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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 119

ページ: 119

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【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十 【本文】       だ趣味(しゆみ)のあるものと思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)げることとする         御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の駄賃馬(だちんうま)申合(もうしあはせ)一ツに被致(いたされ)御登(おんとほり)の時(とき)は赤阪(あかさか)の馬(うま)御油(ごゆ)まて参(まゐり)藤川(ふぢかは)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)御下向(ごけこう)の時(とき)        は御油(ごゆ)ノ馬(うま)赤阪(あかさか)まて参(まゐり)吉田(よしだ)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)往還(わうくわん)の衆(しう)駄賃馬(だちんうま)借候(かりそうら)ハぬ様(やう)ニと従御公儀(ごこうぎより)被仰付候間(あふせつけられそろあひだ)如此(かくのごとくに)         候(そろ)以上(いじよう)          元 和 九 亥             五月廿九日              御  油  町              赤  阪  町                   庄     屋        右(みぎ)の内(うち)で庄屋(せうや)と云ふ事のあるのは頗(すこぶ)る注意(ちうい)すべきで庄屋(せうや)と云ふ事は此(この)時代(じだい)より余(あま)り古(ふる)くは見当(みあた)らぬ事       であると思(おも)ふ 寛永と改元  而(しか)して此(この)元和(げんな)と云ふ年号(ねんごう)は九年迄で寛永(かんえい)と改(あらた)まつたのであるが之(これ)からが即(すなは)ち三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の代(だい)と相成(あひな) 利忠卒す  つた訳(わけ)で吉田城主(よしだじようしゆ)の忠利(たゞとし)は其(その)寛永(かんえい)九年の五月五日に至(いた)つて病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである其後(そののち)は仝年の八月 《割書:子忠房襲封|刈屋に移さ|る》  十一日に子(こ)の忠房(たゞふさ)が相続(さうぞく)したが同時(どうじ)に刈屋(かりや)へ移封(いほう)せらるゝ事となつて此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た僅(わづか)に在城(ざいじよう)廿       一年 許(ばかり)で吉田(よしだ)を去(さ)るに至(いた)つたのであるソコで此(この)忠利(たゞとし)の略歴(りやくれき)は徳川実記(とくがはじつき)寛永(かんえい)九年八月十一日の条(くだり)に記(しる)し       てあるが之(これ)は甚(はなは)だ簡明(かんめい)であると思(おも)ふから亦(ま)た此処(こゝ)に抄出(しようしゆつ)する事とする 《割書:徳川実記の|記事》   十一日  三河国(みかはのくに)吉田城主(よしだじようしゆ)松平主殿頭忠利(まつだひらとのものかみたゞとし)卒(そつ)しけば其(その)子(こ)五郎八 忠房(たゞふさ)遺領(ゐれう)三万石をつぎて吉田(よしだ)を転(てん)じ         同州(どうしう)刈屋城主(かりやじようしゆ)とせらる此(この)忠利(たゞとし)は庚子(こうし)の乱(らん)に伏見城(ふしみじよう)にて討死(うちじに)せし主殿頭家忠(とのものかみいへたゞ)が子(こ)なり慶長(けいちよう)元年(がんねん)台徳院(たいとくゐん) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         殿(でん)御前(おんまへ)にて元服(げんぷく)し御(おん)一 字(じ)賜(たま)はり忠俊(たゞとし)と名乗(なの)り後(のち)に忠利(たゞとし)に改(あらた)む父(ちゝ)が討死(うちじに)せしときは未(いま)だ又(また)八 郎(らう)とて関(くわん)         東(とう)の御陣(ごぢん)に随(したが)ひて小美川(こみがは)の城(しろ)を守(まも)り明(あけ)る慶長(けいちよう)六年二月 深溝(ふかうず)を賜(たまは)りて再(ふたゝ)び累代相伝(るいだいさうでん)の地(ち)に移(うつ)り一万石        を領(れう)す九年六月廿二日 叙爵(ぢよしやく)し主殿頭(とのものかみ)と称(せう)し十七年十一月十二日 今(いま)の城(しろ)賜(たまは)り加恩(かおん)ありて三万石になさ        る十九年 大坂(おほさか)の戦(たゝかひ)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り尼崎城(あまがさきじよう)を守(まも)り元和(げんな)元年(がんねん)大坂(おほさか)の役(えき)には頼宣卿(よりのぶきよう)に付(つき)そひまいらせ出陣(しゆつぢん)        し七年 女御入内(ぢよごにふない)の供奉(ぐぶ)を勤(つと)めその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り還御(くわんぎよ)の時(とき)閏(うるふ)八月十四日 居城(きよじよう)吉田(よしだ)に至(いた)らせ給(たま)        ひ忠利(たゞとし)国次(くにつぐ)の脇差(わきざし)を献(けん)じ此(この)年(とし)五十一歳にて卒(そつ)せしなり        右(みぎ)の内(うち)でその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)りとあるが之(これ)はこの年(とし)即(すなは)ち元和(げんな)九年を指(さ)したものでなくてはならぬ        将軍(せうぐん)秀忠(ひでたゞ)の女(ぢよ)が女御(ぢよご)として入内(にふない)したのは元和(げんな)七年で当時(とうじ)忠利(たゞとし)は其(その)供奉(ぐぶ)として随行(ずゐこう)したものに相違(さうゐ)ない 《割書:秀忠東帰吉|田に過る》  のであるが秀忠(ひでたゞ)の上洛(じようらく)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く元和(げんな)九年の事で之(これ)にも矢張(やはり)忠利(たゞとし)は随行(ずゐこう)したのである而(しか)し       て秀忠(ひでたゞ)東帰(とうき)の時(とき)は閏(うるふ)八月十四日に此(この)吉田城(よしだじよう)に過(よぎ)つて其(その)節(せつ)忠利(たゞとし)からは国次(くにつぐ)の刀(かたな)を献(けん)じたものと見(み)へる元       和九年の八月には閏(うるふ)があつたが元和(げんな)七年の八月には閏(うるふ)はなかつたのであるからドウしても此(この)事(こと)は元和       九年の事で徳川実記(とくがはじつき)に「その年」としてあるのは何(なん)だか前文(ぜんぶん)の続(つゞ)きから見(み)て元和(げんな)七年の事(こと)のように見(み)へ       るがそれは事実(じゞつ)の上(うへ)からそうではない事が分(わか)ると信(しん)ずるのである 丙辰紀行   次(つぎ)に此(この)忠利(たゞとし)が吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける此(この)地(ち)の状況(ぜうけう)等(とう)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)したく思(おも)ふのであるが先(ま)づ        元和(げんな)二年 林道春(はやしどうしゆん)の丙辰紀行(へいしんきこう)の中(なか)に         吉田(よしだ) 江戸(えど)より京(けう)までの間(あひだ)に大橋(おほはし)四あり武蔵(むさし)の六 郷(ごう)、 三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)、 近江(あふみ)の勢多(せた)なり独(ひと)り矢矧(やはぎ)        のみ土橋(どばし)なれば洪水(こうすゐ)によりて絶(たへ)る事もあり此(この)比(ころ)新(あらた)に板橋(いたばし)となりけるにや 吉田の大橋 と云ふ事が書(か)いてあるモツトモ其(その)頃(ころ)東海道(とうかいどう)の大河(たいが)は孰(いづ)れも渡(わた)しで橋(はし)と云ふものはなかつたのであるが 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十 【本文】 だ興味のあるものと思うので、左にその全文を掲げることとする。 「御油・赤坂両町の駄賃馬申し合わせ一つに致され、御登りの時は赤坂の馬御油まで参り、藤川まで付け申すべく候。御下向の時は御油の馬赤坂まで参り、吉田まで付け申すべく候。往還の衆駄賃馬借り候わぬようにと、御公儀より仰せ付けられ候間、このごとくに候。以上  元和九亥   五月二十九日    御油町    赤坂町      庄屋」 右の内で庄屋ということがあるのは頗る注意すべきで、庄屋ということはこの時代よりあまり古くは見当たらぬことであると思う。 寛永と改元  そしてこの元和という年号は九年までで寛永と改まったのであるが、これからが即ち三代将軍家光の代ということになった訳で、吉田城主の忠利はその寛永九年の五月五日に至って病を以って卒したのである。 利忠卒す  その後は同年の八月十一日に子の忠房が相続したが、同時に刈屋へ移封されることとなって、この深溝松平氏もまたわずかに在城二十一年許りで吉田を去るに至ったのである。 《子忠房襲封 刈屋に移さる》 そこでこの忠利の略歴は『徳川実記』寛永九年八月十一日の条に記してあるが、これは甚だ簡明であると思うので、またここに抄出することとする。 《徳川実記の記事》 「十一日 三河国吉田城主松平主殿頭忠利卒しければ、その子五郎八忠房遺領三万石を継いで吉田を転じ、同州刈屋城主とせらる。この忠利は庚子の乱に伏見城にて討死せし主殿頭家忠が子なり。慶長元年台徳院 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は、その博識なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 殿御前にて元服し、御一字賜わり忠俊と名乗り、後に忠利に改む。父が討死せし時は未だまた八郎とて、関東の御陣に従いて小美川の城を守り、明ける慶長六年二月深溝を賜わりて再び累代相伝の地に移り一万石を領す。九年六月二十二日叙爵し主殿頭と称し、十七年十一月十二日今の城賜わり加恩ありて三万石になさる。十九年大坂の戦いに従い奉り尼崎城を守り、元和元年大坂の役には頼宣卿に付き添い参らせ出陣し、七年女御入内の供奉を勤め、その年御上洛に従い奉り、還御の時閏八月十四日居城吉田に至らせ給い、忠利国次の脇差を献じ、この年五十一歳にて卒せしなり」 右の内でその年御上洛に従い奉りとあるが、これはこの年即ち元和九年を指したものでなくてはならぬ。将軍秀忠の女が女御として入内したのは元和七年で、当時忠利はその供奉として随行したものに相違ないのである。 《秀忠東帰吉田に過る》 が、秀忠の上洛は前にも申し述べたように元和九年のことで、これにもやはり忠利は随行したのである。そして秀忠東帰の時は閏八月十四日にこの吉田城に寄って、その節忠利からは国次の刀を献じたものと見える。元和九年の八月には閏があったが、元和七年の八月には閏はなかったのであるから、どうしてもこのことは元和九年のことで、『徳川実記』に「その年」としてあるのは何だか前文の続きから見て元和七年のことのように見えるが、それは事実の上からそうではないことが分かると信ずるのである。 丙辰紀行  次にこの忠利が吉田城主たりし時代におけるこの地の状況等について少しく御話ししたく思うのであるが、先ず元和二年林道春の『丙辰紀行』の中に 「吉田 江戸より京までの間に大橋四あり。武蔵の六郷、三河の吉田、矢作、近江の勢多なり。独り矢作のみ土橋なれば洪水によりて絶える事もあり。この頃新たに板橋となりけるにや」 吉田の大橋 ということが書いてある。もっともその頃東海道の大河はいずれも渡しで、橋というものはなかったのであるが 【欄外】 豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十一

英語訳

**Toyohashi City Historical Discourse** (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 210 **Main Text** quite interesting, so I will present the full text below: "Agreement for pack horse charges between Goyu and Akasaka towns: When going up [to Kyoto], Akasaka horses shall come to Goyu and accompany [travelers] to Fujikawa. When going down [from Kyoto], Goyu horses shall come to Akasaka and accompany [travelers] to Yoshida. As ordered by the government office that travelers on the highway should not borrow pack horses [at random], it is thus arranged. The above. Genna 9, Year of the Boar May 29th Goyu Town Akasaka Town Village Headmen" The appearance of "village headmen" (shōya) in the above is quite noteworthy, as I believe the term "shōya" cannot be found much earlier than this period. **Change of Era to Kan'ei** The era name Genna lasted until the 9th year and then changed to Kan'ei, which marked the beginning of the reign of the third Shogun Iemitsu. The lord of Yoshida Castle, Tadatoshi, died of illness on May 5th of Kan'ei 9. **Tadatoshi's Death** Afterwards, on August 11th of the same year, his son Tadafusa succeeded him, but was simultaneously transferred to Kariya, so this Fukōzu branch of the Matsudaira clan also left Yoshida after only about twenty-one years of residence. **Son Tadafusa Inherits and is Transferred to Kariya** The brief biography of this Tadatoshi is recorded in the "Tokugawa Jikki" under the entry for August 11th, Kan'ei 9, which I think is quite concise, so I will excerpt it here as well. **Record from Tokugawa Jikki** "11th day: When Matsudaira Tonomonokami Tadatoshi, lord of Yoshida Castle in Mikawa Province, died, his son Gorōhachi Tadafusa inherited the estate of 30,000 koku, was transferred from Yoshida, and made lord of Kariya Castle in the same province. This Tadatoshi was the son of Tonomonokami Ietada, who died in battle at Fushimi Castle during the Kōshi Rebellion. In the first year of Keichō, he came of age in the presence of Taitokuin-dono **Margin:** Mayor of Toyohashi, Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Shimbun. **Main Text** [Lord], received one character from his name, and was called Tadatoshi, later changing it to Tadatoshi. When his father died in battle, he was still called Hachirō, followed the eastern campaign, and defended Komigawa Castle. In February of the following year, Keichō 6, he received Fukōzu and returned to the hereditary lands of his ancestors, ruling 10,000 koku. On June 22nd of the 9th year he was ennobled and called Tonomonokami. On November 12th of the 17th year he received the present castle with additional favor, making it 30,000 koku. In the 19th year he participated in the Osaka campaign and defended Amagasaki Castle. In the first year of Genna, during the Osaka campaign, he accompanied Lord Yorinobu and went to battle. In the 7th year he served in the retinue for the imperial consort's entry into the palace, followed the journey to the capital that year, and when returning, on the 14th day of intercalary 8th month, [the Shogun] arrived at his castle of Yoshida, and Tadatoshi presented a wakizashi by Kunitsugu, dying at the age of 51 in this year." In the above passage, "followed the journey to the capital that year" must refer to Genna 9. The daughter of Shogun Hidetada entered the palace as imperial consort in Genna 7, and Tadatoshi certainly accompanied her as part of the retinue at that time. **Hidetada's Return East, Passing Through Yoshida** However, Hidetada's journey to the capital was in Genna 9, as I mentioned earlier, and Tadatoshi accompanied him on this occasion as well. When Hidetada returned east, he stopped at Yoshida Castle on the 14th day of intercalary 8th month, and Tadatoshi appears to have presented him with a sword by Kunitsugu. Since there was an intercalary 8th month in Genna 9 but no intercalary 8th month in Genna 7, this event must have occurred in Genna 9. While the reference to "that year" in the Tokugawa Jikki seems to suggest it was Genna 7 based on the preceding text, I believe the facts show this was not the case. **Heishin Kikō** Next, I would like to discuss the conditions of this area during the time when Tadatoshi was lord of Yoshida Castle. First, in Hayashi Dōshun's "Heishin Kikō" from Genna 2, it states: "Yoshida: Between Edo and Kyoto there are four great bridges - Rokugō in Musashi, Yoshida and Yahagi in Mikawa, and Seta in Ōmi. Only Yahagi is an earthen bridge, so it sometimes gets washed away by floods. Has it recently been made into a plank bridge?" **The Great Bridge of Yoshida** This is what is written. Of course, at that time all the great rivers along the Tōkaidō were crossed by ferry, and there were no bridges, **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 211