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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 118

ページ: 118

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【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百八 【本文】       て奈良(なら)に出(い)でそれより住吉(すみよし)に陣(ぢん)したのであるが秀忠(ひでたゞ)は枚方(ひらかた)枚岡(ひらをか)を経(へ)て平野(ひらの)に至(いた)り十八日に家康(いへやす)と天王(てんわう)        寺(じ)に於(おい)て相会(あひくわい)し軍議(ぐんぎ)をなしたのであるトコロがそこは家康(いへやす)の家康(いへやす)たる所以(ゆゑん)で却(かへつ)て此方(こちら)から大阪方(おほさかがた)に向(むか)      て和議(わぎ)を起(おこ)すに至(いた)つたのであるがそれが此(この)廿日であつたと云ふ事である然(しか)るに一 方(ぱう)には又(ま)た頻(しき)りに対(たい) 和議成る   城策(じようさく)を講(こう)じて守衛(しゆゑい)を厳(げん)にせしめたのであるがヨウ〳〵十二月廿ニ日に至(いた)つて媾和成立(こうわせいりつ)と相成(あひな)つたので 忠利の戦功  一先(ひとま)づ落着(らくちやく)を告(つ)げたのである之(これ)が即(すなは)ち世(よ)に称(せう)する大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)の大体(だいたい)であるが此(この)役(えき)に吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)        忠利(たゞとし)が従軍(じうぐん)した事は既(すで)に前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで十一月十一日に家康(いへやす)の命(めい)を受(う)けて伊奈忠政(いなたゞまさ)《割書:忠次|の子》と共(とも)に        鳥飼(とりがひ)附近(ふきん)対岸(たいがん)の堤(つゝみ)を決(けつ)して淀川(よどがは)の水(みづ)を削減(さくげん)することを計劃(けいくわく)し又(ま)た対城中(たいじようちう)は尼(あま)が崎城(さきじよう)を守(まも)つた事が種々(しゆ〳〵)の        記録(きろく)に記(しる)されて居(を)る兎(と)に角(かく)以上(いじよう)述(の)べたような訳(わけ)で大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)は一 時(じ)落着(らくちやく)したが其(その)媾和条件(こうわじようけん)の中(なか)に城(じよう)        廓(くわく)の一 部(ぶ)を破却(はきやく)すると云ふ箇条(かじよう)があつて之(これ)は外堀(そとぼり)だけを埋(う)める協約(けうやく)であつたのを徳川方(とくがはがた)ではドシ〳〵       二の丸(まる)の堀(ほり)までも埋(う)めて行(ゆ)くので大阪方(おほさかがた)から其(その)違約(ゐやく)を責(せ)めたのであるトコロが之(これ)は本多正純(ほんだまさずみ)の専断(せんだん)で       あると云ふので不得要領(ふとくようれう)の間(あひだ)に矢張(やはり)工事(こうじ)はズン〳〵進行(しんこう)して遂(つひ)に之(これ)を埋(う)め終(おは)つたと云ふ次第(しだい)であるが 大阪の再挙 それのみならず矢張(やはり)媾和(こうわ)の一 条件(じようけん)として大阪城中(おほさかじようちう)の浪士(らうし)扶助(ふじよ)の事があつたが其後(そのご)此(この)事(こと)を大阪(おほさか)から関東(くわんとう)       へ交渉(こうせう)した処(ところ)家康(いへやす)は却(かへつ)て大立腹(おほりつぷく)で其(その)使者(ししや)を退(しりぞ)けたので之(これ)では詮方(せんかた)がないと云ふ処から大阪(おほさか)に於(おい)ては遂(つひ) 夏の役   に再挙(さいきよ)を図(はか)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち大阪(おほさか)夏(なつ)の役(えき)で慶長(けいちよう)は十九年までゞ元和(げんわ)と年号(てんごう)が改(あらた)まつたの       であるから此(この)役(えき)は元和(げんわ)元年(がんねん)の事になるので初(はじ)め家康(いへやす)は其(その)四月四日 其(その)子(こ)義直(よしなを)の婚儀(こんぎ)をなす為(ため)と称(せう)して駿(すん)        府(ぷ)を発(はつ)し八日に此(この)吉田(よしだ)に泊(はく)して十日 名古屋(なごや)に着(ちやく)したのであるが十五日 更(さら)に名古屋(なごや)を発(はつ)し十八日に二 条(じよう)        城(じよう)に入(い)つたのである又(ま)た秀忠(ひでたゞ)は其(その)月(つき)の十日に江戸(えど)を発(はつ)して十八日に吉田(よしだ)を通過(つうくわ)し廿一日 伏見城(ふしみじよう)に入(い)り       それより家康(いへやす)と共(とも)に大阪(おほさか)に押(お)し寄(よ)せたが今度(このたび)は諸君(しよぐん)が既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る激烈(げきれつ)なる戦闘(せんたう)もあつたの 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百八十四号附録   (明治四十五年二月十三日発行) 【本文】 豊臣氏亡ぶ であるが結局(けつきよく)大阪方(おほさかがた)の敗(はい)となつて此(この)年(とし)の五月八日 秀頼(ひでより)母子(ぼし)を初(はじ)め火(ひ)を大阪城(おほさかじよう)に放(はな)つて自殺(じさつ)し茲(こゝ)に全(まつた)く 庄九郎忠一  豊臣氏(とよとみし)も滅亡(めつぼう)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)役(えき)にも矢張(やはり)松平忠利(まつだひらたゞとし)は従軍(じうぐん)し徳川頼宣(とくがはよりのぶ)の軍(ぐん)に属(ぞく)したので       あるが此(この)時(とき)忠利(たゞとし)の弟(おとゝ)に庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふのがあつて此(この)人(ひと)は遂(つひ)に戦死(せんし)を遂(と)げたのである其(その)状態(ぜうたい)が実(じつ)に勇(いさ)       ましく思(おも)はるゝのであるから藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)の内(うち)から其(その)条(くだり)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする         忠利(たゞとし)が弟(おとゝ)を庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふ将軍家(せうぐんけ)に仕(つか)ふ大阪(おほさか)兵乱(へいらん)再(ふたゝ)び起(おこ)りし時(とき)同僚共(どうれうども)に申(もうし)けるは此度(このたび)の軍事(ぐんじ)終(おは)ら        ば天下(てんか)再(ふたゝ)び兵革(へいかく)の事(こと)あるべからず忠一(たゞかづ)将軍家(せうぐんけ)の先陣(せんぢん)に従(したが)ひまゐらせしこそ幸(さいはひ)なれ必(かなら)ず先懸(さきが)けして         父祖(ふそ)の忠死(ちうし)に次(つ)ぐものぞと云ひけるが五月七日の戦(たゝかひ)に申(もう)しゝに違(たが)はず最先(さいさき)かけ生年(せいねん)廿六歳にて討死(うちじに)        をぞ遂(と)げにける        此(この)父祖(ふそ)の忠死(ちうし)と云ふのは前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く好景(よしかげ)、 伊忠(これたゞ)、 家忠(いへたゞ)と此(この)家(いへ)が三 代(だい)打継(うちつ)いて此家(しゆか)の為(ため)に打死(うちじに)し       た事を云つたもので其(その)家忠(いへたゞ)の子(こ)である処の忠一(たゞかづ)は実(じつ)に其処(そこ)に感奮興起(かんふんこうき)したものと見(み)へる私(わたくし)は元(もと)より死(し)       を軽(かろ)むずると云ふ事をのみ奨励(せうれい)せむとするものではないが兎(と)に角(かく)此(この)家(いへ)の歴史(れきし)が能(よ)く此(この)子(こ)を生(う)み出(いだ)した       と云ふ事と此(この)忠一(たゞかづ)の意気(いき)とは誠(まこと)に教訓(けふくん)に資(し)すべきであるとして之(これ)を表彰(ひようせう)したく思(おも)ふのである       サテ右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で豊臣氏(とよとみし)は遂(つひ)に亡(ほろ)びて兵革(へいかく)は漸(やうや)く釐(おさ)まるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)二年三月廿七日 家(いへ) 家康薨去   康(やす)は太政大臣(だじようだいじん)に任(にん)じたのである然(しか)るに其(その)翌月(よくげつ)十七日 病(やまひ)を以(もつ)て駿府(すんぷ)に薨去(こうきよ)し年(とし)は七十五歳であつたが其(その) 秀忠辞職  九年七月廿七日に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)も亦(ま)た征夷大将軍(せいいたいせうぐん)の職(しよく)を辞(じ)して子(こ)家光(いへみつ)が其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられたの 《割書:家光征夷大|将軍となる》  であるモツトモ此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は上京(ぜうけう)して参内(さんだい)したのであるが江戸(えど)を出発(しゆぱつ)したのは五月十二日で六月朔日に 秀忠の上洛  此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)した此(この)時(とき)にも随行者(ずいこうしや)並(ならび)に在京(ざいけう)のものなどに向(むかつ)て幕府(ばくふ)から種々(しゆ〳〵)の令条(れいじよう)は発(はつ)したものであるが 林文書    矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた林氏(はやしし)の処に此(この)時(とき)御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の庄屋(せうや)に宛(あ)てた文書(ぶんしよ)が今(いま)も保存(ほぞん)せられて居(を)る之(これ)亦(ま)た甚(はなは) 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百八 【本文】 て奈良に出で、それより住吉に陣を敷いたのであるが、秀忠は枚方・枚岡を経て平野に至り、十八日に家康と天王寺において会見し軍議を行ったのである。ところがそこは家康の家康たる所以で、かえってこちらから大阪方に向って和議を起こすに至ったのであるが、それがこの二十日であったということである。しかしながら一方では又頻りに攻城策を講じて守備を厳にしたのであるが、ようやく十二月二十二日に至って講和成立ということになったので、一先ず決着を告げたのである。 和議成る  これが即ち世に言う大阪冬の陣の大体であるが、この戦いに吉田の城主松平忠利が従軍したことは既に前に申し述べた通りで、十一月十一日に家康の命を受けて伊奈忠政《忠次の子》と共に鳥飼付近対岸の堤を決壊して淀川の水を減らすことを計画し、また城攻めでは尼ヶ崎城を守ったことが種々の記録に記されている。 忠利の戦功 とにかく以上述べたような訳で大阪冬の陣は一時決着したが、その講和条件の中に城郭の一部を破却するという条項があって、これは外堀だけを埋める協約であったのを徳川方ではどんどん二の丸の堀までも埋めて行くので、大阪方からその違約を責めたのである。ところがこれは本多正純の独断であるというので要領を得ない間に、やはり工事はどんどん進行して遂にこれを埋め終わったという次第である。 大阪の再挙 それのみならず、やはり講和の一条件として大阪城中の浪士扶助のことがあったが、その後この件を大阪から関東へ交渉したところ、家康はかえって大いに立腹してその使者を退けたので、これでは仕方がないというところから、大阪においては遂に再挙を図るに至ったのである。 夏の役  これが即ち大阪夏の陣で、慶長は十九年までで元和と年号が改まったのであるから、この戦いは元和元年のことになるのである。初め家康はその四月四日、その子義直の婚儀をなすためと称して駿府を発し、八日にこの吉田に泊って十日名古屋に着いたのであるが、十五日更に名古屋を発し十八日に二条城に入ったのである。また秀忠はその月の十日に江戸を発して十八日に吉田を通過し、二十一日伏見城に入り、それより家康と共に大阪に押し寄せたが、今度は諸君が既に御承知の如く頗る激烈なる戦闘もあったの 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百八十四号付録 (明治四十五年二月十三日発行) 【本文】 豊臣氏亡ぶ であるが、結局大阪方の敗北となって、この年の五月八日、秀頼母子をはじめ火を大阪城に放って自殺し、ここに全く豊臣氏も滅亡するに至ったのである。 庄九郎忠一 そしてこの戦いにもやはり松平忠利は従軍し、徳川頼宣の軍に属したのであるが、この時忠利の弟に庄九郎忠一という者があって、この人は遂に戦死を遂げたのである。その状況が実に勇ましく思われるので、『藩翰譜』の記事の内からその条を左に抄出することとする。 忠利の弟を庄九郎忠一という。将軍家に仕える。大阪兵乱再び起こりし時、同僚どもに申したのは「この度の軍事終われば、天下再び兵革のことあるべからず。忠一将軍家の先陣に従い参らせしこそ幸いなれ。必ず先駆けして父祖の忠死に次ぐものぞ」と言ったが、五月七日の戦いに申したことに違わず最先に駆け、生年二十六歳にて討死を遂げた。 この父祖の忠死というのは、前に申し述べたように好景、伊忠、家忠とこの家が三代打ち続いて主君のために打死したことを言ったもので、その家忠の子であるところの忠一は実にそこに感奮興起したものと見える。私は元より死を軽んずるということのみを奨励しようとするものではないが、とにかくこの家の歴史がよくこの子を生み出したということと、この忠一の意気とは誠に教訓に資すべきであるとして、これを表彰したく思うのである。 さて右のような次第で豊臣氏は遂に滅び、兵革はようやく収まるに至ったのであるが、その翌二年三月二十七日、家康は太政大臣に任じられたのである。しかるにその翌月十七日、病をもって駿府に薨去し、年は七十五歳であったが、 家康薨去  その九年七月二十七日に至って秀忠もまた征夷大将軍の職を辞して子家光がその後を襲ぎ将軍に任ぜられたのである。《家光征夷大将軍となる》もっともこの時秀忠は上京して参内したのであるが、江戸を出発したのは五月十二日で六月朔日にこの吉田に宿した。 秀忠辞職 秀忠の上洛 この時にも随行者並びに在京の者などに向って幕府から種々の令条は発したものであるが、やはり前に申し述べた林氏のところに、この時御油・赤坂両町の庄屋に宛てた文書が今も保存されている。これもまた甚 【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百九

英語訳

**Toyohashi City Historical Discourse** (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 208 **Main Text** advanced to Nara, then established camp at Sumiyoshi. Hidetada proceeded through Hirakata and Hiraoka to Hirano, where he met with Ieyasu at Tennōji on the 18th and held a war council. However, this was where Ieyasu showed his true nature as Ieyasu - instead, he initiated peace negotiations with the Osaka side, which took place on the 20th. Nevertheless, on one hand they continued to devise siege strategies and strengthen their defenses, but finally on December 22nd a peace agreement was reached, bringing temporary resolution. **Peace Agreement Reached** This was essentially what is known as the Winter Campaign of Osaka. As I mentioned earlier, Matsudaira Tadatoshi, lord of Yoshida Castle, participated in this campaign. On November 11th, following Ieyasu's orders, he worked with Ina Tadamasa {son of Tadatsugu} to plan the destruction of embankments near Torigai on the opposite shore to reduce the waters of the Yodo River, and during the siege defended Amagasaki Castle, as recorded in various documents. **Tadatoshi's Military Achievements** In any case, the Winter Campaign of Osaka was temporarily settled as described above, but among the peace conditions was a clause requiring the destruction of part of the castle fortifications. This was supposed to be an agreement to fill in only the outer moats, but the Tokugawa side proceeded to fill in even the moats of the second bailey, so the Osaka side accused them of breaking the agreement. However, this was said to be the arbitrary decision of Honda Masazumi, and while the matter remained unclear, the construction work continued steadily and was finally completed. **Osaka's Second Rising** Moreover, among the peace conditions was also the matter of supporting the masterless samurai in Osaka Castle. When this matter was later negotiated from Osaka to Kantō, Ieyasu became greatly enraged and dismissed the envoys, so feeling there was no other choice, Osaka finally decided to rise again. **Summer Campaign** This became the Summer Campaign of Osaka. Since the Keichō era ended with the 19th year and the era name changed to Genna, this campaign took place in the first year of Genna. Initially, Ieyasu departed Sunpu on April 4th, ostensibly to conduct his son Yoshinao's wedding ceremony, stayed at Yoshida on the 8th, and reached Nagoya on the 10th. On the 15th he left Nagoya again and entered Nijō Castle on the 18th. Hidetada departed Edo on the 10th of that month, passed through Yoshida on the 18th, entered Fushimi Castle on the 21st, and then advanced on Osaka together with Ieyasu. This time, as you all well know, there were extremely fierce battles. **Left Page** **Margin:** Supplementary Issue No. 3,984 of Sanyo Shimbun (Published February 13, Meiji 45) **Main Text** **Fall of the Toyotomi Clan** The result was ultimately the defeat of the Osaka side, and on May 8th of that year, beginning with Hideyori and his mother, they set fire to Osaka Castle and committed suicide, leading to the complete destruction of the Toyotomi clan. **Shōkurō Tadakazu** In this campaign too, Matsudaira Tadatoshi participated and was attached to Tokugawa Yorinobu's forces. At this time, Tadatoshi had a younger brother named Shōkurō Tadakazu, who ultimately died in battle. Since his conduct was truly admirable, I will excerpt that passage from the records in "Hankanfu" below: Tadatoshi's younger brother was called Shōkurō Tadakazu and served the Shogun's house. When the Osaka military disturbance arose again, he told his colleagues: "When this military campaign ends, there will be no more warfare in the realm. How fortunate that Tadakazu follows in the Shogun's vanguard. I will certainly charge ahead first and follow in the loyal death of my forefathers." In the battle of May 7th, true to his word, he charged foremost and died in battle at the age of 26. This reference to "the loyal death of forefathers" refers to how Yoshikage, Koretada, and Ietada - three generations of this house - died consecutively for their lord, as I mentioned earlier. Tadakazu, who was Ietada's son, was clearly inspired and motivated by this. While I do not advocate merely making light of death, the fact that this family's history produced such a son and Tadakazu's spirit are truly instructive and deserve recognition. In this manner, the Toyotomi clan finally perished and warfare gradually came to an end. In the following second year, on March 27th, Ieyasu was appointed Daijō-daijin (Chancellor of the Realm). However, on the 17th of the following month, he died of illness in Sunpu at the age of 75. **Ieyasu's Death** Nine years later, on July 27th, Hidetada also resigned from the position of Seii Taishogun, and his son Iemitsu succeeded him as Shogun. {Iemitsu becomes Seii Taishogun} At this time, Hidetada went to the capital and had an imperial audience, departing Edo on May 12th and staying at Yoshida on the first day of June. **Hidetada's Resignation** **Hidetada's Journey to the Capital** On this occasion too, the bakufu issued various ordinances to retainers and those in the capital, and the document addressed to the village headmen of both Goyu and Akasaka at this time is still preserved at the Hayashi residence I mentioned earlier. This is also extremely **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 209