Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 121

ページ: 121

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十四 【本文】        成(な)つたのであるから延(し)いては市中(しちう)の計劃(けいくわく)にも多少(たせう)の変化(へんくわ)を認(みと)むるに至(いた)つたのである従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)に対(たい)し       ても段々(だん〳〵)と大通(おほどほ)りへ出(で)る事を許(ゆる)したものと信(しん)せられるのであるモツトモ此(この)鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)の大通(おほどほ)りへ出(だ)し       たのは水野監物(みづのけんぶつ)の時代(じだい)であると云(い)ふ説(せつ)が三 州吉田記(しうよしだき)に記(しる)してあるが之(これ)は果(はた)して何(なに)に拠(よ)つて記(しる)したもの       であるか分(わか)り兼(か)ぬるのである因(よつ)て私(わたくし)は更(さら)に此(この)鍛冶町(かぢまち)に伝(つたは)つて居る説(せつ)を申述(まをしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんかう)ニ供(けう)せむ       とした次第(しだい)である       サテ松平忠利(まつだひらたゞとし)は寛永(かんえい)九 年(ねん)五月五日に病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)し其(その)八月十一日 子(こ)の忠房(たゞふさ)が遺領(ゐれう)二万 石(ごく)を続(つ)いだが仝時(どうじ)       に刈屋城(かりやぜう)に移封(いほう)された事は前(まへ)に申述(まをしのべ)た如(ごと)くであるが之と交代(かうたい)に此(この)吉田城(よしだぜう)に来(き)たのは矢張(やはり)之迄(これまで)刈屋(かりや)に居(を) 《割書:水野忠清刈|屋より此地》  つた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)である即(すなは)ち忠房(たゞふさ)と忠清(たゞきよ)とは全(まつた)く其(その)領地(れうち)を交代(かうたい)した訳(わけ)であるが之(これ)から此(この)水野隼人正(みづのはやとのせう) 《割書:に移封せら|る》  と其(その)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の状況(ぜうけう)に就(つい)て少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)ふ            ⦿水野隼人正 《割書:水野隼人正|忠清松平主》   前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べました如(ごと)く寛永(かんえい)九年八月十一日 松平主殿守忠房(まつだひらとのものかみたゞふさ)は亡父(ぼうふ)松平忠利(まつだひらたゞとし)の後(あと)を継(つ)ぐと同時(どうじ)に同(おな)じ 《割書:殿頭忠房と|交代す》   三河国(みかはのくに)の刈屋(かりや)に移封(いほう)せられ之と交代(かうたい)に水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は刈屋(かりや)より来(きた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)ぜられたの 水野忠政  であるが此(この)忠清(たゞきよ)と云ふ人は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の水野右衛門太夫忠政(みづのうゑもんたいふたゞまさ)の孫(そん)であつて和泉守忠重(いづみのかみたゞしげ) 《割書:家康の実母|伝通院》  の末子(ばつし)である即(すなは)ち此(この)忠政(たゞまさ)は徳川家康(とくがはいへやす)の実母(じつぼ)水野氏(みづのし)の父(ちゝ)であるが当時(たうじ)忠政(たゞまさ)は矢張(やはり)刈屋城(かりやぜう)に居(を)つたので天(てん)        文(ぶん)十二年七月 卒去(そつきよ)したのである然(しか)るに其(その)嫡子(ちやくし)の信元(のぶもと)が家(いへ)を継(つ)いで之(これ)が尾張(をはり)の織田信秀(をだのぶひで)の方(かた)へ欵(くわん)を通(つう)ず       ることとなつたので家康(いへやす)の父(ちゝ)広忠(ひろたゞ)は其(その)頃(ころ)今川氏(いまがはし)無(む)二の方人(かとうど)であつた処(ところ)から甚(はなは)だ安(やす)からざる振舞(ふるまひ)であると       なして遂(つひ)に其(その)妻(つま)たる水野氏(みづのし)を離別(りべつ)し之を刈屋(かりや)へ送(おく)り皈(かへ)したのである之が久松家(ひさまつけ)に再嫁(さいか)したが前(まへ)にも度(たび) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 水野忠重   度(〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く後(のち)に伝通院(でんだうゐん)と云はれたのである而(しか)して此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の父(ちゝ)忠重(たゞしげ)は云ふ迄(まで)もなく其(その)兄弟(けだうい)で        信元(のぶもと)には弟(おとゝ)になるのであるが余(あま)り兄弟(けうてい)中(なか)がよくなく自(みづか)らは鷲塚(わしづか)と云ふ処(ところ)に居(を)つたが常(つね)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)し       て殊(こと)に家康(いへやす)には忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのである其後(そのご)天正(てんせう)三年に至(いた)つて信元(のぶもと)が討(う)たれたので其(その)八 年(ねん)九月 父祖累代(ふそるゐだい)       の地(ち)刈屋城(かりやぜう)に居ることとなつたが晩年(ばんねん)に何故(なにゆゑ)か豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従(したが)ひ慶長(けいてう)五 年(ねん)石田三成(いしだみつなり)が兵(へい)を挙(あ)げた時(とき)池鯉鮒(ちりう)       の宿(しゆく)で加々井彌(かがゐや)八 郎秀盛(らうひでもり)の為(ため)に打(う)たれて年(とし)六■歳(さい)で死(し)むだのである忠清(たゞきよ)は其(その)四 男(なん)で末子(ばつし)であるが慶長(けいてう)       七年の春(はる)徳川秀忠(とくがはひでたゞ)に附(ふ)せられ御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)となり叙爵(ぢよじやく)して奏者(そうしや)の事を兼(か)ね大坂(おほさか)の両役(れうえき)に従(したが)つたが元和(げんわ)二       年四月三日 家康(いへやす)が病(やまひ)愈々(いよ〳〵)急(きふ)であつた時(とき)忠清(たゞきよ)を召(め)して父祖累代(ふそるゐだい)の旧領(きうれう)であるからと云(い)ふので刈屋城(かりやぜう)二万        石(ごく)を与(あた)へたのである而(しか)して今度(こんど)イヨ〳〵此(この)吉田城(よしだぜう)四万 石(ごく)に移封(いほう)せられたと云ふ訳(わけ)であるのである 忠清加増   程(ほど)なく寛永(かんえい)十一年八月十一日に領地(れうち)五千 石(ごく)の加増(かぞう)があつたが之(これ)より先(さ)き此年(このとし)の六月廿日に将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は 《割書:将軍家光の|上洛》   江戸(えど)を発(はつ)して上洛(ぜうらく)したのであるが其時(そのとき)の供奉(ぐぶ)と云ふものは中々(なか〳〵)盛(さかん)なもので六月 朔日(つひたち)には既(すで)に伊達政宗(だてまさむね)       が先発(せんぱつ)として出発(しゆつぱつ)し大名(だいめい)小名(せうめう)前後(ぜんご)の士卒(しそつ)は凡(およ)そ卅 万(まん)七千 余人(よにん)と云ふのであつたが水戸(みと)の頼房卿(よりふさけう)が後陣(ごぢん)       で例(れい)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづみのかみのぶつな)は此(この)時(とき)既(すで)に宿老(しゆくらう)の列(れつ)に入(い)つて居つたので道中(だうちう)に於(お)ける種々(しゆ〳〵)の事を指揮(しき)したので 《割書:吉田宿泊当|時の出来事》  ある此(この)時(とき)将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は七月 朔日(つひたち)に浜松(はままつ)に宿(しゆく)し二日には其(その)諏訪神社(すはうじんしや)を拝(はい)して新(あらた)に神領(しんれう)二百 石(こく)を寄附(きふ)し此夜(このよ)        吉田(よしだ)に宿泊(しゆく)したのである此(この)時(とき)の事に就(つい)て徳川実記(とくがはじつき)に左(さ)の記事(きじ)がある         申刻(さるのこく)吉田城(よしだぜう)に至(いた)らせられ城主(ぜうしゆ)水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)饗(けう)し奉り左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を下(くだ)さる夜(よ)に入(いり)て尾張大納言義(をはりだいなごんよし)         直卿(なほけう)より家司(かし)竹越山城守正信(たけこしやましろのかみまさのぶ)をして御迎(おんむかひ)の為め奉(たてまつ)らる又(また)水戸中納言頼房卿(みとちうなごんよりふさけう)へは昨日(さくじつ)太田備中守資宗(おほたびつちうのかみすけむね)        もて御存問(ごぞんもん)ありしかば今日(こんにち)使(つかい)奉(たてまつ)り謝(しや)せらる又(また)大宮御使(おほみやおんつかい)とて参(まゐ)りし高橋九兵衛(たかはしきうべゑ)吉田(よしだ)にて発狂(はつけう)し行人(かうじん)        を刃傷(にんぜう)すること三人に及(およ)ぶと雖(いへど)も大宮(おほみや)の御消息(ごせうそく)を持(も)たるにより衆人(しうじん)敢(あゑ)て進(すすみ)よらず時(とき)に加賀瓜甲斐守直(かがうりかひのかみなほ) 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十四 【本文】 なったのであるから、延いては市中の計画にも多少の変化を認めるに至ったのである。従って鍛冶職に対しても段々と大通りへ出ることを許したものと信じられるのである。もっとも、この鍛冶職を今の大通りへ出したのは水野監物の時代であるという説が『三州吉田記』に記してあるが、これは果たして何に拠って記したものであるか分かりかねるのである。よって私は更にこの鍛冶町に伝わっている説を申し述べて諸君の御参考に供せんとした次第である。 さて松平忠利は寛永九年五月五日に病を以って卒し、その八月十一日、子の忠房が遺領二万石を継いだが、同時に刈谷城に移封されたことは前に申し述べた如くであるが、これと交代にこの吉田城に来たのは、やはりこれまで刈谷にいた水野隼人正忠清である。即ち忠房と忠清とは全くその領地を交代した訳であるが、これからこの水野隼人正とその時代における吉田の状況について少しく申し述べることにしたいと思う。 水野隼人正忠清刈谷よりこの地に移封される ⦿水野隼人正 水野隼人正忠清松平主殿頭忠房と交代す 前章に申し述べましたように、寛永九年八月十一日、松平主殿守忠房は亡父松平忠利の後を継ぐと同時に同じ三河国の刈谷に移封され、これと交代に水野隼人正忠清は刈谷より来たってこの吉田の城主に封ぜられたのである。 水野忠政 しかしこの忠清という人は、諸君もよく御承知である彼の水野右衛門太夫忠政の孫であって、和泉守忠重の末子である。即ちこの忠政は徳川家康の実母水野氏の父であるが、当時忠政はやはり刈谷城にいたので、天文十二年七月卒去したのである。然るにその嫡子の信元が家を継いで、これが尾張の織田信秀の方へ款を通ずることとなったので、家康の父広忠はその頃今川氏無二の方人であった処から、甚だ安からざる振舞いであるとなして、遂にその妻たる水野氏を離別し、これを刈谷へ送り帰したのである。これが久松家に再嫁したが、前にも度 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 水野忠重 度々申し述べたように、後に伝通院と言われたのである。そしてこの隼人正忠清の父忠重は、言うまでもなくその兄弟で信元には弟になるのであるが、あまり兄弟中がよくなく、自らは鷲塚という処にいたが、常に徳川方に属して、殊に家康には忠勤を尽くしたのである。その後天正三年に至って信元が討たれたので、その八年九月、父祖累代の地刈谷城に居ることとなったが、晩年に何故か豊臣秀吉に従い、慶長五年石田三成が兵を挙げた時、池鯉鮒の宿で加々井弥八郎秀盛のために打たれて、年六十歳で死んだのである。忠清はその四男で末子であるが、慶長七年の春、徳川秀忠に付せられ御書院番頭となり、叙爵して奏者のことを兼ね、大坂の両役に従ったが、元和二年四月三日、家康が病いよいよ急であった時、忠清を召して「父祖累代の旧領であるから」ということで刈谷城二万石を与えたのである。そして今度いよいよこの吉田城四万石に移封されたという訳であるのである。 忠清加増 程なく寛永十一年八月十一日に領地五千石の加増があったが、これより先きこの年の六月二十日に将軍家光は江戸を発して上洛したのであるが、その時の供奉というものはなかなか盛んなもので、六月朔日には既に伊達政宗が先発として出発し、大名小名前後の士卒は凡そ三十万七千余人というのであったが、水戸の頼房卿が後陣で、例の松平伊豆守信綱はこの時既に宿老の列に入っていたので、道中における種々のことを指揮したのである。 将軍家光の上洛 この時将軍家光は七月朔日に浜松に宿し、二日にはその諏訪神社を拝して新たに神領二百石を寄付し、この夜吉田に宿泊したのである。 吉田宿泊当時の出来事 この時のことについて『徳川実記』に左の記事がある。 「申刻吉田城に至らせられ、城主水野隼人正忠清饗し奉り、左文字の御刀を下さる。夜に入って尾張大納言義直卿より家司竹越山城守正信をして御迎えのため奉らる。また水戸中納言頼房卿へは昨日太田備中守資宗をもって御存問ありしかば、今日使い奉り謝せらる。また大宮御使として参りし高橋九兵衛、吉田にて発狂し、行人を刃傷すること三人に及ぶといえども、大宮の御消息を持たるにより、衆人敢えて進みよらず。時に加賀瓜甲斐守直 【欄外】 豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Hayato-no-shō) 214 **Main Text** came to pass, and consequently some changes were recognized in the city planning as well. Therefore, it is believed that blacksmiths were gradually permitted to move out to the main street. However, there is a theory recorded in the "Record of Yoshida in Three Provinces" that it was during the time of Mizuno Kenbutsu that these blacksmiths were moved to the present main street, but it is unclear what sources this account was based upon. Therefore, I have decided to present the traditions passed down in this blacksmith town for your reference. Now, Matsudaira Tadatoshi died of illness on May 5, Kan'ei 9, and on August 11 of that year, his son Tadafusa inherited the remaining domain of 20,000 koku but was simultaneously transferred to Kariya Castle, as I mentioned previously. In exchange, the one who came to Yoshida Castle was Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo, who had been at Kariya until then. In other words, Tadafusa and Tadakiyo completely exchanged their domains. I would now like to discuss this Mizuno Hayato-no-shō and the situation in Yoshida during his era. **Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo transferred from Kariya to this place** ⦿Mizuno Hayato-no-shō **Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo exchanges with Matsudaira Tonomo-no-kami Tadafusa** As I mentioned in the previous chapter, on August 11, Kan'ei 9, Matsudaira Tonomo-no-kami Tadafusa succeeded his deceased father Matsudaira Tadatoshi and was simultaneously transferred to Kariya in the same province of Mikawa. In exchange, Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo came from Kariya and was enfeoffed as lord of Yoshida Castle. **Mizuno Tadamasa** This Tadakiyo was the grandson of the well-known Mizuno Uemon-no-tayū Tadamasa and the youngest son of Izumi-no-kami Tadashige. Tadamasa was the father of Tokugawa Ieyasu's birth mother, a member of the Mizuno clan. At that time, Tadamasa was also residing at Kariya Castle and died in July of Tenbun 12. However, his heir Nobumoto succeeded the house and began negotiating with Oda Nobuhide of Owari. Since Ieyasu's father Hirotada was at that time an unwavering supporter of the Imagawa clan, he considered this extremely unacceptable behavior and finally divorced his wife of the Mizuno clan, sending her back to Kariya. She remarried into the Hisamatsu family, and as I have mentioned several times before... **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Shimbun **Main Text** **Mizuno Tadashige** ...she later became known as Dentsu-in. This Hayato-no-shō Tadakiyo's father Tadashige was, needless to say, Nobumoto's brother, making him the younger brother. However, the brothers did not get along well, and he lived at a place called Washizuka, constantly belonging to the Tokugawa faction and showing particular loyalty to Ieyasu. Later, in Tenshō 3, when Nobumoto was killed, in the ninth month of Tenshō 8, he came to reside at Kariya Castle, the ancestral land of his forefathers. However, in his later years, for some reason he followed Toyotomi Hideyoshi, and when Ishida Mitsunari raised arms in Keichō 5, he was killed by Kagai Yahachirō Hidemori at Chiryū station at the age of sixty. Tadakiyo was his fourth son and youngest child. In the spring of Keichō 7, he was attached to Tokugawa Hidetada, became head of the palace guard, received noble rank and also served as an announcer, participating in both Osaka campaigns. On April 3, Genna 2, when Ieyasu's illness became critical, he summoned Tadakiyo and granted him Kariya Castle with 20,000 koku, saying it was "the ancestral domain of your forefathers." And now he has finally been transferred to this Yoshida Castle with 40,000 koku. **Tadakiyo's Increase** Soon after, on August 11, Kan'ei 11, there was an increase of 5,000 koku in his domain. Prior to this, on June 20 of that year, Shogun Iemitsu departed Edo for Kyoto. The entourage at that time was quite magnificent - Date Masamune had already departed as the advance guard on the first day of the sixth month, and the total number of daimyo, minor lords, and their retainers was approximately 307,000 men. Mito's Yorifusa-kyō brought up the rear, and the famous Matsudaira Izumi-no-kami Nobutsuna, who had already entered the ranks of senior retainers by this time, directed various matters along the route. **Shogun Iemitsu's Journey to Kyoto** At this time, Shogun Iemitsu lodged at Hamamatsu on the first day of the seventh month, visited Suwa Shrine on the second day and donated 200 koku of new shrine land, and spent that night at Yoshida. **Events During the Stay at Yoshida** Regarding this occasion, the "Tokugawa Jitsuroku" contains the following account: "At the hour of the monkey, he arrived at Yoshida Castle. Castle lord Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo provided entertainment and was granted a Samonji sword. After nightfall, Owari Dainagon Yoshinao-kyō sent his retainer Takekoshi Yamashiro-no-kami Masanobu as a welcoming party. Also, since yesterday Ōta Bitchū-no-kami Sukemune had been sent to inquire about Mito Chūnagon Yorifusa-kyō's health, today an envoy was sent to express gratitude. Also, Takahashi Kyūbē, who had come as an envoy from Ōmiya, went mad at Yoshida and wounded three passersby with his sword. However, since he carried a message from Ōmiya, no one dared approach him. At that time, Kagauri Kai-no-kami Nao... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Hayato-no-shō) 215