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【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十二
【本文】
橋(はし)の有(あ)つたのは只(たゞ)武蔵(むさし)の六 郷(ごう)と三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)と近江(あふみ)の勢多(せた)の橋(はし)との四つ丈(だけ)であつた而(しか)して此(この)四 大(だい)
橋(けう)は徳川時代(とくがはじだい)となつては孰(いづ)れも公儀(こうぎ)の普請(ふしん)で所在地(しよざいち)の領主(れうしゆ)丈(だけ)の負担(ふたん)ではなかつたのであるから中々(なか〳〵)「
ヤカマシイ」ものであつたのである即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)の大橋(おほはし)と云ふものは当時(とうじ)天下(てんか)に能(よ)く知(し)られたもので譬(たと)
へば名古屋(なごや)が城(しろ)で代表(だいひよう)して居(を)る如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)は大橋(おほはし)で代表(だいひよう)したものである従(したがつ)て此(この)橋(はし)の歴史(れきし)に就(つい)ての研(けん)
究(きう)並(ならび)に将来(せうらい)に於(お)ける保存(ほぞん)等(とう)に関(くわん)しては頗(すこぶ)る考慮(こうりよ)を要(えう)すべき事で郷土史(けうどし)に取(と)つては中々(なか〳〵)関係(くわんけい)の深(ふか)いもの
であると思(おも)ふ併(しか)し此(この)橋(はし)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてあるので之(こ)れまでの来歴(らいれき)は大概(たいがい)御承知(ごせうち)になつて居(を)る
事であると思(おも)ふが徳川時代(とくがはじだい)に入(い)つてから橋普請(はしふしん)のあつた其(その)都度(つど)々々の事は幸(さいはひ)に大字(おほあざ)船町(ふなまち)に其(その)記録(きろく)が残(のこ)
《割書:あつまの道|の記》 つて居(を)るから漸次(ぜんじ)其(その)時々(とき〳〵)に方(あた)つて詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる事に致(いた)したい考(かんがへ)である又(ま)た元和(げんな)四年 烏丸光広卿(からすまるみつひろけう)が
記(しる)されたもので「あつまの道(みち)の記(き)」と云ふのがあるが其(その)中(なか)にも
大岩(おほいは)といふ所(ところ)を通(とほ)る山上(さんぜう)に大(たい)なるいはほありよりて名(な)つくも見(み)えたり海道(かんどう)の坤(ひつじさる)にあたりて吉田(よしだ)の
大橋(おほはし)といふ九十八 間(けん)あり城(しろ)は外(そと)へ見(み)えず大岩(おほいは)に行(ゆく)ほと山(やま)の頭(あたま)にえほうしを着(きせ)たるやうなるあり其(その)山(やま)
の東(ひがし)に比叡山(ひえいざん)に其(その)まゝ似(に)たる山(やま)あり南(みなみ)は志賀(しが)北(きた)は比良(ひら)のすこしたひなるものなり
城の建築 と云(い)ふ事(こと)が記(しる)してあるが之(これ)で見(み)ると此(この)当時(とうじ)は城中(じようちう)の建物(たてもの)は外(ほか)から見(み)へなかつたものと思(おも)はれるモツト
モ当時(とうじ)の橋(はし)の位置(ゐち)は兼(かね)て申述(もうしの)べて置(お)いた通(とほ)り今日(こんにち)の位置(ゐち)からは二三丁も下流(かりう)の処であつたのではある
が維新前(ゐしんぜん)などにハ橋(はし)の上(うへ)から吉田城(よしだじよう)の入道櫓(にふどうやぐら)が見(み)へた筈(はづ)である又(ま)た今日(こんにち)でも旧城(きうじよう)の本丸(ほんまる)に当(あた)る処の陸(りく)
軍倉庫(ぐんさうこ)ハ橋(はし)から明(あきらか)に望(のぞ)み得(う)るのであるから結局(けつきよく)此(この)当時(とうじ)と云ふものは此(この)あつまの道(みち)の記(き)によると後世(こうせ)
のものとは余程(よほど)城(しろ)の建築(けんちく)が違(ちが)つて居(を)つたものである事が分(わか)ると思(おも)ふ而(しか)して尚(なほ)一つ此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)申(もう)して
《割書:小堀遠州と|忠利の親交》 置(を)きたいのは彼(か)の小堀遠江守宗甫(こぼりとほとふみのかみそうほ)の紀行(きこう)で之(これ)は元和(げんな)七年九月の記(き)であるが其(その)中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)がある
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百九十号附録 (明治四十五年二月二十日発行)
【本文】
風(かぜ)はけしければこしに乗(のつ)て一 睡眠(すゐみん)夢(ゆめ)さめて問(と)はばや吉田(よしだ)の里(さと)にも着(つき)ぬと云ふ夢中(むちう)にはる〳〵の道(みち)を
も来(き)ぬる事よと思(おも)ひて
夢(ゆめ)とてもよしや吉田(よしだ)の里(さと)ならん
さめてうつゝもうきたひの道(みち)
此(この)宿(しゆく)に知(し)る人ありてしは〳〵語(かた)る此(この)所(ところ)の城主(じようしゆ)ことに我親(われした)しき人なれば立寄(たちより)て対面(たいめん)せむ事をいひやる
城守(ぜうしゆ)例(れい)ならぬによりて京(けう)へといふそこを過(すぎ)て橋(はし)を渡(わた)りてこさかひと云(い)ふ所(ところ)に着(つき)ぬ
之(これ)で見(み)ると此(この)小堀遠州(こほりゑんしう)と忠利(たゞとし)とは余程(よほど)親交(しんかう)のあつたものと見(み)へる従(したがつ)て忠利(たゞとし)の平生(へいぜい)も何(なん)となく想像(さう〴〵)が出(で)
来(き)るように思(おも)はるゝのである
《割書:鍛 冶 町|の 移 転》 又(ま)た鍛冶町(かぢまち)の事であるが幸(さいはひ)に当市内(たうしない)の大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には色々(いろ〳〵)古(ふる)い書付(かきつけ)が残(のこ)つて居る其中(そのなか)に鍛冶町覚書(かぢまちおぼへがき)と云
ふものがあつて之(これ)は延享(えんけう)頃(ころ)の記録(きろく)であるが兎(と)に角(かく)其中(そのうち)に左(さ)の記事(きじ)があるのである
当町(たうてう)義(ぎ)は鍛冶(かぢ)二十 軒斗(けんばかり)元鍛冶町(もとかぢまち)に住居(ぢうきよ)仕候処也(つかまつりそろところなり)百弐拾 余年(よねん)戊午年(つちのえうまとし)の御城主(ごぜうしゆ)松平主殿守殿(まつだひらとのものかみどの)為御(ごぜう)
上意(いのため)通(とほ)り筋(すぢ)え罷出候様(まかりいでそろやう)にと被為仰付(おほせつけられ)依之(これによつて)御助米(おんたすけまい)頂戴仕候(てうだいつかまつりそろはゞ)又(また)為御褒美(ごほうびのため)当町(たうてう)へ月(つき)六 斉(さい)の市(いち)を被(おほ)
為仰付候(せつけられそろ)
元鍛冶町 之(これ)で見(み)ると今(いま)の鍛冶町(かぢまち)と云ふものは此(この)忠利(たゞとし)が経営(けいえい)せしめたものゝようであるが其内(そのうち)に元鍛冶町(もとかぢまち)とある
のは即(すなは)ち今(いま)の大字(おほあざ)吉屋(よしや)で初(はじ)め其処(そこ)に鍛冶職(かぢしよく)を多(おほ)く集(あつ)め住(じう)せしめたのは即(すなは)ち池田輝政(いけだてるまさ)であると云ふ事は
伝説口碑(でんせつこうひ)に伝(つた)へられて居(を)る事である成程(なるほど)之(これ)は如何(いか)にもと思(おも)はれるが輝政(てるまさ)は前(まへ)にも数々(しば〳〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く今(いま)
の八 町通(てうとほり)を開鑿(かいさく)して士族町(しぞくまち)を拡張(くわくてう)し従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)の如(ごと)きはズツト片隅(かたすみ)に寄(よ)せて集(あつ)めたものであつた事(こと)と
思(おも)はれる然(しか)るに其後(そのご)譜代(ふだい)の小(ちい)さい諸侯(しよこう)が此(この)地(ち)に来(き)た処(ところ)で輝政(てるまさ)の計劃(けいくわく)した如(ごと)き大規模(だいきぼ)の城廓(ぜうくわく)は不用(ふよう)と相(あひ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十二
【本文】
橋があったのは、ただ武蔵の六郷と三河の吉田、矢作と近江の勢多の橋との四つだけであった。そしてこの四大橋は徳川時代となってはいずれも公儀の普請で、所在地の領主だけの負担ではなかったのであるから、なかなか「やかましい」ものであったのである。即ちこの吉田の大橋というものは当時天下によく知られたもので、譬えば名古屋が城で代表しているように、この吉田は大橋で代表したものである。従ってこの橋の歴史についての研究並びに将来における保存等に関しては頗る考慮を要すべきことで、郷土史にとってはなかなか関係の深いものであると思う。
しかしこの橋については、これまで度々申し述べてあるので、これまでの来歴は大概御承知になっていることであると思うが、徳川時代に入ってから橋普請のあったその都度々々のことは、幸いに大字船町にその記録が残っているから、漸次その時々に当たって詳しく申し述べることにしたい考えである。
あづまの道の記 また元和四年烏丸光広卿が記されたもので「あづまの道の記」というのがあるが、その中にも
「大岩という所を通る。山上に大なる巌ありよりて名づくも見えたり。海道の坤にあたりて吉田の大橋という九十八間あり。城は外へ見えず。大岩に行くほど山の頭に絵帽子を着たるようなるあり。その山の東に比叡山にそのまま似たる山あり。南は志賀、北は比良の少し小さなるものなり」
城の建築 ということが記してあるが、これで見るとこの当時は城中の建物は外から見えなかったものと思われる。もっとも当時の橋の位置は、かねて申し述べて置いた通り、今日の位置からは二、三町も下流の処であったのであるが、維新前などには橋の上から吉田城の入道櫓が見えた筈である。また今日でも旧城の本丸に当たる処の陸軍倉庫は、橋から明らかに望み得るのであるから、結局この当時というものは、この「あづまの道の記」によると、後世のものとは余程城の建築が違っていたものであることが分かると思う。
小堀遠州と忠利の親交 そして尚一つここに御紹介申して置きたいのは、彼の小堀遠江守宗甫の紀行で、これは元和七年九月の記であるが、その中に左のような事がある。
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百九十号附録 (明治四十五年二月二十日発行)
【本文】
「風は激しければ輿に乗って一眠り。夢さめて問わばや吉田の里にも着きぬという。夢中にはるばるの道をも来ぬることよと思いて
夢とてもよしや吉田の里ならん
さめてうつつもうき旅の道
この宿に知る人ありてしばしば語る。この所の城主ことに我親しき人なれば立ち寄りて対面せん事をいいやる。城守例ならぬにより京へという。そこを過ぎて橋を渡りて小境という所に着きぬ」
これで見ると、この小堀遠州と忠利とは余程親交があったものと見える。従って忠利の平生も何となく想像が出来るように思われるのである。
鍛冶町の移転 また鍛冶町のことであるが、幸いに当市内の大字鍛冶には色々古い書付が残っている。その中に「鍛冶町覚書」というものがあって、これは延享頃の記録であるが、とにかくその中に左の記事があるのである。
「当町義は鍛冶二十軒ばかり元鍛冶町に住居仕り候処なり。百二十余年戊午年の御城主松平主殿守殿御上意のため、通り筋へ罷り出で候ようにと仰せ付けられ、これによって御助米頂戴仕り候。また御褒美のため当町へ月六斎の市を仰せ付けられ候」
元鍛冶町 これで見ると、今の鍛冶町というものはこの忠利が経営せしめたもののようであるが、その内に「元鍛冶町」とあるのは即ち今の大字吉屋で、初めそこに鍛冶職を多く集め住ませたのは即ち池田輝政であるということは、伝説口碑に伝えられていることである。なるほどこれは如何にもと思われるが、輝政は前にも数々申し述べたように、今の八町通りを開削して士族町を拡張し、従って鍛冶職のようなものはずっと片隅に寄せて集めたものであった事と思われる。然るにその後譜代の小さい諸侯がこの地に来た処で、輝政の計画したような大規模の城郭は不用と相
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十三
英語訳
**Toyohashi City Historical Discourse** (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 212
**Main Text**
The only bridges that existed were just these four: Rokugō in Musashi, Yoshida and Yahagi in Mikawa, and Seta in Ōmi. During the Tokugawa period, all four of these great bridges were constructed by the government office and were not the sole financial responsibility of the local lords, making them quite "troublesome" affairs. This great bridge of Yoshida was well-known throughout the realm at the time - just as Nagoya is represented by its castle, Yoshida was represented by its great bridge. Therefore, research into the history of this bridge and considerations regarding its preservation in the future are matters requiring considerable attention, and I believe they have quite deep connections to local history.
However, since I have mentioned this bridge many times before, I think you are generally familiar with its history up to this point. Fortunately, records of each bridge repair during the Tokugawa period remain in the Funamachi district, so I plan to discuss these occasions in detail as we proceed chronologically.
**Record of the Eastern Road** There is also a work called "Record of the Eastern Road" written by Karasumaru Mitsuhiro in Genna 4, which contains the following passage:
"Passing through a place called Ōiwa. There appears to be a great rock on the mountaintop from which the name derives. On the southwestern side of the highway is the great bridge of Yoshida, measuring 98 ken. The castle cannot be seen from outside. Going toward Ōiwa, there are mountains that look like they are wearing painted caps. To the east of those mountains is a mountain that closely resembles Mount Hiei. To the south are smaller versions of Shiga, and to the north smaller versions of Hira."
**Castle Architecture** From this account, it appears that the castle buildings could not be seen from outside during this period. Although the bridge's position at that time was, as I have mentioned before, two or three chō downstream from today's location, even before the Restoration one should have been able to see Yoshida Castle's Nyūdō turret from the bridge. Even today, the army warehouse at the site of the old castle's main bailey can be clearly seen from the bridge, so ultimately, according to this "Record of the Eastern Road," the castle's architecture at that time was quite different from later periods.
**Friendship between Kobori Enshū and Tadatoshi** I would also like to introduce the travel record of Kobori Tōtōmi-no-kami Sōho, which dates from September of Genna 7 and contains the following passage:
**Left Page**
**Margin:** Supplement to Sanyō Shimbun No. 3990 (Published February 20, Meiji 45)
**Main Text**
"The wind was fierce, so I rode in a palanquin and took a nap. When I awoke and inquired, I found we had reached the village of Yoshida. In my dream I thought how far we had come on this long journey:
Even if a dream, well then, let it be Yoshida village -
Waking to reality is still this sorrowful journey
There was someone I knew at this lodging who spoke at length. The lord of this place is particularly close to me, so I suggested we stop and meet. He said the castle lord was indisposed and heading to Kyoto. We passed that place, crossed the bridge, and arrived at a place called Kozakai."
From this we can see that Kobori Enshū and Tadatoshi had quite a close friendship. This allows us to somewhat imagine what Tadatoshi's daily life was like.
**Relocation of Blacksmith Town** Regarding blacksmith town, fortunately various old documents remain in the Kaji district within our city. Among them is something called "Blacksmith Town Memorandum," a record from around the Enkyō period, which contains the following passage:
"This town consisted of about twenty blacksmith households living in the former blacksmith town. Over 120 years ago, in the Year of the Earth Horse, by order of the castle lord Matsudaira Tonomono-kami, we were commanded to move out to the main street. For this we received assistance rice. Also as a reward, we were granted a market six days per month in this town."
**Former Blacksmith Town** From this it appears that the present blacksmith town was established under Tadatoshi's management. The "former blacksmith town" mentioned refers to present-day Yoshiya district, where blacksmiths were initially gathered and settled in large numbers by Ikeda Terumasa, according to oral tradition and legend. This certainly seems plausible, as Terumasa, as I have mentioned several times before, excavated what is now Hatchō-dōri to expand the samurai residential area, and consequently moved craftsmen like blacksmiths to the outskirts where they were concentrated together. However, when the small hereditary daimyō later came to this area, such large-scale castle fortifications as Terumasa had planned became unnecessary, and
**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Transfer of Matsudaira Tadatoshi) 213