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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 122

ページ: 122

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【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十六 【本文】         澄(すみ)御先(おんさき)に登(のぼ)るとて其所(そこ)行(ゆき)かゝりしかば土人(どじん)等(ら)直澄(なほすみ)が従者(じうしや)両(れう)三 人(にん)留(とゞめ)て久兵衛(きうべゑ)を守(まも)らせ給(たま)へと云ふ直(なほ)         澄(すみ)止(やむ)を得(え)ず歩行(ほかう)士人(しじん)三 人留(にんとゞ)めて守(まも)らせしに久兵衛(きうべゑ)又(また)三 人(にん)斬(きつ)てかゝりしかば次太夫(じだいふ)と云(い)ふもの久兵(きうべ)         衛(ゑ)を伐取(きりとり)たり依(よつ)つて直澄(なほすみ)御勘気(ごかんき)を蒙(かうむ)り永井監物(ながゐけんもつ)白元(はくげん)を京(けう)に馳(は)せて此(この)変(へん)を告(つ)げしめらる大内日記(おほうちにつき)による        に久兵衛(きうべゑ)御使(おつかひ)果(はて)て帰(かへ)るさ廿九日の夜(よ)吉田(よしだ)のあなたにて馬夫(ばふ)を切(き)りしにより土人(どじん)多勢(たせい)起(おこ)りて取囲(とりかこ)みし         処(ところ)へ加賀瓜(かがうり)行(ゆき)かゝりしが是(これ)を見(み)て加賀瓜(かがうり)が家士(かし)久兵衛(きうべゑ)を伐(き)りしとあり 家光の皈還  而(しか)して其(その)帰還(きくわん)の時(とき)は如何(いかゞ)であつたかと云ふに将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は其(その)年(とし)八月十日に岡崎(をかざき)在(ざい)の伊賀(いが)八 幡(まん)に百 石(こく)の加(か)        増地(ぞうち)を寄付(きふ)し十一日に此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのであるが此(この)日(ひ)に隼人正(はやとのせう)に五千 石(ごく)を加増(かぞう)したと云(い)ふことが紀年録(きねんろく)        並(ならび)に寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を引(ひ)いて徳川実記(とくがはじつき)に記載(きさい)してある然(しか)るに藩翰譜(はんかんふ)には此(この)加増(かぞう)の事を此(この)年(とし)の十月十七       日であると記(しる)してある其(その)相違(さうゐ)は何(なに)によつて来(きた )つたものか能(よ)く分(わか)らぬが私(わたくし)は今(いま)徳川実記(とくがはじつき)の記(き)する処(ところ)に従(したが)       はむと欲(ほつ)するものである 《割書:寛永新銭の|鋳造》  サテ其(その)翌年(よくねん)幕府(ばくふ)は江戸(えど)及(およ)び近江(あふみ)の坂本(さかもと)で新銭(しんせん)を鋳造(ちうざう)し十三年の七月から之(これ)を一 般(ぱん)の通用銭(つうようせん)として旧銭(きうせん)       と引替(ひきか)へしめたが之(これ)が即(すなは)ち寛永通宝(かんえいつうほう)である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の執政(しつせい)は土井大炊頭利勝(どゐおほいのかみとしかつ)と酒井讃岐守忠勝(さかゐさぬきのかみたゞかつ)とで之(これ) 《割書:松平伊豆守|信綱》  に十年の五月から前(まへ)に述(の)べた松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)と阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみたゞあき)、 堀田加賀守正盛(ほつたかがのかみまさもり)の三 人(にん)が加(くは)はつて事       を総攬(そうらん)して居つたのであるが其(その)通用(つうよう)が未(いま)だに分(ぶん)に周(あまね)からぬ処(ところ)があると云ふので十四年八月 更(さら)に鋳銭所(ちうせんじよ)       を諸国(しよこく)に置(お)いて新銭(しんぜん)を鋳(い)せしめたのである其(その)時(とき)の公文(こうぶん)に        銭 鋳 所  水  戸   仙  台   吉  田   松  本   高  田               長  門   備  前   豊  後  中川内膳領内        一 只今迄(たゞいままで)仰付候分(おほせつけそろぶん)ニテハ諸方(しよはう)へ弘(ひろま)り兼候之間(かねそろのあひだ)代物(だいもの)沢山(たくさん)鋳(い)サセ其(その)国(くに)ハ勿論(もちろん)他国(たこく)ヘモ御定(おさだめ)ノ如(ごと)ク金(きん)壱 両(れう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百九十六号附録  (明治四十五年二月二十七日発行) 【本文】         ニ四 貫文(くわんもん)壱 分(ぶ)ニ壱 貫文(くわんもん)宛(づゝ)払候様(はらひそろやう)ニ可申付候(もをしつくべくそろ)        一 寛永(かんえい)之(の)新銭(しんせん)本(もと)ヲ越候而(こへそろて)如此(かくのごとく)イタサセ可申事(もをすべくこと)        一 銭鋳申候者(ぜにいもをしそろもの)聞立(きゝたて)領内(れうない)勝手(かつて)ヨキ所々(ところ〴〵)ニ而 可被申付候事(もをしつけられべくそろこと)          寛永十四年丑八月       とあつて此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)でも新銭(しんぜん)を鋳(い)たものであるが此処(こゝ)で鋳(い)た銭(ぜに)の何文(なんもん)かの数(かず)を取(と)る為(ため)に特(とく)に絵銭(ゑぜに)を鋳(い) 吉田の駒曳 たのが彼(か)の吉田(よしだ)の駒曳(こまひき)と云ふ有名(ゆうめい)なる銭(ぜに)であると云ふ事である而(しか)して其(その)鋳銭(ちうせん)の場所(ばしよ)は今(いま)の新銭町(しんせんまち)であ 新銭町   るが其(その)銭(ぜに)の鋳型(いがた)が先年(せんねん)まで鈴木延路氏方(すゞきのぶぢしかた)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)つたと云ふ話(はなし)がある然(しか)るに今(いま)ドウしてもそれ       が見当(みあた)らぬのは誠(まこと)に遺憾至極(ゐかんしごく)であると思(おも)ふ而(しか)して其(その)年(とし)の十月には例(れい)の肥後(ひご)天草(あまくさ)の一 揆(き)が起(おこ)つたのであ       るが之(これ)が翌年(よくねん)の二月までかゝつてヨウ〳〵平定(へいてい)したのである此(この)時(とき)彼(か)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が打手(うちて)の大将(たいせう)と       して向(むか)つた事は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)りであるが此(この)事(こと)は何(いづ)れの後(のち)に大河内家(おほかうちけ)の事を申述(もうしの)ぶる時(とき)に尚(なほ)御話(おはなし)する 《割書:吉田大橋の|架替》   機会(きくわい)があることと思(おも)ふサテ又(ま)た其(その)十八年には此(この)豊川(とよかは)の大橋(おほはし)の架替(かけかへ)があつたのであるが宝暦中(ほうれきちう)船町(ふなまち)の記録(きろく)       には        寛永十八年丑年        一御掛直シ無仮橋古橋御用                               御  城  主                                   水 野 隼 人 正 様 御 代      と書(か)いてあるのである然(しか)るに此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十一年で寛永(かんえい)十九年九月六日(《割書:藩翰|譜》)更(さら)に 《割書:忠清松本に|移封せらる》   加増(かぞう)になつて同時(どうじ)に信濃国(しなのゝくに)松本城(まつもとじよう)七万石に移封(いほう)せられたのであるが其(その)後(のち)に移(うつ)り来(きた)つて此(この)城主(じようしゆ)となつた 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十六 【本文】 澄が御先に登るということでそこを行きかかったところ、土人等が直澄の従者二、三人を留めて「久兵衛を守らせ給え」と言った。直澄は止むを得ず歩行士人三人を留めて守らせたが、久兵衛がまた三人を斬ってかかったので、次太夫という者が久兵衛を斬り取った。これによって直澄は御勘気を蒙り、永井監物白元を京に走らせてこの変を告げさせられた。大内日記によると、久兵衛は御使の用を果たして帰る際、二十九日の夜吉田のあたりで馬夫を切ったため、土人が多勢起こって取り囲んだ処へ加賀瓜が行きかかり、これを見て加賀瓜の家士が久兵衛を斬ったとある。 家光の帰還 そしてその帰還の時はどうであったかというと、将軍家光はその年八月十日に岡崎在の伊賀八幡に百石の加増地を寄付し、十一日にこの吉田に着したのであるが、この日に隼人正に五千石を加増したということが『紀年録』並びに『寛政重修諸家譜』を引いて『徳川実記』に記載してある。しかるに『藩翰譜』にはこの加増のことをこの年の十月十七日であると記してある。その相違は何によって来たものかよく分からないが、私は今『徳川実記』の記する処に従おうと思うものである。 寛永新銭の鋳造 さてその翌年、幕府は江戸及び近江の坂本で新銭を鋳造し、十三年の七月からこれを一般の通用銭として旧銭と引き替えさせたが、これが即ち寛永通宝である。当時幕府の執政は土井大炊頭利勝と酒井讃岐守忠勝とで、これに十年の五月から前に述べた松平伊豆守信綱と阿部豊後守忠秋、堀田加賀守正盛の三人が加わって事を総攬していたのであるが、その通用がまだに分に周からぬ処があるというので、十四年八月更に鋳銭所を諸国に置いて新銭を鋳させたのである。その時の公文に  銭 鋳 所  水  戸   仙  台   吉  田   松  本   高  田         長  門   備  前   豊  後  中川内膳領内  一 只今まで仰せ付け候分にては諸方へ広まりかね候の間、代物沢山鋳させ、その国は勿論他国へも御定めの如く金壱両 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百九十六号附録  (明治四十五年二月二十七日発行) 【本文】 に四貫文、壱分に壱貫文宛払い候様に申し付けるべく候 一 寛永の新銭本を越え候てかくの如くいたさせ申すべきこと 一 銭鋳し申し候者聞き立て、領内勝手よき所々にて申し付けらるべく候こと   寛永十四年丑八月 とあって、この時この吉田でも新銭を鋳たものであるが、ここで鋳た銭の何文かの数を取るために特に絵銭を鋳たのが、彼の吉田の駒曳という有名なる銭であるということである。 吉田の駒曳 そしてその鋳銭の場所は今の新銭町であるが、その銭の鋳型が先年まで鈴木延路氏方の蔵に残っていたという話がある。 新銭町 しかるに今どうしてもそれが見当たらないのは誠に遺憾至極であると思う。そしてその年の十月には例の肥後天草の一揆が起こったのであるが、これが翌年の二月までかかってようやく平定したのである。この時彼の松平伊豆守信綱が討手の大将として向かったことは諸君が御承知の通りであるが、この事はいずれ後に大河内家のことを申し述べる時になお御話しする機会があることと思う。 吉田大橋の架替 さてまたその十八年にはこの豊川の大橋の架替があったのであるが、宝暦中船町の記録には  寛永十八年丑年  一御掛直し無仮橋古橋御用                    御  城  主                       水 野 隼 人 正 様 御 代 と書いてあるのである。しかるにこの隼人正忠清のこの地在城は僅かに十一年で、寛永十九年九月六日(『藩翰譜』)更に加増になって同時に信濃国松本城七万石に移封されたのであるが、その後に移り来たってこの城主となった 【欄外】 豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Hayato-no-shō) 216 **Main Text** ...sumi was about to proceed ahead when he passed by that place, the local people detained two or three of Naosumi's retainers and said "Please have Kyūbē protected." Naosumi had no choice but to leave three foot soldiers to guard him, but when Kyūbē again attacked and cut down three men, someone called Jidayū killed Kyūbē. As a result, Naosumi incurred the shogun's displeasure, and Nagai Kenbutsu Hakugen was sent rushing to Kyoto to report this incident. According to the Ōuchi Diary, when Kyūbē was returning after completing his mission as an envoy, on the night of the 29th he cut down a horse handler near Yoshida, causing many local people to rise up and surround him. When Kagauri happened to pass by and saw this, Kagauri's retainer cut down Kyūbē. **Iemitsu's Return** As for what happened during the return journey, Shogun Iemitsu donated 100 koku of additional land to Iga Hachiman in Okazaki on August 10 of that year, and arrived at Yoshida on the 11th. On this day, he granted Hayato-no-shō an increase of 5,000 koku, as recorded in the Tokugawa Jitsuroku, citing the Kinenroku and Kansei Chōshū Shokafu. However, the Hankanfu records this increase as occurring on October 17 of that year. I do not clearly understand what caused this discrepancy, but I intend to follow what is recorded in the Tokugawa Jitsuroku. **Casting of Kan'ei New Coins** The following year, the shogunate cast new coins in Edo and Sakamoto in Ōmi Province, and from the seventh month of Kan'ei 13, these were used as general currency in exchange for old coins - these were the Kan'ei Tsūhō. At that time, the shogunate's administrators were Doi Ōi-no-kami Toshikatsu and Sakai Sanuki-no-kami Tadakatsu, and from the fifth month of the 10th year, the three men previously mentioned - Matsudaira Izumi-no-kami Nobutsuna, Abe Bungo-no-kami Tadaaki, and Hotta Kaga-no-kami Masamori - joined them in overseeing affairs. However, since there were still areas where circulation had not fully spread, in the eighth month of the 14th year, minting offices were established in various provinces to cast new coins. The official document at that time stated: Coin Minting Offices: Mito, Sendai, Yoshida, Matsumoto, Takada, Nagato, Bizen, Bungo, within Nakagawa Naizen's domain 1. Since the amounts ordered until now are insufficient for widespread distribution, large quantities should be minted, and not only in those provinces but also in other provinces, payments should be made at the established rate of 4 kan-mon per gold ryō... **Left Page** **Margin:** Sanyō Shimbun No. 3996 Supplement (Published February 27, Meiji 45) **Main Text** ...and 1 kan-mon per 1 bu should be paid. 1. The new Kan'ei coins should exceed the original amount and be made in this manner. 1. Those who cast coins should be selected and appointed at suitable locations within their domains. Kan'ei 14, eighth month of the year of the ox At this time, new coins were also cast at Yoshida, and in order to count the coins produced here, special pictorial coins were cast - these are the famous "Yoshida no Komahiki" coins. **Yoshida no Komahiki** The location of this coin casting was in present-day Shinsen-machi, and there is a story that the coin molds remained in the storehouse of the Suzuki Nobuji family until recent years. **Shinsen-machi** However, the fact that these can no longer be found anywhere is truly most regrettable. In October of that year, the famous Higo Amakusa rebellion broke out, which took until February of the following year to finally suppress. At this time, the aforementioned Matsudaira Izumi-no-kami Nobutsuna went as the commanding general of the suppression force, as you all know, but I believe there will be opportunities to discuss this matter further when I later describe the Ōkōuchi family. **Reconstruction of Yoshida Great Bridge** Also, in the 18th year, the great bridge over the Toyokawa was reconstructed. According to records from Funa-machi during the Hōreki period: Kan'ei 18, year of the ox 1. Reconstruction without temporary bridge, old bridge construction Castle Lord Mizuno Hayato-no-shō-sama's Era However, this Hayato-no-shō Tadakiyo's residence at this location lasted only eleven years, and on September 6, Kan'ei 19 (according to the Hankanfu), he received a further increase and was simultaneously transferred to Matsumoto Castle in Shinano Province with 70,000 koku. The one who subsequently came to become lord of this castle... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Hayato-no-shō) 217