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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 116

ページ: 116

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【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                     二百四 【本文】 大炊助好景  禄(ろく)四年六月九日に卒(そつ)して其(その)嫡子(ちやくし)大炊助好景(おほゐのすけよしかげ)が其(その)後(あと)を継(つ)いだのである此(この)人(ひと)も前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べてある如(ごと)く        徳川氏(とくがはし)の為(ため)には中々(なか〳〵)戦功(せんこう)のあつた人であるが永禄(えいろく)四年四月 年(とし)四十四歳で吉良義昭(よらよしあき)との戦(たゝかひ)に幡豆郡(はづぐん)善(ぜん) 主殿助伊忠  明寺(みようじ)の堤(つゝみ)に於(おい)て打死(うちじに)し其(その)子(こ)が即(すなは)ち主殿助伊忠(とのものすけこれたゞ)であるが此(この)人(ひと)も亦(ま)た中々(なか〳〵)の勇者(ゆうしや)で永禄(えいろく)七年 此(この)吉田(よしだ)の合戦(かつせん)       には鵜殿(うどの)八郎三郎 長照(ながてる)と共(とも)に喜見寺(きけんじ)の砦(とりで)を守(まも)つた事が記(しる)されてあるが之(これ)も長篠(ながしの)の合戦(かつせん)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と共(とも)       に鳶巣(とびのす)の砦(とりで)を攻(せ)めに行(い)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであつて孰(いづ)れも既(すで)に諸君(しよくん)の能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この) 主殿助家忠  時(とき)伊忠(これたゞ)は年(とし)三十九であつたが其(その)子(こ)が彼(か)の家忠(いへたゞ)で此(この)人(ひと)も徳川氏(とくがはし)の為(ため)には殆(ほとん)ど数(かぞ)えられぬ程(ほど)の功名(こうみよう)手柄(てがら)を 《割書:父祖三代相|続で主家の》   現(あら)はし慶長(けいちよう)五年八月朔日 伏見城(ふしみじよう)に於(おい)て鳥居元忠(とりゐもとたゞ)等(ら)と共(とも)に勇戦(ゆうせん)して打死(うちじに)した事は矢張(やはり)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと) 《割書:為に戦死す| 》  くである此(かく)の如(ごと)く父祖(ふそ)二代(だい) 揃(そろ)ひも揃(そろ)つて同(おな)じく主家(しゆか)の為(ため)に殉(じゆん)じたと云ふ事は仮令(たとへ)当時(たうじ)戦国(せんごく)の時代(じだい)であ       つたとしても随分(ずゐぶん)珍(めづ)らしい事であると思(おも)ふ而(しか)して忠利(たゞとし)は当時(たうじ)まだ又(また)八 郎(らう)と称(せう)して居(を)つたが父(ちゝ)家忠(いへたゞ)戦死(せんし)       の時(とき)は関東(くわんとう)に従(したがつ)て下総国(しもふさのくに)小美川城(おみがはじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるソコでイヨ〳〵関(せき)ケ原役(はらえき)が済(す)むで慶長(けいちよう)六       年の二月 再(ふたゝ)び父祖伝来(ふそでんらい)の旧領(きうれう)たる当国(たうごく)の深溝(ふかうず)を与(あた)へられ一万石を領(れう)したのであるが其(その)九年の夏(なつ)叙任(ぢよにん)し       て主殿助(とのものすけ)と称(せう)し今度(このたび)竹谷(たけのや)松平氏(まつだひらし)の後(あと)を享(う)けて終(つひ)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)である 鐘銘事件  サテかくの如(ごと)き訳(わけ)であつたが其(その)十九年に至(いた)つて駿府(すんぷ)と大坂(おほさか)との間(あひだ)に彼(か)の鐘銘事件(せうめいじけん)が起(おこ)つたのである之(これ)       は御承知(ごせうち)の如(ごと)く慶長(けいちよう)元年七月の大地震(おほぢしん)に破摧(はさい)した京都(けうと)の大仏殿(だいぶつでん)に対(たい)し家康(いへやす)から秀頼(ひでより)母子(ぼし)に向(むか)つて其(その)再(さい)        建(こん)を勧(すゝ)め且(か)つそれは豊太閤(たいこうかく)の宿願(しゆくぐわん)であるから其(その)遺志(ゐし)を継(つ)いで冥福(めいふく)を資(たす)くるようにと申送(もうしおく)つたので秀(ひで)        頼(より)母子(ぼし)は大(おほい)に喜(よろこ)むで慶長(けいちよう)七年十一月に其(その)工(こう)を起(おこ)したが途中(とちう)に故障(こせう)があつて一 時(じ)中止(ちうし)したのである然(しか)る       に再(ふたゝ)び工(こう)を起(おこ)して十七年の春(はる)に至(いた)りヨウ〳〵落成(らくせい)したのであるが十九年三月 更(さら)に其(その)鐘(かね)を鋳(い)る事となつ       て程(ほど)なく之(これ)も出来上(できあが)つたのでイヨ〳〵其(その)落成式(らくせいしき)を挙(あ)げようと云ふ処で其(その)鐘銘(せうめい)の中(なか)に国家安康(こくかあんこう)と云ふ文(もん) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百七十九号附録   (明治四十五年二月六日発行) 【本文】        字(じ)があるのは之(これ)は家康(いへやす)と云ふ二 字(じ)を態々(わざ〳〵)中断(ちうだん)したものであるから不祥(ふせう)であるそれのみならず文章(ぶんせう)の中(なか)       にも呪詛(じゆそ)と見(み)るべき点(てん)があると云ふので突然(とつぜん)家康(いへやす)から異議(ゐぎ)の申立(もうしたて)が起(おこ)つたので之(これ)が中々(なか〳〵)の大事件(だいじけん)とな       つて其(その)極(きよく)は遂(つひ)に大坂(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)と云ふ大戦争(たいせんそう)を惹起(ひきおこ)すに至(いた)つたのである元来(がんらい)関(せき)ヶ原役(はらえき)以来(いらい)と云ふものは前(まへ)       にも申述(もうしの)べた如(ごと)く関東(くわんとう)と大坂(おほさか)とは特(とく)に其(その)間(あひだ)に隔壁(かくへき)がある様(やう)で表面(ひようめん)こそ互(たがひ)に姻戚(ゐんせき)となつて親密(しんみつ)のようで       はあるが決(けつ)して快(こゝろよ)い訳(わけ)のものではない又(ま)た関東(くわんとう)から云ふと豊臣氏(とよとみし)は誠(まこと)に目(め)の上(うへ)の瘤(こぶ)で之(これ)があつては        到底(たうてい)枕(まくら)を高(たか)ふする訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から何(なん)とか折(をり)があつたならば之(これ)を除(のぞ)きたいと云ふ考(かんがへ)は断(た)へな       かつたに相違(さうゐ)ない其(その)上(うへ)家康(いへやす)も其(その)齢(よはひ)が次第(しだい)に高(たか)まつて来(く)るに従(したがつ)て自然(しぜん)に事を急(いそ)いだ様子(やうす)が見(み)へるので       あるが其処(そこ)には又(ま)た本多正信(ほんだまさのぶ)などを初(はじ)め中々(なか〳〵)の策士(さくし)があつたので色々(いろ〳〵)と苦肉(くにく)の策(さく)を割(くわく)したのであるが        之(これ)に引(ひ)き替(か)へ大坂方(おほさかがた)にあつては其(その)大将(たいせう)とも云ふべき淀君(よどぎみ)は兎(と)に角(かく)婦人(ふじん)であるからドウモ思慮(しりよ)が浅(あさ)い処 大坂冬の役 があるのみならず其(その)臣下(しんか)のものにも調和(ちようわ)を欠(か)き遂(つひ)に片桐且元(かたぎりかつもと)などと云ふ主家(しゆか)思(おも)ひのものをも斥(しりぞ)けてか       ゝる些細(ささい)な事が端緒(たんちよ)となつて戦端(せんたん)を開(ひら)くに至(いた)つたのは誠(まこと)に豊臣氏(とよとみし)の為(ため)に気(き)の毒(どく)な至(いたり)であると思(おも)ふ而(しか)し       て此(この)大坂役(おほさかえき)の事に就(つい)ては詳(くは)しく御話(おはなし)すれば随分(ずいぶん)長時間(ちようじかん)を要(よう)する事であるから此処(こゝ)には其(その)必要(ひつよう)もなかろ  《割書:家康大阪出|征の途次吉》  うと思(おも)ふので出来(でき)る限(かぎ)り略(りやく)する考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)が遂(つひ)に大阪(おほさか)に向(むか)ふ事となつて駿府(すんぷ)を発(はつ)したのは 《割書:田に次す | 》   其(その)年(とし)十月の十一日で其(その)十五日には此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)忠利(たゞとし)は此(この)役(えき)に従軍(じうぐん)したの       であるが当時(たうじ)東海道(とうかいどう)の城々(しろ〳〵)には城兵(じようへい)の外(ほか)に守備(しゆび)として衛兵(えいへい)を添(そ)へられたものである然(しか)るに此(この)吉田城(よしだじよう)に       は其(その)必要(ひつよう)がないと認(みと)められて其(その)こ事(こと)がなかつた事と見(み)へる即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の忠利譜(たゞとしふ)の中(なか)に         此(この)役(えき)に東海道(とうかいどう)所々(しよ〳〵)の城(しろ)に守衛(しゆゑい)を副(そ)へらる戸田土佐守尊次(とだとさのかみたかつぐ)に岡崎城(をかざきじよう)を守(まも)らしめ給(たま)ひ浜松(はままつ)吉田(よしだ)の両城(れうじよう)に        も加勢(かせい)を置(お)かれむとて家臣(かしん)松平勘解由左衛門康定(まつだひらかげゆうさへもんやすさだ)を岡崎(をかざき)に召(め)して忠利(たゞとし)誰(たれ)を留(とゞ)めて守(まも)らするぞと問(とは)せ 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                     二百五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百四 【本文】 大炊助好景 禄四年六月九日に卒去し、その嫡子大炊助好景がその跡を継いだのである。この人も前章ですでに申し述べているように、徳川氏のためには非常に戦功のあった人であるが、永禄四年四月、年四十四歳で吉良義昭との戦いに幡豆郡善明寺の堤において討死し、その子がすなわち主殿助伊忠であるが、この人もまた非常な勇者で、永禄七年この吉田の合戦には鵜殿八郎三郎長照と共に喜見寺の砦を守ったことが記されてあるが、これも長篠の合戦に酒井忠次と共に鳶巣の砦を攻めに行って、ついに戦死したのであって、いずれもすでに諸君のよくご承知のことであると思う。 主殿助家忠 この時伊忠は年三十九であったが、その子が彼の家忠で、この人も徳川氏のためにはほとんど数え切れないほどの功名・手柄を現し、慶長五年八月朔日伏見城において鳥居元忠等と共に勇戦して討死したことは、やはり前章に申し述べた通りである。《父祖三代相続いて主家のために戦死す》このように父祖二代揃いも揃って同じく主家のために殉じたということは、たとえ当時戦国の時代であったとしても随分珍しいことであると思う。そして忠利は当時まだ八郎と称していたが、父家忠戦死の時は関東に従って下総国小美川城を守っていたのである。そこでいよいよ関ヶ原役が済んで慶長六年の二月、再び父祖伝来の旧領たる当国の深溝を与えられ一万石を領したのであるが、その九年の夏叙任して主殿助と称し、今度竹谷松平氏の後を受けて、ついにこの吉田の城主となった次第である。 鐘銘事件 さてこのような訳であったが、その十九年に至って駿府と大坂との間に彼の鐘銘事件が起こったのである。これはご承知のように慶長元年七月の大地震に破壊した京都の大仏殿に対し、家康から秀頼母子に向かってその再建を勧め、かつそれは豊太閤の宿願であるからその遺志を継いで冥福を助けるようにと申し送ったので、秀頼母子は大いに喜んで慶長七年十一月にその工を起こしたが、途中に故障があって一時中止したのである。しかし再び工を起こして十七年の春に至りようやく落成したのであるが、十九年三月、さらにその鐘を鋳ることとなって程なくこれも出来上がったので、いよいよその落成式を挙げようという処で、その鐘銘の中に「国家安康」という文 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百七十九号附録 (明治四十五年二月六日発行) 【本文】 字があるのは、これは「家康」という二字をわざわざ中断したものであるから不祥であるそれのみならず文章の中にも呪詛と見るべき点があるということで、突然家康から異議の申し立てが起こったので、これが非常な大事件となって、その結果はついに大坂冬の役という大戦争を引き起こすに至ったのである。元来関ヶ原役以来というものは、前にも申し述べたように関東と大坂とは特にその間に隔壁があるようで、表面こそ互いに姻戚となって親密のようではあるが、決して快い訳のものではない。また関東から言うと豊臣氏は誠に目の上の瘤で、これがあっては到底枕を高くする訳に行かぬというところから、何とか折があったならばこれを除きたいという考えは絶えなかったに相違ない。その上家康もその齢が次第に高まって来るに従って、自然に事を急いだ様子が見えるのであるが、そこにはまた本多正信などを初め非常な策士があったので、色々と苦肉の策を考えたのであるが、これに引き替え大坂方にあっては、その大将とも言うべき淀君は、とにかく婦人であるからどうも思慮が浅いところ 大坂冬の役 があるのみならず、その臣下のものにも調和を欠き、ついに片桐且元などという主家思いのものをも斥けて、このような些細な事が端緒となって戦端を開くに至ったのは、誠に豊臣氏のために気の毒な至りであると思う。そしてこの大坂役の事については、詳しくお話しすれば随分長時間を要することであるから、ここにはその必要もなかろうと思うので、出来る限り略する考えであるが、結局家康がついに大阪に向かうこととなって駿府を発したのは《家康大阪出征の途次吉田に次す》、その年十月の十一日で、その十五日にはこの吉田に着いたのである。この時この吉田の城主忠利はこの役に従軍したのであるが、当時東海道の城々には城兵の外に守備として衛兵を添えられたものである。しかるにこの吉田城にはその必要がないと認められて、そのことがなかった事と見える。すなわち『寛政重修諸家譜』の忠利譜の中に この役に東海道所々の城に守衛を副えられる。戸田土佐守尊次に岡崎城を守らしめ給い、浜松・吉田の両城にも加勢を置かれんとて、家臣松平勘解由左衛門康定を岡崎に召して、忠利誰を留めて守らするぞと問わせ 【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百五

英語訳

**Toyohashi City Historical Discourse** (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 204 **Main Text** Ōi-no-suke Yoshikage died on June 9th of Eiroku 4 (1561), and his eldest son, Ōi-no-suke Yoshikage, succeeded him. As already mentioned in the previous chapter, this person also had great military achievements for the Tokugawa clan. However, in the 4th month of Eiroku 4 (1561), at the age of 44, he died in battle against Kira Yoshiaki at the embankment of Zenmyōji in Hazu District. His son was Tonomo-no-suke Koretada, who was also a great warrior. In the 7th year of Eiroku (1564), during the Battle of Yoshida, he is recorded as having defended the fort at Kikenji together with Udono Hachirō Saburō Nagateru. He also died in battle at the Battle of Nagakute while attacking the fort at Tobino-su together with Sakai Tadatsugu, all of which I believe you are already well aware of. Tonomo-no-suke Ietada: At this time, Koretada was 39 years old, and his son was the famous Ietada. This person also achieved countless feats and accomplishments for the Tokugawa clan, and as mentioned in the previous chapter, he died heroically in battle at Fushimi Castle on August 1st of Keichō 5 (1600) together with Torii Mototada and others. {Three generations of fathers and ancestors died consecutively for their lord} That both father and grandfather died in service to the same lord family is quite remarkable, even for the warring states period. Tadatoshi was still called Hachirō at the time, and when his father Ietada died in battle, he was in Kantō guarding Omigawa Castle in Shimōsa Province. After the Battle of Sekigahara ended, in the 2nd month of Keichō 6 (1601), he was again granted Fukōzu in this province, the hereditary domain of his forefathers, and ruled 10,000 koku. In the summer of the 9th year, he was appointed and took the title Tonomo-no-suke, and this time succeeded the Takenotani Matsudaira clan, finally becoming the lord of Yoshida Castle. The Bell Inscription Incident: Such was the situation, but in the 19th year, the famous bell inscription incident occurred between Sunpu and Osaka. As you know, regarding the Great Buddha Hall in Kyoto that was destroyed in the great earthquake of July in the 1st year of Keichō (1596), Ieyasu recommended to Hideyori and his mother that they rebuild it, saying that since it was Toyotaikō's cherished wish, they should continue his will and help his soul find peace. Hideyori and his mother were greatly pleased and began construction in the 11th month of Keichō 7 (1602), but there were problems along the way and work was temporarily suspended. However, they resumed construction and it was finally completed in the spring of the 17th year. In the 3rd month of the 19th year, they decided to cast the bell, which was soon completed, and when they were about to hold the completion ceremony, the bell inscription contained the characters "kokka ankō" (national peace) **Left Page** **Margin:** San'yō Shinpō No. 3979 Supplement (Published February 6, Meiji 45 [1912]) **Main Text** These characters were seen as inauspicious because they deliberately interrupted the two characters "Ieyasu." Moreover, there were points in the text that could be seen as curses. This sudden objection from Ieyasu became a major incident that ultimately led to the great war known as the Winter Campaign of Osaka. Originally, since the Battle of Sekigahara, as mentioned before, there seemed to be a particular barrier between Kantō and Osaka. While on the surface they appeared close through marriage alliances, it was never truly pleasant. From Kantō's perspective, the Toyotomi clan was truly a thorn in their side, and as long as they existed, they could never rest easy. There was undoubtedly a constant desire to remove them if the opportunity arose. Moreover, as Ieyasu grew older, he naturally seemed to become more urgent about matters. There were also great strategists like Honda Masanobu who devised various desperate measures. In contrast, on the Osaka side, their leader Yodogimi, being a woman, had shallow judgment. Winter Campaign of Osaka: Not only that, but there was also a lack of harmony among her retainers, and they even dismissed loyal men like Katagiri Katsumoto. That such a trivial matter became the catalyst for opening hostilities is truly pitiful for the Toyotomi clan. While a detailed account of the Osaka campaigns would require considerable time, I think it unnecessary here, so I intend to keep it as brief as possible. Ultimately, Ieyasu decided to march on Osaka and departed Sunpu {Ieyasu's expedition to Osaka, stopping at Yoshida} on October 11th of that year, arriving at Yoshida on the 15th. At this time, Tadatoshi, the lord of Yoshida Castle, participated in this campaign. At that time, the castles along the Tōkaidō were provided with garrison troops in addition to their regular castle soldiers for defense. However, it appears that Yoshida Castle was deemed not to require this. This is evident from the "Kansei Chōshū Shoka-fu" (Genealogies of Various Houses Revised in Kansei) in Tadatoshi's biography: "In this campaign, guards were assigned to castles at various places along the Tōkaidō. Toda Tosa-no-kami Takanao was ordered to guard Okazaki Castle, and reinforcements were to be placed at both Hamamatsu and Yoshida castles. The retainer Matsudaira Kageyū Saemon Yasusada was summoned to Okazaki, and [Ieyasu] asked Tadatoshi whom he would leave behind to guard [the castle]." **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 205