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【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 二百二
【本文】
清 宗 《割書:與二郎玄蕃允|備後守》
家 清 《割書:與二郎玄蕃頭|従五位下》
清 定 《割書:内記|松平石見守貴強か祖》
忠 清 《割書:萬之助 民部大輔|玄蕃頭 従五位下》
女 子 本多豊後守康紀か室
女 子 松平主殿頭忠利か室
女 子 成田左馬助泰高か室
女 子 浅野采女正長重か室
清 昌 《割書:初清成 庄次郎 玄蕃頭|従五位下》
家清(いへきよ) 母(はゝ)は松平大炊助好景(まつだひらおほゐのすけよしかげ)が女(ぢよ)永禄(えいろく)九年 竹谷(たけのや)に生(うま)る天正(てんせう)九年 東照宮(とうせうぐう)の御諱字(おんゐみな)を賜(たまは)り家清(いへきよ)とめさ
れ異父(ゐふ)の御妹(おんいもと)をめあはせたまふ《割書:時に十|六歳》十年 父(ちゝ)が譲(ゆづり)を受(うけ)て竹谷(たけのや)を領(れう)す十八年 小田原陣(をだはらぢん)に供奉(ぐぶ)し御凱(ごがい)
旋(せん)の後(のち)武蔵国(むさしのくに)児玉郡(こたまごほり)八幡山(やはたやま)に於(おい)て一万石の地(ち)を賜(たま)ふ此(この)時(とき)千貫文の地(ち)を弟(おとゝ)内記清定(ないききよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ十九
年九 戸(へ)一 揆(き)の時(とき)陸奥国(むつのくに)岩手沢(いわてざわ)まで従(したが)ひたてまつる慶長(けいちよう)五年 関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)に石川長門守康通(いしかはながとのかみやすみつ)と共(とも)に尾(を)
張国(はりのくに)清洲(きよす)の城番(じようばん)をつとめ又(また)同国(どうこく)犬山(いぬやま)の城(しろ)を受取(うけと)る六年二月 八幡山(やはたやま)を転(てん)して三河国(みかはのくに)吉田城(よしだじよう)をたまひ
加恩(かおん)ありて三万石を領(れう)し其(その)収納(しうのう)のうち三千二百石を清定(きよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ此(この)年(とし)従(じゆ)五 位下(ゐかげ)玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任(ぢよにん)す
八年二月 将軍(せうぐん)げはいが)の御参内(ごさんだい)に供奉(ぐぶ)す十年 清定(きよさだ)死(し)するの後(のち)其(その)采地(さいち)をかへしおさむ十五年十二月
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二十一日 卒(そつ)す年(とし)四十五 葉雲全霜清宝院(よううんぜんさうせいほんゐん)と号(ごう)す吉田(よしだ)の全栄寺(ぜんえいじ)に葬(ほうむ)り男(だん)清昌(きよまさ)か時(とき)寺(てら)を西郡(にしのごほり)に移(うつ)して
改葬(かいそう)す室(しつ)は久松佐渡守俊勝(ひさまつさどのかみとしかつ)が女(ぢよ)東照宮(とうせうぐう)異父(ゐふ)同母(どうぼ)の御妹(おんいもと)なり天正(てんせう)十八年十月十七日 逝(せい)す年(とし)二十二 月(げつ)
窓貞心天桂院(そうていしんてんけいゐん)と号(ごう)す武蔵国(むさしのくに)八幡山(やはたやま)に葬(ほうむ)り一 宇(う)を建(た)て天桂院(てんけいゐん)と名(なづ)く後(のち)三河国(みかはのくに)吉田(よしだ)に移(うつ)して其(その)地(ち)に改(かい)
葬(そう)し慶安(けいあん)二年 清昌(きよまさ)が時(とき)に西郡(にしのこほり)の全栄寺(ぜんえいじ)を合(あは)せて龍台山(りううんざん)天桂院(てんけいゐん)と云(い)ふ即(すなはち)其(その)地(ち)に改葬(かいそう)す大猷院(だいゆうゐん)より
寺領(じれう)十石余を寄附(きふ)せらる
忠清(たゞきよ) 母(はゝ)は俊勝(としかつ)《割書:久松佐|後守》か女(ぢよ)天正(てんせう)十三年 竹谷(たけのや)に生(うま)る慶長(けいちよう)十五年 遺領(ゐれう)を継(つぐ)《割書:時に十|六歳》後(のち)台徳院殿(だいとくゐんでん)の御前(ごぜん)に
於(おい)て元服(げんぷく)し御諡字(おんゐみな)を賜(たま)ひ忠清(たゞきよ)と名(な)のり従(じゆ)五 位下(ゐか)民部大輔(みんぶたゆう)に叙任(ぢよにん)す此(この)時(とき)左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を賜(たま)ふ後(のち)玄蕃(げんばの)
頭(かみ)にあらたむ十七年四月二十日 卒(そつ)す年(とし)二十八 機叟勝全忠功院(きさうせうぜんちうこうゐん)と号(ごう)す嗣(よつぎ)なきにより所領(しよれう)をおさめら
る室(しつ)は亀井武蔵守茲矩(かめいむさしのかみこれのり)か女(ぢよ)
⦿松平忠利の移封
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた松平忠清(まつだひらたゞきよ)は慶長(けいちよう)十七年四月二十日 年(とし)僅(わづ)かに廿八歳で頓死(とんし)し子(こ)
がなかつたので其(その)家(いへ)は断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであるが仝年(どうねん)十一月十二日 其(その)弟(おとゝ)清昌(きよまさ)が更(さら)に西郡(にしのこほり)五千石を与(あた)へ
《割書:松平主殿助|忠利》 られて家名(かめい)を継(つ)ぐ事(こと)となつたのである而(しか)して此(この)吉田(よしだ)には之(これ)と同時(どうじ)に深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)松平主殿助忠利(まつだひらとのものすけたゞとし)が移(い)
封(ほう)せられて来(き)たので之(これ)も之迄(これまで)一万石であつたのを三万石に加増(かぞう)せられたのであつたが此(この)忠利(たゞとし)と云(い)ふ人(ひと)
深溝の松平 は之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(もうしの)べた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の子(こ)であつて即(すなは)ち世(よ)に深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)と云ふ家(いへ)である此(この)
家(いへ)も矢張(やはり)前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)く松平信光(まつだひらのぶみつ)の流(りう)で忠利(たゞとし)は其(その)五 世(せい)の孫(そん)に当(あた)るのであるが信光(のぶみつ)の孫(まご)大炊助忠定(おほゐのすけたゞさだ)
と云ふ人が初(はじ)めて宝飯郡(ほゐぐん)深溝(ふかうず)の城(しろ)を取(と)つて之(これ)に住(ぢう)したので深溝(ふかうず)松平(まつだひら)の名(な)が起(おこ)つたのであるが此(この)人(ひと)は享(けう)
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 二百二
【本文】
清宗《与二郎、玄蕃允、備後守》
家清《与二郎、玄蕃頭、従五位下》
清定《内記、松平石見守貴強の祖》
忠清《万之助、民部大輔、玄蕃頭、従五位下》
女子 本多豊後守康紀の室
女子 松平主殿頭忠利の室
女子 成田左馬助泰高の室
女子 浅野采女正長重の室
清昌《初め清成、庄次郎、玄蕃頭、従五位下》
家清 母は松平大炊助好景の娘。永禄九年竹谷に生まれる。天正九年東照宮の御諱字を賜り家清と名乗らせられ、異父の御妹を娶らせられる《時に十六歳》。十年父の譲りを受けて竹谷を領す。十八年小田原陣に供奉し、御凱旋の後武蔵国児玉郡八幡山において一万石の地を賜る。この時千貫文の地を弟内記清定に分かち与える。十九年九戸一揆の時、陸奥国岩手沢まで従い奉る。慶長五年関ヶ原の役に石川長門守康通と共に尾張国清須の城番を勤め、また同国犬山の城を受け取る。六年二月八幡山を転じて三河国吉田城を賜り、加恩ありて三万石を領し、その収納のうち三千二百石を清定に分かち与える。この年従五位下玄蕃頭に叙任す。八年二月将軍拝賀の御参内に供奉す。十年清定死するの後、その采地を返し収める。十五年十二月
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその博大なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿ほぼ成るに際し
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈する
【本文】
二十一日卒す。年四十五。葉雲全霜清宝院と号す。吉田の全栄寺に葬り、男清昌の時寺を西郡に移して改葬す。室は久松佐渡守俊勝の娘、東照宮異父同母の御妹なり。天正十八年十月十七日逝す。年二十二。月窓貞心天桂院と号す。武蔵国八幡山に葬り一宇を建て天桂院と名づく。後三河国吉田に移してその地に改葬し、慶安二年清昌の時に西郡の全栄寺を合わせて龍台山天桂院という。すなわちその地に改葬す。大猷院より寺領十石余を寄附せられる。
忠清 母は俊勝《久松佐渡守》の娘。天正十三年竹谷に生まれる。慶長十五年遺領を継ぐ《時に十六歳》。後台徳院殿の御前において元服し、御諱字を賜り忠清と名乗り従五位下民部大輔に叙任す。この時左文字の御刀を賜る。後玄蕃頭に改める。十七年四月二十日卒す。年二十八。機叟勝全忠功院と号す。嗣なきにより所領を収められる。室は亀井武蔵守茲矩の娘。
◎松平忠利の移封
前章に申し述べたごとく、この吉田の城主であった松平忠清は慶長十七年四月二十日年わずかに二十八歳で頓死し、子がなかったのでその家は断絶に及んだのであるが、同年十一月十二日その弟清昌が更に西郡五千石を与えられて家名を継ぐこととなったのである。そしてこの吉田には、これと同時に深溝の城主松平主殿助忠利が移封されて来たので、これもこれまで一万石であったのを三万石に加増されたのであったが、この忠利という人は、これまで数々申し述べた彼の家忠日記の記者松平家忠の子であって、すなわち世に深溝松平氏という家である。この家もやはり前にお話ししたごとく松平信光の流で、忠利はその五世の孫に当たるのであるが、信光の孫大炊助忠定という人が初めて宝飯郡深溝の城を取ってこれに住したので深溝松平の名が起こったのであるが、この人は享
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百三