて此(この)吉田(よしだ)       へ来(き)たのは即(すなは)ち松平玄蕃頭家清(まつだひらげんばのかみいへきよ)であつて之(これ)は慶長(けいてう)六年二月に発表(はつぴやう)されたのである此(この)家清(いへきよ)と云ふ人はズ       ツト先(さ)きに申述(もうしの)べて置(お)いた松平清善(まつだひらきよよし)の孫(まご)で父(ちゝ)は清宗(きよむね)と云ふ人であるが之(これ)も前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く天正十八       年 家康(いへやす)が関東(くわんとう)へ移封(いほう)せられた時に武蔵(むさし)の八 幡山(はたやま)一万石に封(ほう)せられたのであつたが今度(このたび)此(この)家清(いへきよ)は此地(このち)三       万石に封(ほう)せられたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから此(この)松平氏(まつだひらし)の為(ため)には勿論(もちろん)家康(いへやす)の政策上(せいさくぜう)から云つても之(これ)       は誠(まこと)によい事であつたに相違(さうゐ)ないが実(じつ)は我(わが)豊橋(とよはし)の発展上(はつてんぜう)から云ふと頗(すこぶ)る不幸(ふこう)な事で之(これ)迄(まで)十五万二千石 《割書:土地の発展|と藩主》  の池田輝政(いけだてるまさ)が種々(しゆ〳〵)に計割(けいくわく)を仕掛(しか)けて置(お)いた事も急(きふ)に此(この)小禄(せうろく)なる譜代(ふだい)の大名(だいみよう)に代(かは)つた為(ため)に一 頓(とん)        挫(ざ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるそれのみならず此(この)後(のち)藩主(はんしゆ)に交迭(こうてつ)はあつても其(その)方針(はうしん)と云ふものは先(ま)づ徳川(とくがは)三百       年 間(かん)変(かは)る処はなかつたのであるから独(ひと)り我(わが)豊橋(とよはし)のみでなく東海道(とうかいどう)の各城下(かくじようか)と云ふものは名古屋(なごや)駿府(すんぷ)位(ぐらゐ)       を除(のぞ)くの外(ほか)は何(いづ)れも同様(どうやう)の訳(わけ)で誠(まこと)に土地(とち)の発展(はつてん)をする上(うへ)から云ふと遂(つひ)に宜(よ)き機会(きくわい)を得(え)なかつたのであ       る之(これ)は今日(こんにち)から見(み)ると甚(はなは)だ不仕合(ふしあは)せな事であつたと信(しん)ずるのである 竹谷の松平 サテ此(この)家清(いへきよ)の家(いへ)と云ふのは所謂(いはゆる)竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)で其(その)祖(そ)は兼(かね)て申述(もうしの)べてある和泉入道信光(いづみにふどうのぶみつ)であるから結局(けつきよく)        徳川氏(とくがはし)とは其(その)系統(けいとう)を一にして居(を)る訳(わけ)であるが信光(のぶみつ)の二 男(なん)守家(もりいへ)から清喜(きよよし)に至(いた)るまで凡(およ)そ四 代(だい)の間(あひだ)は岡崎(をかざき)       の城(しろ)に居(を)つたのである然(しか)るに清喜(きよよし)の代(だい)になつて竹谷(たけのや)に移(うつ)つたので竹谷與二郎(たけのやよじらう)と名乗(なの)つたが其(その)娘(むすめ)は嘗(かつ)て        此(この)吉田城(よしだじよう)に人質(ひとじち)となつて居(を)つて家康(いへやす)が今川氏真(いまがはうぢさね)と絶縁(ぜつゑん)の時 小原鎮実(をはらしげさね)の為(ため)に龍拈寺(りうねんじ)口(ぐち)で惨殺(ざんさつ)せられた事       は之(これ)亦(また)既(すで)に其(その)時代(じだい)に於(おい)て申述(もうしの)べた如(ごと)くであるそれより此(この)清喜(きよよし)は益々(ます〳〵)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのであ       るが天正十五年に八十三歳で卒(そつ)し子(こ)の清宗(きよむね)が後(あと)を継(つ)ぎ之(これ)も戦功(せんこう)によつて遠江(とほとふみ)に所領(しよれう)を与(あた)へられたので 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ある其(その)後(のち)家清(いへきよ)は又(ま)た其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ父(ちゝ)清宗(きよむね)と共(とも)に駿河(するが)の興国寺城(こうこくじじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるが家康(いへやす)関東(くわんとう)移封(いほう)       に方(あた)つて前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り武蔵(むさし)の八幡山(やはたやま)一万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此(この)家清(いへきよ)も亦(ま)た初(はじめ)は與二(よじ) 《割書:家清武蔵八|幡山より吉》   郎(らう)と云つて屡々(しば〳〵)戦功(せんこう)があつたが関(せき)ヶ原(はら)役(えき)当時(とうじ)には尾張(をはり)の清洲城(きよすじよう)を守(まも)り今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて其(その)領(れう) 《割書:田に移封せ|らる》   地(ち)は従前(じうぜん)に三 倍(ばい)の三万石と相成(あひな)つた次第(しだい)である併(しか)し家清(いへきよ)も此(この)吉田(よしだ)に来(き)て見(み)れば兎(と)に角(かく)以前(いぜん)が十五万二       千石と云ふので池田輝政(いけだてるまさ)の城下(じようか)であつた事であるから直(たゞ)ちに新計画(しんけいくわく)をする必要(ひつよう)をも認(みと)めなかつた事で       あろうが又(ま)た余(あま)之(これ)をなしたと云ふ事績(じせき)も残(のこ)つて居(を)らぬように思(おも)ふのである従(したがつ)て遺憾(ゐかん)ながら此(こゝ)に申(もうし)        述(の)ぶる事も甚(はなは)だ少(すくな)き次第(しだい)である 《割書:家康征夷大|将軍に任せ》  サテ諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)は慶長(けいてう)八年二月十二日を以(もつ)てイヨ〳〵征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)せられ茲(こゝ)に名実共(めいじつとも) 《割書:らる   | 》  に天下(てんか)の政権(せいけん)を握(にぎ)る事となつたのである此(この)時(とき)家康(いへやす)は六十二歳であつたが其(その)十年四月に至(いた)つて軍職(ぐんしよく)を秀(ひで) 《割書:家康軍職を|秀忠に譲る》   忠(たゞ)に譲(ゆづ)らむことを奏請(さうせい)し勅許(ちよくきよ)を得(え)たのであるソコで自分(じぶん)は駿府城(すんぷじよう)の修築(しうちく)をして十二年七月を以(もつ)て之(これ)に        移(うつ)り秀忠(ひでたゞ)は江戸(えど)に居(を)つたのであるが家康(いへやす)は常(つね)に其(その)間(あひだ)を往来(おうらい)して将軍(せうぐん)の後見(こうけん)をして居(を)つたのであるかゝ 家清卒す  る有様(ありさま)で二三年を経過(けいくわ)したのであるが慶長(けいてう)十五年十二月廿一日に至(いた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)たる家清(いへきよ)は行年(ぎようねん) 《割書:松平玄蕃頭|清忠》  四十五歳で急(きふ)に病(や)むで卒(そつ)したのである即(すなは)ち其子(そのこ)の忠清(たゞきよ)が相続(さうぞく)したのであるが家清(いへきよ)の夫人(ふじん)と云ふのは家(いへ) 忠清卒す   康(やす)の同母妹(どうぼまい)で忠清(たゞきよ)は其出(そのしゆつ)であつたが此人(このひと)も亦(ま)た慶長(けいてう)十七年四月廿日を以(もつ)て相続後(さうぞくご)間(ま)もないのに卒去(そつきよ)せ       られたのである行年(ぎようねん)は僅(わづか)に廿八歳で不幸(ふこう)な事には男子(だんし)がなかつたので其家(そのいへ)は遂(つひ)に断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであ 松平清昌  る併(しか)し徳川家(とくがはけ)から特(とく)に其弟(そのおとゝ)庄次郎清昌(せうじらうきよまさ)に西郡(にしのごほり)五千石の地(ち)を与(あた)へて其(その)後(あと)を継(つ)がしめたのであるが此(この)事(こと)       に就(つい)ては慶長見聞書(けいてうけんぶんしよ)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある         松平民部少輔(まつだひらみんぶのせうゆ)《割書:忠|清》子(こ)なし跡目(あとめ)無之候間(これなくそろあひだ)弟(おとゝ)内記(ないき)せかれも御座候(ござそろ)又(また)民部(みんぶ)弟(おとゝ)松平庄次郎(まつだひらせうじらう)と申(もうし)て御書院番(ごしよゐんばん)仕(つかまつり) 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                  百九十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十八 【本文】 の間を度々往来して、その都度京都にも立ち寄り、頗る朝廷の優遇を受けたのである。そして先に申し述べた如く、池田輝政がこの地から播州姫路へ栄転したのは慶長五年十一月の事であるが、その跡へ封ぜられてこの吉田へ来たのは、即ち松平玄蕃頭家清であって、これは慶長六年二月に発表されたのである。 この家清という人は、ずっと先に申し述べて置いた松平清善の孫で、父は清宗という人であるが、これも前に申し述べた如く、天正十八年家康が関東へ移封された時に武蔵の八幡山一万石に封せられたのであったが、今度この家清はこの地三万石に封せられたのである。 このような訳であるから、この松平氏のためには勿論、家康の政策上から言っても、これは誠に良い事であったに相違ないが、実は我が豊橋の発展上から言うと頗る不幸な事で、これまで十五万二千石の池田輝政が種々に計画を仕掛けて置いた事も、急にこの小禄なる譜代の大名に代わった為に一頓挫と相成った次第である。 それのみならず、この後藩主に交代はあっても、その方針というものは先ず徳川三百年間変わる処はなかったのであるから、独り我が豊橋のみでなく、東海道の各城下というものは名古屋、駿府位を除くの外は何れも同様の訳で、誠に土地の発展をする上から言うと遂に良き機会を得なかったのである。これは今日から見ると甚だ不幸せな事であったと信ずるのである。 さてこの家清の家というのは、所謂竹谷の松平氏で、その祖は兼ねて申し述べてある和泉入道信光であるから、結局徳川氏とはその系統を一にしている訳であるが、信光の二男守家から清善に至るまで凡そ四代の間は岡崎の城にいたのである。 然るに清善の代になって竹谷に移ったので竹谷与二郎と名乗ったが、その娘は嘗てこの吉田城に人質となっていて、家康が今川氏真と絶縁の時、小原鎮実のために龍拈寺口で惨殺された事は、これまた既にその時代において申し述べた如くである。 それよりこの清善は益々徳川氏のために忠勤を尽くしたのであるが、天正十五年に八十三歳で卒し、子の清宗が後を継ぎ、これも戦功によって遠江に所領を与えられたので 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 ある。その後家清はまたその後を襲い、父清宗と共に駿河の興国寺城を守っていたのであるが、家康関東移封に当たって前にも申し述べた通り、武蔵の八幡山一万石に封せられたのである。 そしてこの家清もまた初めは与二郎と言って度々戦功があったが、関ヶ原役当時には尾張の清洲城を守り、今度この吉田に移封されてその領地は従前の三倍の三万石と相成った次第である。 併し家清もこの吉田に来て見れば、兎に角以前が十五万二千石ということで池田輝政の城下であった事であるから、直ちに新計画をする必要をも認めなかった事であろうが、また余りこれをなしたという事績も残っていないように思うのである。従って遺憾ながらここに申し述べる事も甚だ少ない次第である。 さて諸君も御承知の如く、家康は慶長八年二月十二日を以っていよいよ征夷大将軍に任せられ、ここに名実共に天下の政権を握る事となったのである。この時家康は六十二歳であったが、その十年四月に至って軍職を秀忠に譲らんことを奏請し、勅許を得たのである。 そこで自分は駿府城の修築をして十二年七月を以ってこれに移り、秀忠は江戸にいたのであるが、家康は常にその間を往来して将軍の後見をしていたのである。 かかる有様で二三年を経過したのであるが、慶長十五年十二月二十一日に至ってこの吉田の城主たる家清は行年四十五歳で急に病んで卒したのである。即ちその子の忠清が相続したのであるが、家清の夫人というのは家康の同母妹で、忠清はその出であったが、この人もまた慶長十七年四月二十日を以って相続後間もないのに卒去されたのである。 行年は僅かに二十八歳で、不幸な事には男子がなかったので、その家は遂に断絶に及んだのである。併し徳川家から特にその弟庄次郎清昌に西郡五千石の地を与えて、その後を継がしめたのであるが、この事については慶長見聞書の中に左の記事がある。 「松平民部少輔《忠清》子なし跡目無之候間、弟内記せがれも御座候、又民部弟松平庄次郎と申して御書院番仕 【欄外】 豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十九

英語訳

[Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Matsudaira Ieyasu Enfeoffed at Yoshida) - 198 [Main Text] traveled frequently between [Edo and Osaka], stopping in Kyoto each time and receiving considerable favor from the imperial court. As mentioned earlier, Ikeda Terumasa's promotion from this territory to Banshu Himeji occurred in November of Keicho 5, and the one who was enfeoffed in his place and came to this Yoshida was none other than Matsudaira Genba-no-kami Ieyasu, which was announced in February of Keicho 6. This Ieyasu was the grandson of Matsudaira Kiyoyoshi, whom I mentioned much earlier, and his father was a man named Kiyomune. As I mentioned before, when Ieyasu was transferred to the Kanto region in Tensho 18, he was enfeoffed with 10,000 koku at Hachimanyama in Musashi. This time, this Ieyasu was enfeoffed with 30,000 koku in this territory. For these reasons, this was undoubtedly a very good thing both for the Matsudaira family and from the perspective of Ieyasu's policies. However, from the standpoint of our Toyohashi's development, it was quite unfortunate, as the various plans that Ikeda Terumasa with his 152,000 koku had set in motion came to a sudden halt when he was replaced by this small-stipend hereditary daimyo. Moreover, even though there would be changes of domain lords thereafter, their policies remained essentially unchanged throughout the three hundred years of Tokugawa rule. Not only our Toyohashi, but all the castle towns along the Tokaido - except for places like Nagoya and Sunpu - were in the same situation, and truly never had good opportunities for territorial development. I believe this was quite an unfortunate matter from today's perspective. Now, this Ieyasu's house was the so-called Takenoya Matsudaira clan, whose ancestor was Izumi-nyudo Nobumitsu, whom I have mentioned before. Thus they ultimately shared the same lineage as the Tokugawa clan. From Nobumitsu's second son Moriie to Kiyoyoshi, for about four generations, they resided at Okazaki Castle. However, in Kiyoyoshi's generation, they moved to Takenoya and he took the name Takenoya Yojiro. His daughter had once been a hostage at this Yoshida Castle, and when Ieyasu broke with Imagawa Ujizane, she was brutally murdered by Obara Shigezane at the Ryunenji gate, as I have already described in that era. Thereafter, this Kiyoyoshi devoted himself increasingly to loyal service for the Tokugawa clan. He died in Tensho 15 at the age of eighty-three, and his son Kiyomune succeeded him. Kiyomune was also granted territory in Totomi for his military achievements, so [Header margin] Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete... [Left Page] [Header] This Toyohashi City Historical Discussion is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper [Main Text] Later, Ieyasu succeeded him and, together with his father Kiyomune, guarded Kokokuji Castle in Suruga. When Ieyasu was transferred to the Kanto region, as I mentioned before, he was enfeoffed with 10,000 koku at Hachimanyama in Musashi. This Ieyasu was also initially called Yojiro and had many military achievements. During the Battle of Sekigahara, he guarded Kiyosu Castle in Owari, and this time was transferred to this Yoshida, with his territory becoming 30,000 koku - three times his previous holding. However, when Ieyasu came to this Yoshida, since it had previously been 152,000 koku under Ikeda Terumasa's castle town, he probably did not recognize the need for immediate new planning, and it seems no significant achievements from such efforts remain. Therefore, regrettably, there is very little to describe here. Now, as you all know, Ieyasu was finally appointed Sei-i Taishogun on February 12th of Keicho 8, thus gaining control of the realm's political power in both name and reality. At this time Ieyasu was sixty-two years old, but in April of the 10th year, he petitioned to transfer his military position to Hidetada and received imperial permission. Therefore, he renovated Sunpu Castle and moved there in July of the 12th year, while Hidetada remained in Edo. Ieyasu frequently traveled between the two locations, serving as guardian to the shogun. After two or three years in this manner, on December 21st of Keicho 15, this lord of Yoshida, Ieyasu, suddenly fell ill and died at the age of forty-five. His son Tadakiyo succeeded him, but Ieyasu's wife was Ieyasu's half-sister, and Tadakiyo was their son. However, this person also died on April 20th of Keicho 17, shortly after succession. He was only twenty-eight years old, and unfortunately had no male heir, so his house was ultimately extinguished. However, the Tokugawa house specially granted his younger brother Shojiro Kiyomasa 5,000 koku in Nishi District to continue the line. Regarding this matter, there is the following record in the Keicho Kenbun-sho: "Matsudaira Minbu-shosuke [Tadakiyo] has no children and no heir. There is a younger brother named Naiki's son, and also Minbu's younger brother Matsudaira Shojiro who serves in the Gosho-inban..." [Header] Toyohashi City Historical Discussions - (Matsudaira Ieyasu Enfeoffed at Yoshida) - 199